663 / 1,268
第29話
(8)
しおりを挟む
板張りの薄暗い部屋には、ベッドやテーブルセット、テレビにエアコンだけではなく、クローゼットまで揃っており、他の部屋とは明らかに様子が違う。
「特別なお客さんが使う部屋です。クローゼットの中に、サイズはバラバラですが、クリーニングした服がいろいろ揃っているので、自由に使ってください。それと――」
家の中での行動は自由だが、外には出ないようにと、何度も念を押された。そもそも、動き回る気力もなく、ドアが閉まるのを待ってから、和彦はぐったりとベッドに腰掛ける。
まだ一日が終わったわけではないが、今日は大変だったと、改めて実感していた。
英俊と交わした会話を思い返そうとしたが、頭の動きは鈍く、記憶が上手く繋がらない。ここで和彦は、自分がまだジャケットも脱いでいないことを思い出した。
億劫ながらも一旦立ち上がり、脱いだジャケットとネクタイをイスの背もたれにかける。ついでに窓の外に視線を向けてみたが、家の前の様子ぐらいしか見えなかった。
ふらふらとベッドに戻り、そのまま横になる。その瞬間、自分が肉体的にも精神的にも、ひどく疲弊しているのだと思い知らされた。もう、起き上がるどころか、目を開けることもできない。
賢吾に連絡しなければと思いながらも、抵抗する間もなく、和彦の意識はスウッと暗いところへと引きずり込まれていた。
瞼越しに光が差し込んできて、和彦はビクリと体を震わせる。詰めた息をゆっくりと吐き出しながら目を開けると、なぜか、よく見知った顔が目の前にあった。電気の明かりがまぶしくて、数回瞬きを繰り返す。
「――……何、してるんだ……」
ぼんやりとした意識のまま問いかけると、相手は、ヤクザらしくない優しい笑みを浮かべた。
「先生の寝顔を見ようとしていたんですよ」
「……つまらないぞ、見ても」
和彦の返答に、中嶋が短く噴き出す。
「どんなときでも、先生は先生ですね。マイペースというか、危機感がないというか」
危機感、と口中で反芻してから、自分が置かれた状況を思い出す。途端に、一気に気分が沈み込んだ。
緩慢な動作で体を起こしたところで和彦は、ワイシャツがじっとりと湿っていることを知る。部屋が異常に高温というわけではないが、変な寝方をしていたせいか、寝汗をかいたようだ。
「しかし、ここには初めて来ましたけど、まだ夕方だというのに、天気のせいもあってか、道が真っ暗でしたね。そのうえカーブも多いから、運転しながらヒヤヒヤしましたよ」
そう言って中嶋が、ボストンバッグを和彦に差し出してくる。反射的に受け取っていた。
「これは……」
「長嶺組の方から、これを先生に渡してほしいと頼まれました。着替えなどが入っているようです。それと、長嶺組長からは、これを」
さらに中嶋が差し出したのは、白い紙袋だった。和彦は苦笑を洩らしつつ受け取る。いかにも、賢吾らしい気遣いだと思ったからだ。
「うちの先生は繊細で、いろいろ大変だろうから、というようなことを、長嶺組長がおっしゃってましたよ」
「どんな顔をして言ったか、なんとなく想像できるな。――これは安定剤だ。ときどき、どうしても精神的にダメなときは飲んでいるんだ。……あまり頼りたくはないけど」
ため息をついた和彦は髪を掻き上げる。そして何げなく中嶋に尋ねた。
「君は、今夜はここに泊まるのか?」
中嶋は申し訳なさそうな顔となって首を横に振る。
「できることならそうしたかったんですが、先生に荷物を渡せたので、これで帰ります。ここに宿泊するのは、目立つのを避けるためにも最小限の人数で、と言われているんです」
「だったら、ぼくも連れて帰ってくれ」
和彦のわがままを、中嶋は笑って受け流す。もちろん和彦は、本気で言ったわけではない。ようやく自分の前に親しい人物が現れて、少し甘えてみただけだ。
「……ああ、そうだ。組長に連絡を入れないと……」
「電話は、玄関の横にありましたよ」
「いや、携帯が――」
ふと和彦は、ここがどんな場所なのか思い出す。嫌な予感に眉をひそめつつ、中嶋に確認した。
「もしかしてここは、携帯が通じないのか?」
「と、俺は認識しています。そもそもここが重宝されているのは、容易に連絡が取れない環境だからです。身を潜めている人が、自分の家族や愛人にこっそり電話をかけて、そこから居場所が知られるなんて事態は、間が抜けてますからね。でも先生は、堂々と下の電話を使って話せばいいじゃないですか」
「人の耳を気にしながら、ぼくが兄の前で見せた醜態を、組長に話して聞かせるのは……、ちょっとな」
「特別なお客さんが使う部屋です。クローゼットの中に、サイズはバラバラですが、クリーニングした服がいろいろ揃っているので、自由に使ってください。それと――」
家の中での行動は自由だが、外には出ないようにと、何度も念を押された。そもそも、動き回る気力もなく、ドアが閉まるのを待ってから、和彦はぐったりとベッドに腰掛ける。
まだ一日が終わったわけではないが、今日は大変だったと、改めて実感していた。
英俊と交わした会話を思い返そうとしたが、頭の動きは鈍く、記憶が上手く繋がらない。ここで和彦は、自分がまだジャケットも脱いでいないことを思い出した。
億劫ながらも一旦立ち上がり、脱いだジャケットとネクタイをイスの背もたれにかける。ついでに窓の外に視線を向けてみたが、家の前の様子ぐらいしか見えなかった。
ふらふらとベッドに戻り、そのまま横になる。その瞬間、自分が肉体的にも精神的にも、ひどく疲弊しているのだと思い知らされた。もう、起き上がるどころか、目を開けることもできない。
賢吾に連絡しなければと思いながらも、抵抗する間もなく、和彦の意識はスウッと暗いところへと引きずり込まれていた。
瞼越しに光が差し込んできて、和彦はビクリと体を震わせる。詰めた息をゆっくりと吐き出しながら目を開けると、なぜか、よく見知った顔が目の前にあった。電気の明かりがまぶしくて、数回瞬きを繰り返す。
「――……何、してるんだ……」
ぼんやりとした意識のまま問いかけると、相手は、ヤクザらしくない優しい笑みを浮かべた。
「先生の寝顔を見ようとしていたんですよ」
「……つまらないぞ、見ても」
和彦の返答に、中嶋が短く噴き出す。
「どんなときでも、先生は先生ですね。マイペースというか、危機感がないというか」
危機感、と口中で反芻してから、自分が置かれた状況を思い出す。途端に、一気に気分が沈み込んだ。
緩慢な動作で体を起こしたところで和彦は、ワイシャツがじっとりと湿っていることを知る。部屋が異常に高温というわけではないが、変な寝方をしていたせいか、寝汗をかいたようだ。
「しかし、ここには初めて来ましたけど、まだ夕方だというのに、天気のせいもあってか、道が真っ暗でしたね。そのうえカーブも多いから、運転しながらヒヤヒヤしましたよ」
そう言って中嶋が、ボストンバッグを和彦に差し出してくる。反射的に受け取っていた。
「これは……」
「長嶺組の方から、これを先生に渡してほしいと頼まれました。着替えなどが入っているようです。それと、長嶺組長からは、これを」
さらに中嶋が差し出したのは、白い紙袋だった。和彦は苦笑を洩らしつつ受け取る。いかにも、賢吾らしい気遣いだと思ったからだ。
「うちの先生は繊細で、いろいろ大変だろうから、というようなことを、長嶺組長がおっしゃってましたよ」
「どんな顔をして言ったか、なんとなく想像できるな。――これは安定剤だ。ときどき、どうしても精神的にダメなときは飲んでいるんだ。……あまり頼りたくはないけど」
ため息をついた和彦は髪を掻き上げる。そして何げなく中嶋に尋ねた。
「君は、今夜はここに泊まるのか?」
中嶋は申し訳なさそうな顔となって首を横に振る。
「できることならそうしたかったんですが、先生に荷物を渡せたので、これで帰ります。ここに宿泊するのは、目立つのを避けるためにも最小限の人数で、と言われているんです」
「だったら、ぼくも連れて帰ってくれ」
和彦のわがままを、中嶋は笑って受け流す。もちろん和彦は、本気で言ったわけではない。ようやく自分の前に親しい人物が現れて、少し甘えてみただけだ。
「……ああ、そうだ。組長に連絡を入れないと……」
「電話は、玄関の横にありましたよ」
「いや、携帯が――」
ふと和彦は、ここがどんな場所なのか思い出す。嫌な予感に眉をひそめつつ、中嶋に確認した。
「もしかしてここは、携帯が通じないのか?」
「と、俺は認識しています。そもそもここが重宝されているのは、容易に連絡が取れない環境だからです。身を潜めている人が、自分の家族や愛人にこっそり電話をかけて、そこから居場所が知られるなんて事態は、間が抜けてますからね。でも先生は、堂々と下の電話を使って話せばいいじゃないですか」
「人の耳を気にしながら、ぼくが兄の前で見せた醜態を、組長に話して聞かせるのは……、ちょっとな」
29
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…



塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる