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第27話
(7)
しおりを挟む憔悴しきった自分の姿を取り繕う余裕すら、和彦にはなかった。そんな和彦を、座卓についた賢吾がじっと見つめてくる。
「――……千尋からの電話で聞いてはいたが、ひどい顔色だ、先生。できることなら、さっさと休ませてやりたいが、その前に、何があったのかを知っておかねーとな」
わかっていると、和彦は浅く頷く。話し始めようと一度は唇を開いたが、震えを帯びた吐息が洩れ、声が出なかった。
賢吾は急かすことなく、ただ見つめてくる。過度の優しさも気遣いもうかがわせることのない、だからこそこちらに精神的負担を与えてこない、不思議な眼差しだ。マンションから本宅に向かう車中、動揺して震える和彦の肩を抱きながら、千尋も同じような眼差しを向けてくれたのだ。
和彦はぎこちなく深呼吸をしてから、やっと言葉を発した。
「あんたが、里見さんとの連絡用に持たせてくれている携帯に、兄さんから電話がかかってきた。里見さんの携帯を盗み見して、そこにあった怪しい番号にかけたら、ぼくが出たんだそうだ」
「と、言われたか?」
揶揄するような賢吾の口調が気になり、ちらりと視線を上げる。賢吾は、口元に柔らかな微苦笑を浮かべていた。
「……どういう意味だ」
「震え上がるほど苦手にしている兄貴から言われたことを、すんなり信じるなんて、先生は人がいい」
数十秒近くかけて、賢吾の言葉を頭の中で反芻する。そして和彦は、あっ、と声を洩らした。目を見開き、賢吾を凝視する。
「俺は悪党だから、まずはこう考えるんだ。先生の兄貴と、先生の初めての男が手を組んだんじゃないかってな。先生が信用した頃を見計らって――」
「里見さんはそんなことはしないっ」
感情的に声を荒らげた和彦だが、次の瞬間には、自分が今誰と向き合い、話しているのかを思い出し、我に返る。
賢吾の口元にはすでにもう笑みはなかった。無表情となり、大蛇を潜ませた目でまっすぐこちらを見据えてくる。戦慄した和彦は、自分の失言を噛み締める。しかし賢吾は怒りや不快さを表には出さなかった。
「いまだに信頼しているんだな、里見を。やっぱり、特別か?」
「――……本当は、兄さんから電話があったとき、一瞬疑った。だけど……あの人は特別だ。前にも言ったけど、あの人がぼくを騙すはずがない」
今度こそ賢吾を怒らせることを覚悟したが、ウソや誤魔化しは口にできない。わずかに目を細めた賢吾は指先で座卓を一度だけ叩くと、短く息を吐き出した。
「そこまで言われると、バカらしくて妬く気にもならねーもんだな、先生」
意外な賢吾の反応に、和彦は目を丸くする。
「妬くって……」
「ちょっとした意地悪で言ってみただけだ。そもそも二人が手を組んでいるなら、まずは里見が先生を誘い出すはずだ。そのうえで、先生の兄貴と引き合わせる。そうしたほうが手っ取り早い。だが、先生の兄貴は自分から電話をかけてきた」
和彦は、自分がいかに冷静さとは程遠い状態にあったのかを痛感する。賢吾に言われたようなことを、一切考えもしなかった。
ここで、ゾッとして身を震わせる。どうしても会いたいと里見に懇願され、断れずに出かけた先で英俊が現れた状況を想像していた。自分とよく似た顔に冷たい表情を浮かべ、冷たい口調で罵倒されると、きっと和彦は抗弁らしいこともできないまま、実家に連れ戻されていただろう。
「そういう小細工を弄しもしなかったということは、よほど里見が抗っていて、そして、佐伯家が焦っているのかもな」
不思議なもので、賢吾の分析を聞いているうちに次第に気持ちが落ち着いてくる。自分がどれだけ取り乱そうが、この男が守ってくれるのだと実感も湧いていた。
和彦はゆっくりと息を吐き出すと、出されたお茶を啜る。緊張と動揺のせいで、口内が渇ききっていた。
「……前にあんたに撮られた画像のことで、兄さんに罵倒された。なのに、ぼくに手伝ってほしいと言ったんだ。佐伯家の人間として」
「何を手伝えと?」
「さあ……。出馬のことを意識しているようだったから、それと関係あるのかもしれない。ぼくは不肖の次男で、しかも性質のよくない連中とつき合いがあって、スキャンダル性十分の画像も握られている。目の届かないところで動かれると困るのかもしれない。だから実家に呼び戻して――」
「性質のよくない連中、か」
和彦の話を遮るように呟いた賢吾が、低く笑い声を洩らす。和彦は、自分が無意識のうちに毒を洩らしていたことに気づき、つい強弁していた。
「本当のことだろっ。……自分がどんな手段を使ってぼくを引き込んだか、忘れたとは言わせないからな」
「落ち着け、先生。誰も、忘れたとは言ってないだろ」
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