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第29話
(3)
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「間違いなく、お前の失踪には協力者がいる。大胆だが警戒心が強く、世の中の仕組みがよくわかっている人物――。去年のクリスマス時期に、ツリーの前にいたお前は、男を伴っていた。そして、先日わたしが電話したとき、若い男の声がした。どっちがお前に手を貸している? それとも、両方か?」
このとき英俊の目に軽蔑の色が浮かんだことを、和彦は見逃さなかった。画像を見ている英俊は、和彦が男と関係を持っていることを当然把握している。どちらの男と関係を持っているのだろうかと、質問と同時に想像したのかもしれない。
英俊のペースになりかけていることに危機感を覚え、足元を搦め捕られそうな怖さを断ち切るために和彦は立ち上がる。英俊に背を向けて告げた。
「――ぼくは今日、現状を説明するためにここに来たわけじゃない。そちらの目的を聞くためだ」
「そちら、か。言うようになったな、お前も」
「いつまでも、兄さんに逆らわず、殴られ続ける人形でいるはずがないだろう」
「だが今でも、わたしが怖いだろう?」
背後から急に腕を掴まれ、和彦は飛び上がらんばかりに驚き、振り返る。本能的な反応から、目を見開いたまま顔が強張っていた。そんな和彦を見て、英俊はひどく楽しげに唇を緩めた。思った通りだ、と言わんばかりに。
大人になってどれだけ距離を置こうとも、物心ついた頃から体と心に刻み付けられていた〈痛み〉の記憶は、簡単には消え去らない。絶対に打ち明けられない後ろ暗さを抱えているためか、もしかすると子供の頃よりも和彦は、臆病になっているかもしれない。
この時点で、和彦がささやかに保っていた主導権は、英俊に移っていた。
「本題は、場所を移して話してやる」
「……ここからは動かない」
「そうは言っても、雨が降り出したぞ」
英俊の指摘を受けて、和彦は頭上を見上げる。確かに、ぽつぽつとではあるが雨が降っていた。空の様子からして、これから降りが強くなりそうだ。
和彦がきつい眼差しを向けると、鼻先で笑った英俊が軽くあごをしゃくる。
「そこの通りでタクシーを捕まえる。もう昼だから、ちょうどいい。少し行ったところに、仕事関係でよく使っているレストランがあって、多少無理がきく。ゆっくり話ができるよう、個室を使わせてもらおう」
昼食時に、いくら上得意とはそんなワガママが通るのだろうかと思った和彦だが、すぐに、あらかじめ英俊が予約を入れていたのだと気づく。待ち合わせ場所が決まってから、和彦が何を言おうが自分に有利なようにことを運ぶつもりだったのだ。
言い争いを始める前に、あっという間に雨の降りが強くなり、公園を通る人たちが小走りとなる。どこか雨宿りができるところをと思って見回してみても、それらしいスペースはない。
自分なりに熟考したうえでこの場所を選んだのだが、どうやら裏目に出たようだ。肝心なところで自分は間が悪いと、ちらりと自嘲の笑みを洩らした和彦は、次の瞬間には警戒心も露わに英俊に言った。
「まさか、その店に誰か待機させているなんてことは――」
「お前に暴れられても困るから、それはやめておいた」
澄ました顔で答えた英俊が歩き出し、和彦は向けられた背を睨みつける。本当は、足が竦んでいた。このままついて行っていいのだろうかと逡巡したが、そんな和彦の弱気を見透かしたように、肩越しに振り返った英俊に指先で呼ばれる。
和彦は短く息を吐き出すと、思いきって足を踏み出した。
あのまま公園に残っていれば、今頃ずぶ濡れになっていただろうなと、大きな窓ガラスを叩きつけるように降っている雨の勢いに、和彦はぼんやりそんなことを考えていた。
高級ホテル内にあるレストランの個室は、二人だけで使うにはもったいほどの広さだった。盛り上がる会話が交わされるわけでもなく、外の雨音が響くこともなく、胃が痛くなるような静寂がさきほどから続いている。
間がもたない和彦は、雨に包まれた街並みをただ眺めていた。普段であれば喜んで舌鼓を打っているであろう美味しそうなランチも、食欲がまったくないせいで手をつける気になれない。
「――久しぶりにお前と会って実感したが、本当にわたしとお前はよく似ている。目の前にいるお前は、六年前のわたしだな」
予想外の会話を振られて、和彦は少々困惑しながら、正面に視線を戻す。和彦ほどではないにしても、英俊もほとんど食事に手をつけることなく、どうやらさきほどから、外の景色を眺める和彦を観察していたようだ。
英俊と目が合い、露骨に顔を背けることもできない和彦は、じっと見つめ返す。眼鏡のレンズを通しても一向に損なわれることのない、怜悧で鋭い目は、不思議な魅力がある。怖いくせに、覗き込みたくなるのだ。
このとき英俊の目に軽蔑の色が浮かんだことを、和彦は見逃さなかった。画像を見ている英俊は、和彦が男と関係を持っていることを当然把握している。どちらの男と関係を持っているのだろうかと、質問と同時に想像したのかもしれない。
英俊のペースになりかけていることに危機感を覚え、足元を搦め捕られそうな怖さを断ち切るために和彦は立ち上がる。英俊に背を向けて告げた。
「――ぼくは今日、現状を説明するためにここに来たわけじゃない。そちらの目的を聞くためだ」
「そちら、か。言うようになったな、お前も」
「いつまでも、兄さんに逆らわず、殴られ続ける人形でいるはずがないだろう」
「だが今でも、わたしが怖いだろう?」
背後から急に腕を掴まれ、和彦は飛び上がらんばかりに驚き、振り返る。本能的な反応から、目を見開いたまま顔が強張っていた。そんな和彦を見て、英俊はひどく楽しげに唇を緩めた。思った通りだ、と言わんばかりに。
大人になってどれだけ距離を置こうとも、物心ついた頃から体と心に刻み付けられていた〈痛み〉の記憶は、簡単には消え去らない。絶対に打ち明けられない後ろ暗さを抱えているためか、もしかすると子供の頃よりも和彦は、臆病になっているかもしれない。
この時点で、和彦がささやかに保っていた主導権は、英俊に移っていた。
「本題は、場所を移して話してやる」
「……ここからは動かない」
「そうは言っても、雨が降り出したぞ」
英俊の指摘を受けて、和彦は頭上を見上げる。確かに、ぽつぽつとではあるが雨が降っていた。空の様子からして、これから降りが強くなりそうだ。
和彦がきつい眼差しを向けると、鼻先で笑った英俊が軽くあごをしゃくる。
「そこの通りでタクシーを捕まえる。もう昼だから、ちょうどいい。少し行ったところに、仕事関係でよく使っているレストランがあって、多少無理がきく。ゆっくり話ができるよう、個室を使わせてもらおう」
昼食時に、いくら上得意とはそんなワガママが通るのだろうかと思った和彦だが、すぐに、あらかじめ英俊が予約を入れていたのだと気づく。待ち合わせ場所が決まってから、和彦が何を言おうが自分に有利なようにことを運ぶつもりだったのだ。
言い争いを始める前に、あっという間に雨の降りが強くなり、公園を通る人たちが小走りとなる。どこか雨宿りができるところをと思って見回してみても、それらしいスペースはない。
自分なりに熟考したうえでこの場所を選んだのだが、どうやら裏目に出たようだ。肝心なところで自分は間が悪いと、ちらりと自嘲の笑みを洩らした和彦は、次の瞬間には警戒心も露わに英俊に言った。
「まさか、その店に誰か待機させているなんてことは――」
「お前に暴れられても困るから、それはやめておいた」
澄ました顔で答えた英俊が歩き出し、和彦は向けられた背を睨みつける。本当は、足が竦んでいた。このままついて行っていいのだろうかと逡巡したが、そんな和彦の弱気を見透かしたように、肩越しに振り返った英俊に指先で呼ばれる。
和彦は短く息を吐き出すと、思いきって足を踏み出した。
あのまま公園に残っていれば、今頃ずぶ濡れになっていただろうなと、大きな窓ガラスを叩きつけるように降っている雨の勢いに、和彦はぼんやりそんなことを考えていた。
高級ホテル内にあるレストランの個室は、二人だけで使うにはもったいほどの広さだった。盛り上がる会話が交わされるわけでもなく、外の雨音が響くこともなく、胃が痛くなるような静寂がさきほどから続いている。
間がもたない和彦は、雨に包まれた街並みをただ眺めていた。普段であれば喜んで舌鼓を打っているであろう美味しそうなランチも、食欲がまったくないせいで手をつける気になれない。
「――久しぶりにお前と会って実感したが、本当にわたしとお前はよく似ている。目の前にいるお前は、六年前のわたしだな」
予想外の会話を振られて、和彦は少々困惑しながら、正面に視線を戻す。和彦ほどではないにしても、英俊もほとんど食事に手をつけることなく、どうやらさきほどから、外の景色を眺める和彦を観察していたようだ。
英俊と目が合い、露骨に顔を背けることもできない和彦は、じっと見つめ返す。眼鏡のレンズを通しても一向に損なわれることのない、怜悧で鋭い目は、不思議な魅力がある。怖いくせに、覗き込みたくなるのだ。
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