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第28話
(20)
しおりを挟む普段の言動のせいですっかり忘れてしまいそうになるが、長嶺千尋の本質は決して、可愛い犬っころなどではない。
したたかでありながら激しい気性を持つ〈何か〉だ。それは、祖父の守光のような老獪な化け狐かもしれないし、父親の賢吾のような冷酷な大蛇かもしれない。もしくは、まったく別の獣か――。
クリニックを一歩出た和彦は、目の前に立つ千尋を一目見た瞬間、総毛立つような感覚に襲われた。明らかに千尋の様子が尋常ではなかったからだ。
細身のスーツにナロータイという、オシャレな若手ビジネスマンのような格好は、恵まれた容姿を持つ千尋を、育ちのいい青年に見せる道具としては効果的だ。だが、まるで炎をまとったように、激しい怒りを全身に漲らせている今の千尋は、ジャケットの前を開き、ナロータイを緩めているだけなのに、筋者らしい凶暴さを感じさせる。
こんな千尋に声をかけたくないが、まさか無視をするわけにもいかない。和彦はできるだけ、いつもの調子で声をかけた。
「お前、こんなところで何をしてるんだ……」
千尋に歩み寄りながら、周囲に視線を向ける。通りを行き交う人たちが、この青年が長嶺組の跡目だとわかるとは思えない。しかしそれを抜きにしても、千尋の存在は人目を惹く。クリニックが入るビルの前で、目立ちたくなかった。
「先生を待ってた」
「それはわかるが……、せめて車で待つぐらいできるだろ。もし、お前の素性を知っている人間に見つかったらどうするんだ」
「いいよ。そのときは、そのときだ」
低く抑えた声に、自暴自棄な響きを感じ取り、和彦は眉をひそめる。
「お前――」
「先生に話があるんだ」
そう言って千尋に腕を掴まれたが、反射的に振り払う。カッとしたように睨みつけてきた千尋を、和彦は睨み返す。
「どうして、そんなに怒ってるんだ」
「……先生に心当たりはあるはずだよ」
「心当たりって……」
「来週、会うんだろ。あんなに怖がってた、自分の兄貴に」
あっ、と声を洩らした和彦は、この瞬間、自分が大きな思い違いをしていたことに気づいた。
和彦の反応を見て、千尋は不機嫌そうに唇を曲げる。
「俺のことなんて、すっかり忘れてたって顔だ」
「違うっ。そうじゃなくて――」
「話は、車の中で」
短く言い放った千尋に再び腕を掴まれ、今度こそ否とは言わせない強引さで引っ張られる。いつにない千尋の迫力に圧され、和彦は従うしかなかった。
駐車場に待機していたのは、千尋がいつも利用している車だった。どうやら和彦の護衛は帰らせてしまったようだ。大きくため息をついて、千尋に続いて車に乗り込む。
車が発進するとすぐ、千尋は口を開いた。
「俺は、今日知った。それで組の人間に聞いて回ったら……、みんな知ってたんだ。それどころか、総和会も一枚噛んでるって。――俺だけ、先生に関する大事なことを教えてもらえてなかったわけだ」
千尋の声音は不安定で、子供が拗ねているようだと思えば、今にも爆発しそうな強い苛立ちを滲ませ、聞いている和彦はハラハラしてくる。反射的に千尋の腕に手をかけると、反対にその手を握り締められた。
「俺になんて言う必要はないと思った?」
千尋にズバリと言葉で切り込まれ、咄嗟に返事に詰まる。和彦は逡巡した挙げ句、正直に答えるしかなかった。
「……最初は、大げさにするつもりはなかったんだ。組長にさえ許可をもらえれば、それだけでいいと……。だけど、総和会にも報告することになって、ぼくの周囲にいる人間たちにも知らせていって――。お前には、組長か会長が知らせてくれると思っていたんだ」
「残念。俺に教えてくれたのは、組員の一人だ。つまり俺は、オヤジにもじいちゃんにも忘れられてたってことか」
「そうじゃないだろ。連絡の行き違い……、いや、ぼくのせいだな。慌しい中で、お前の存在を後回しにしていた」
正確には、軽んじていたのかもしれない。そう、和彦は心の中で呟く。
長嶺の男ではあるが、祖父や父親に比べて千尋は、組織や人に対しても影響力が限られている。二人が許可をしたのなら、千尋にあえて話す必要がないと、無意識のうちに和彦はそう判断していたのだ。もちろん、それだけではない。
「悪かった。ぼくの個人的なことで、お前を煩わせたくないという気持ちもあったんだ。……兄さんから電話がかかってきただけで、あれだけの醜態をお前に晒して、心配をかけたせいもあるし……」
「煩わせてるのは、俺たちのほうだろ。先生をさんざん、こっちの世界の理屈で振り回してるのに、何言ってるんだよ」
「千尋……」
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