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第29話
(7)
しおりを挟むまだ午後三時にもなっていないというのに、和彦が車から降りたとき、日暮れかと錯覚するほど辺りは薄暗かった。
すかさず差しかけられた傘に雨が落ちる音がする。鬱陶しいほどの湿気は覚悟していたが、街中で生活していてはまず嗅ぐことのない、青草と土の匂いが立ちこめていた。
移動の間中、後部座席はカーテンで覆われていたため、外の様子がよくわからなかったのだが、ようやく和彦は周囲をじっくりと見渡すことができる。山間の、木々に囲まれた場所だった。天気のせいだけではないだろう。なんとなく、鬱蒼とした景色だと思った。
少なくとも、活気はない。なんといっても、和彦の目の前に建つ一軒家以外、辺りに人家が見当たらないのだ。当然のように、人も車もまったく通っていない。とにかく静かで、総和会の男たちがぼそぼそと交わす会話は、重苦しい静寂を打ち破るほどの威力はない。
日常から切り離されたような――という表現が、ふと和彦の脳裏に浮かぶ。観光地として、あえて静かな環境を保っているという様子はなく、ここは普段、人が立ち入らないような場所なのだろう。
だからこそ、身を隠すにはうってつけだ。
和彦はそっと息を吐き出すと、傘を差しかけている男に短く問いかける。
「ここが?」
「はい。佐伯先生には日曜日まで、ここで過ごしてもらいます。不便でしょうが、我慢してください」
和彦はもう一度息を吐き出して、車中で受けた説明を思い返す。
デパートの地下駐車場で車に乗り込んだあと、一旦身を隠してもらうと言われたものの、どんなところに連れて行かれるのかと不安でたまらなかったのだが、いざ目的地に連れて来られると、不安が解消されるどころか、新たな不安が募る。
長嶺組から、和彦の護衛を完全に引き継いだ総和会の目的は、理解したつもりだ。和彦と長嶺組の繋がりを、佐伯家に知られる事態は避けなければならない。
そのため、英俊と別れた和彦に尾行がついていれば、長嶺組は一旦手を引き、和彦の身を総和会に委ねることにしたのだという。これは、総和会という仕組みに関係がある。
総和会に名を連ねる十一の組の誰かが犯罪を犯して逮捕されたとき、組の名が表に出ることはほとんどない。公表されるのは、総和会という組織の名だ。総和会は十一の組の互助会として泥を被り、組の名を守るのだ。そして今回、総和会は、長嶺組への追跡の手が及ばぬよう、動いたのだという。
守光と、和彦の父である俊哉はまったく知らぬ者同士ではなく、わずかでも組の存在を匂わせるのは危険だと判断したのかもしれない。説明を受けながら和彦は、そう考えてみたのだが、もちろん守光に連絡を取って確認したわけではない。
総和会が決定を下し、長嶺組が従ったのなら、それがすべてだ。和彦に異を唱える権利はなかった。
和彦が滞在することになるという〈隠れ家〉は、一見して古い木造の二階建てだ。ただ、通常の住宅というには全体の造りが大きく、民宿でも営んでいるのだろうかと思ったが、それにしては、場所が場所だ。
促されるまま建物に歩み寄った和彦はここで初めて、建物の傍らに石造りの階段があり、下に伸びていることに気づいた。思わず覗き込むと、おもしろみのない口調で男が教えてくれた。
「昔、山をもっと上がったところで大きな工事をしていたことがあって、この家は飯場として使っていたんですよ。階段を下りた先に別棟があったようですけど、うちが買い取ったときにはもう潰した後でした。今じゃ、この辺りを通るのは、山奥から切り出した木を運ぶトラックぐらいで、寂れたところです」
だから、人が身を潜めるにはちょうどいいということだ。
和彦は心の中でひっそり呟いてから、玄関に入った。梅雨のせいなのか、あまり換気していないのか、微かなかび臭さが鼻につく。ただ全体の内装は、古い木造のわりにきれいにしており、荒れた様子はない。普段、どんな人間が、どんな目的で利用しているのかは知らないが、手入れはしているようだ。
靴からスリッパに履き替え、男に家の中を簡単に案内してもらうことになったが、中の造り自体は非常にわかりやすい家だった。
和彦はまず一階を見て回る。元飯場というだけあって広い厨房があるが、残念ながら使っている様子はなく、活躍しているのは冷蔵庫と電子レンジだけのようだ。テーブルの上には、スーパーで買い込んできたらしい、食材の入った袋が大量に置いてあった。
別の部屋には、真新しい布団を数組積み上げてあり、一体何人が泊まり込むのかと思ったが、気疲れが増すのが嫌で黙っておいた。
二階にもいくつかの部屋があったが、どれもドアを開けたままになっており、中はガランとしていた。一番奥が和彦のために用意された部屋だということで、おそるおそる覗いてみる。
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