血と束縛と

北川とも

文字の大きさ
上 下
661 / 1,267
第29話

(6)

しおりを挟む



 歩くごとに、靴の裏から水が染み込んでくるかのように、足取りが重かった。さらに、ムッとするような湿気が体中にまとわりついてくる。とにかく、何もかもが不快だった。
 急き立てられるように速足のせいか、さきほどのレストランでのやり取りのせいか、和彦の息遣いは荒く、心なしか頭が痛い。
 雨で濡れた髪を掻き上げた和彦は、左頬に触れる。すでに痛みはないが、少しだけ熱を帯びている。ここであることに気づき、自分の手を見る。微かに震えていた。正直、殴られることは想定していたが、喉元に手をかけられたことには衝撃を受けた。当然、英俊は本気ではなかっただろうが、脅しとしては効果的だ。
 子供の頃、英俊からさんざん与えられた痛みの記憶が一気に噴き出してきて、気分が悪い。意識した途端、その場で嘔吐してしまいそうだ。
 なのに和彦は、歩くのをやめられない。立ち止まった瞬間、英俊に背後から腕を捕まれそうな恐怖があった。もしかすると、本当に英俊が背後から尾行してきているのかもしれないが、振り返って確認することもできない。
 傘を差して歩いている人たちの間を縫うようにして、ひたすら前を見据えて歩き続けるのが精一杯だ。
 長嶺組の組員からは、英俊と別れたあと、タクシーを数回乗り換えてほしいと言われていた。佐伯家が尾行をつけていないか確認してからでないと、迂闊に和彦と接触できないのだ。
 本当はホテルのエントランスからすぐにタクシーに乗り込みたかったが、天候のせいでタクシー待ちの客が並んでおり、悠長に列に加わる気にはなれなかった。歩き出してはみたものの、通りを走るタクシーはほとんど客を乗せている。
 少し座って休みたいと思い、慎重に周囲を見回す。すると突然、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴った。一瞬、英俊かと思って動揺しかけたが、すぐに思い直す。着信音は、組などとの連絡に使っている携帯電話のものだ。
「もしもし――」
『佐伯先生、尾行がついています。このまま真っ直ぐ行って、その先にあるデパートの地下二階の駐車場に降りてください。それと、後ろは振り返らないで』
 聞き覚えのない声に、和彦の頭は混乱する。
「誰だ?」
『今日先生を護衛している総和会の者です。さきほどから先生の護衛を、長嶺組から完全に引き継ぎました』
 本当なのかと問いかけたかったが、その前に電話は切られる。長嶺組と連絡を取って確認したかったが、尾行がついていると聞かされて、和彦は落ち着いてはいられなかった。歩きながら携帯電話を操作しようとしたが、指先が強張って上手く動かない。その間に何度も人とぶつかりそうになり、避けているうちにデパート前へと到着する。ここまでくると、躊躇している間はなかった。
 デパートに入ると、女性洋品ばかりの一階の売り場を見るふりをしながらフロアを歩き回り、さりげなくエスカレーターで地下一階に移動する。こちらも同じように歩き回ってから、タイミングを見計らってエレベーターに駆け込み、指示された通り駐車場へと向かう。
 頻繁に車が行き来している駐車場で、和彦は困惑する。この広いスペースの中、自分はどこに行けばいいのかと思ったのだ。エレベーターのすぐ側に立っていると、今にも扉が開いて英俊が姿を見せそうで、とりあえず歩き出す。
 車が傍らを走りすぎるたびに緊張していたが、それも長くは続かない。とにかく和彦は、疲労感に苛まれていた。
 大きくため息をついて、足を止める。すると、駐車場内のどこかで車が乱暴に発進した鋭い音が、辺りに反響する。嫌な予感に和彦が眉をひそめると同時に、シルバーのバンがやってきて、ぴったりと傍らに停まった。
 後部座席のスライドドアが開き、総和会本部で見かけたことのある男が身を乗り出すようにして、和彦に手招きをした。
「乗ってください」
 ためらいに、すぐには足が動かなかった。総和会と長嶺組の間にどんなやり取りがあったのかわからないまま、状況に流されていいのかと思ったのだ。
 しかし、男に強い口調でもう一度呼ばれ、和彦は従うしかなかった。

しおりを挟む
感想 79

あなたにおすすめの小説

もう人気者とは付き合っていられません

花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。 モテるのは当然だ。でも――。 『たまには二人だけで過ごしたい』 そう願うのは、贅沢なのだろうか。 いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。 「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。 ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。 生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。 ※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中

泣くなといい聞かせて

mahiro
BL
付き合っている人と今日別れようと思っている。 それがきっとお前のためだと信じて。 ※完結いたしました。 閲覧、ブックマークを本当にありがとうございました。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

心からの愛してる

マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。 全寮制男子校 嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります ※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください

ヤクザと捨て子

幕間ささめ
BL
執着溺愛ヤクザ幹部×箱入り義理息子 ヤクザの事務所前に捨てられた子どもを自分好みに育てるヤクザ幹部とそんな保護者に育てられてる箱入り男子のお話。 ヤクザは頭の切れる爽やかな風貌の腹黒紳士。息子は細身の美男子の空回り全力少年。

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

目が覚めたら囲まれてました

るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。 燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。 そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。 チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。 不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で! 独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。

公爵家の五男坊はあきらめない

三矢由巳
BL
ローテンエルデ王国のレームブルック公爵の妾腹の五男グスタフは公爵領で領民と交流し、気ままに日々を過ごしていた。 生母と生き別れ、父に放任されて育った彼は誰にも期待なんかしない、将来のことはあきらめていると乳兄弟のエルンストに語っていた。 冬至の祭の夜に暴漢に襲われ二人の運命は急変する。 負傷し意識のないエルンストの枕元でグスタフは叫ぶ。 「俺はおまえなしでは生きていけないんだ」 都では次の王位をめぐる政争が繰り広げられていた。 知らぬ間に巻き込まれていたことを知るグスタフ。 生き延びるため、グスタフはエルンストとともに都へ向かう。 あきらめたら待つのは死のみ。

処理中です...