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第27話
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「現にぼくがそうだった。大学に入ってからは、実家に顔を出す必要もなくなったし、向こうからもそれを求められなかった。ごくたまに、大事な行事には出席して、佐伯家の一員として振る舞っていたぐらいだ。それ以外では、連絡すら取り合っていなかった。……兄さんの出馬の件で、事情が変わったんだ。それがなければ、ぼくがどんな相手と寝ていようが、知らん顔をしていたはずだ」
話すべきことを話し終え、ここまで張り詰めていたものがふっと切れる。和彦はしばらく黙り込むが、その間、賢吾もまた口を開かなかった。和彦に対して助言どころか、命令することすら可能なはずだが、そうしないということは、こちらが出す答えを待っているのだろう。
自分はどうすべきなのか、まだ結論が出せない和彦は、心に溜まる澱を取り留めない言葉として吐き出した。
「……あんたたちと知り合ってなかったら、ぼくは今ごろ、どうしていただろうな。とっくに佐伯家と縁を切っていたか――いや、そんなことはしないな。抗えない力に逆らわず、子供の頃から変わらない、無害な存在として家族とつき合っていたはずだ。そして、兄さんにいいように使われて……」
自分で言って、和彦は自己嫌悪に陥る。物騒な男たちに囲まれて生活している、今の信じられないような状況にあっても、自分と佐伯家との関係は何一つ変わっていないと痛感したのだ。
和彦の気持ちを掬い上げるようなタイミングで、賢吾が切り出した。
「先生は今、〈力〉を持っている。物騒で危険きわまりないが、先生を守るためにある力だ。そのうえで、自分がどうしたいか考えるといい」
「ぼくは――……」
「先生のためなら、どんな汚い仕事でもしてやる」
そう言った賢吾の表情は穏やかだった。だからこそ、本心を読み取ることはできない。和彦を怖がらせないための配慮なのかもしれないが、それすら知ることはできない。
このとき和彦は、自分はすっかりこの物騒な世界に染まってしまったのだろうかと、つい考えていた。
賢吾の怖い台詞を聞いて、胸の奥がじわりと熱くなったからだ。
「――俺のことを忘れたんじゃないかと思って、ヒヤヒヤしたぜ、佐伯先生」
非常階段に通じるドアを開けた和彦に対して、開口一番に鷹津がぶつけてきたのは皮肉だった。
クリニックの仕事を終えたばかりで疲れているせいもあり、律儀に皮肉で応じる気にもならなかった和彦は、大きくため息をつくと、鷹津が羽織っているブルゾンの襟元を掴んで、乱暴に中に引っ張り込む。
すぐに処置室に一緒に入り、鷹津をイスに座らせた。
「お前がたっぷりと連休を楽しんでいる間、放っておかれた俺は、手の傷が悪化するんじゃないかと気が気じゃなかった」
ブルゾンを脱ぎながら、まだ鷹津は皮肉を続ける。処置に必要な道具を準備していた和彦は、多少の後ろめたさを噛み締めつつ、横目で睨みつけた。
「もう傷は塞がってるだろ。あとは抜糸をするだけだ」
「その抜糸を、連休中にすると言ってなかったか。――佐伯先生」
「……抜糸が遅れたぐらいで、ビクついてたのか、あんた。見た目によらず肝が小さいんだな」
ささやかな皮肉で返すと、鷹津が何か言いたげな顔をしたが、結局、忌々しげに唇を歪めただけだった。和彦も、追い討ちをかけるのはやめておく。実際、自分の都合のために、鷹津への処置を遅らせたのは事実なのだ。
上肢台を挟んで鷹津の向かいに座る。差し出された鷹津の右手にはすでに包帯は巻かれておらず、ガーゼを貼ってあるだけだった。そのガーゼを剥がすと、傷口はきれいに塞がっており、化膿した様子もない。
「悪化どころか、順調に治っている。無茶はしなかったようだな」
「利き手が使いにくいと不便だからな」
上肢台にのせた手を鷹津が動かそうとしたので、和彦は素っ気なく押さえつける。
「抜糸したからといって油断はするなよ。せっかくきれいに縫ったのに、皮膚が引き攣れるかもしれない」
そう言いながら和彦は、外科用のハサミで縫合糸を切っていく。すると、鷹津が小さく洩らした。
「おい、痛いぞ……」
「大げさだ。刃物で切りつけられた男が何言ってる」
「命の恩人に対して、冷たい奴だ」
「この間も言ったが、恩着せがましい」
「――せっかくお前に恩が売れたんだ。せいぜい利用させてもらう」
和彦は思いきり眉をひそめると、処置に集中することにする。和彦の気を逸らせたところで、自分が痛い目に遭うだけだというのに、ここぞとばかりに鷹津は続ける。
「連休中はマンションにもいないし、携帯にも連絡してくるなと言ったな。どこに行ってたんだ。長嶺の本宅にも立ち寄ってなかったようだし」
話すべきことを話し終え、ここまで張り詰めていたものがふっと切れる。和彦はしばらく黙り込むが、その間、賢吾もまた口を開かなかった。和彦に対して助言どころか、命令することすら可能なはずだが、そうしないということは、こちらが出す答えを待っているのだろう。
自分はどうすべきなのか、まだ結論が出せない和彦は、心に溜まる澱を取り留めない言葉として吐き出した。
「……あんたたちと知り合ってなかったら、ぼくは今ごろ、どうしていただろうな。とっくに佐伯家と縁を切っていたか――いや、そんなことはしないな。抗えない力に逆らわず、子供の頃から変わらない、無害な存在として家族とつき合っていたはずだ。そして、兄さんにいいように使われて……」
自分で言って、和彦は自己嫌悪に陥る。物騒な男たちに囲まれて生活している、今の信じられないような状況にあっても、自分と佐伯家との関係は何一つ変わっていないと痛感したのだ。
和彦の気持ちを掬い上げるようなタイミングで、賢吾が切り出した。
「先生は今、〈力〉を持っている。物騒で危険きわまりないが、先生を守るためにある力だ。そのうえで、自分がどうしたいか考えるといい」
「ぼくは――……」
「先生のためなら、どんな汚い仕事でもしてやる」
そう言った賢吾の表情は穏やかだった。だからこそ、本心を読み取ることはできない。和彦を怖がらせないための配慮なのかもしれないが、それすら知ることはできない。
このとき和彦は、自分はすっかりこの物騒な世界に染まってしまったのだろうかと、つい考えていた。
賢吾の怖い台詞を聞いて、胸の奥がじわりと熱くなったからだ。
「――俺のことを忘れたんじゃないかと思って、ヒヤヒヤしたぜ、佐伯先生」
非常階段に通じるドアを開けた和彦に対して、開口一番に鷹津がぶつけてきたのは皮肉だった。
クリニックの仕事を終えたばかりで疲れているせいもあり、律儀に皮肉で応じる気にもならなかった和彦は、大きくため息をつくと、鷹津が羽織っているブルゾンの襟元を掴んで、乱暴に中に引っ張り込む。
すぐに処置室に一緒に入り、鷹津をイスに座らせた。
「お前がたっぷりと連休を楽しんでいる間、放っておかれた俺は、手の傷が悪化するんじゃないかと気が気じゃなかった」
ブルゾンを脱ぎながら、まだ鷹津は皮肉を続ける。処置に必要な道具を準備していた和彦は、多少の後ろめたさを噛み締めつつ、横目で睨みつけた。
「もう傷は塞がってるだろ。あとは抜糸をするだけだ」
「その抜糸を、連休中にすると言ってなかったか。――佐伯先生」
「……抜糸が遅れたぐらいで、ビクついてたのか、あんた。見た目によらず肝が小さいんだな」
ささやかな皮肉で返すと、鷹津が何か言いたげな顔をしたが、結局、忌々しげに唇を歪めただけだった。和彦も、追い討ちをかけるのはやめておく。実際、自分の都合のために、鷹津への処置を遅らせたのは事実なのだ。
上肢台を挟んで鷹津の向かいに座る。差し出された鷹津の右手にはすでに包帯は巻かれておらず、ガーゼを貼ってあるだけだった。そのガーゼを剥がすと、傷口はきれいに塞がっており、化膿した様子もない。
「悪化どころか、順調に治っている。無茶はしなかったようだな」
「利き手が使いにくいと不便だからな」
上肢台にのせた手を鷹津が動かそうとしたので、和彦は素っ気なく押さえつける。
「抜糸したからといって油断はするなよ。せっかくきれいに縫ったのに、皮膚が引き攣れるかもしれない」
そう言いながら和彦は、外科用のハサミで縫合糸を切っていく。すると、鷹津が小さく洩らした。
「おい、痛いぞ……」
「大げさだ。刃物で切りつけられた男が何言ってる」
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「――せっかくお前に恩が売れたんだ。せいぜい利用させてもらう」
和彦は思いきり眉をひそめると、処置に集中することにする。和彦の気を逸らせたところで、自分が痛い目に遭うだけだというのに、ここぞとばかりに鷹津は続ける。
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