血と束縛と

北川とも

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第27話

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 ここで英俊が低く笑い声を洩らす。和彦に向けて毒を放つとき、英俊はよくこんな笑い方をするのだ。そして案の定、英俊が吐き捨てるように言った。
『バカがっ。何が危ない目だ。あんなおぞましい画像を撮られて、みっともなくて父さんの前に顔を出せないだけだろ。あんなものが外に出回るんじゃないかと、うちの人間がどれだけ危惧したと思っているんだ。そのくせお前からは一切説明はないし、連絡すら取れない。肝心の里見さんも、お前に丸め込まれているようだし』
「里見さんはっ――」
『お前の性癖についてとやかく言うつもりはない。こちらに迷惑をかけない限りはな。どうせ、佐伯家の跡継ぎを期待される立場でもない。女だろうが男だろうが、好きなほうと、好きなだけ寝ればいい』
 相変わらず、自分を傷つけるための言葉を心得ている人だと思い、和彦は唇を引き結ぶ。どれだけ佐伯家と距離を取り、関わるまいとしようが、電話で少し会話を交わすだけで、和彦の意識は過去へと簡単に引き戻される。自分という存在がまったく尊重されず、必要ともされていなかった、佐伯家で生活していた頃に。
 自分を守るために身につけた術だが、和彦は心を凍りつかせる。動揺すらもあっという間に鎮まり、英俊と同じような淡々とした口調で応じた。
「だったら、ぼくに連絡をしてくる必要はなかっただろ。ぼくは今、好きなように生きている。兄さんたちが関わってこないなら、ぼくからも関わる気はない」
『それがそうできないから、お前と連絡を取ろうとしていたんだ。里見さんから聞いたが、お前も少しは、こちらの動向を把握しているんじゃないのか』
「――……兄さんが出馬するという話なら」
『それだ。珍しくはないだろ。官僚から政治家へ転身という話は。父さんも、すでにあちこちに根回しをしていて、とにかく忙しい。そんな状況で、〈身内〉に足を引っ張られたくない』
 佐伯家は相変わらずだと、そっと和彦は嘆息する。かつて父親は、省内の権力争いに血道をあげて勝利し、絶対的な支配力を誇っていたが、定年が間近に迫り、すでに天下り先も決めている。だからといって、そこがゴールではない。父親と酷似した道を歩んできた英俊は、ここにきて新たな権力の道を見出し、進もうとしている。当然、父親の後ろ盾があってのことだ。
 父親と英俊が歩み、和彦には関わることすら許されなかった道に、自分がどれだけの影響を及ぼせるというのか。和彦は自嘲気味に唇を歪めていた。
「ぼくは……、父さんと兄さんが何をしようが、邪魔をする気はない」
『それは賢明な考えだが、一切関係ないという顔をされても困る。――お前には、わたしたちを手伝ってもらう。〈佐伯家の人間〉としてな』
 らしくない英俊の熱っぽい口調にゾッとする。何か、嫌なものに足首を掴まれたような、おぞましい気持ちになった。
 和彦は静かに息を呑み、沈黙する。迂闊なことを言えば、そこで英俊に逆らえなくなると、確信めいたものがあった。英俊と和彦の歪な兄弟関係は、ずっとそうやって成り立ってきたのだ。
『お前はいままで、佐伯家のためになることをまったくしてこなかった。このあたりで、恩返しをしてもいいんじゃないか』
 英俊のあまりな言い分に、さすがにカッとする。一度は言葉を呑み込みかけたが、結局、口を開いていた。
「……佐伯家が、ぼくを必要としてこなかったんだろ。あの家の人間として振る舞うことすら、兄さんはいい顔をしなかった」
『それでもお前は、わたしの弟だ。これは、わたしにはどうしようもない。だったら、せいぜい利用させてもらう』
 英俊が向けてくる冷たい悪意は、電話越しでもしっかりと伝わってくる。どれだけの言葉を費やそうが、気持ちは決して交わることはなく、ただ一方的に搦め取られそうになる。
「ぼくに何ができる? 兄さんが言うとおり、おぞましい画像を撮られて、いつスキャンダル沙汰になってもおかしくない人間だ。そんなぼくが佐伯家にできることと言ったら、存在を隠すことだけだ」
『そんなお前でも、利用価値はある。佐伯の血を引いているという一点でな』
 ゾクリとするような感覚が、全身を駆け抜けた。
 和彦は、〈血〉の怖さと重さを知っている。長嶺の男たちによって教えられたのだ。切り捨てることも、逃げ出すこともできないものであるということも。
『父さんは、お前を外で自由にはさせていたが、手放す気は一切ないぞ。……わたしにとっては忌々しいがな』
 不穏な空気を感じ取った――わけではないだろうが、なんの前触れもなく、書斎のドアが開いた。
「あっ、先生、ここにいたんだ」
 ピンと張り詰めた空気を壊すように、上半身裸の千尋が緊張感のない声を発する。即座には状況が呑み込めなかった和彦だが、対照的に、英俊の反応は早かった。
『誰かいるのか?』
 ハッと我に返った和彦は、慌てて千尋に駆け寄ると、片手で口を塞ぐ。大きく目を見開いた千尋が何か言おうとしたが、和彦の異変に気づいたのだろう。すぐに険しい表情となって目を眇めた。
「……兄さんには関係ない」
『若い声だったな。先生、と呼んでいたということは、患者か? お前がまだ医者をしているようだと里見さんは言っていたが、どうやら本当だったようだな』
 このままでは英俊のペースに巻き込まれると思い、和彦は早口に告げた。
「もうかけてこないでくれ。あなたと話すことは……ない」
『ああ、電話はかけない。だが、お前はわたしと、直接会うことになる』
「その気はない。悪いけど……」
『お前が意固地になればなるほど、里見さんの立場が悪くなるぞ。なんといってもあの人は、佐伯家を裏切っていたともいえる行動を取っていた。お前と連絡が取れた時点で、すぐに教えてくれていれば、問題が簡単に片付いたかもしれないし、わたしも盗人みたいなマネをしなくて済んだ』
 込み上げてくるどす黒い感情のせいで、吐き気がした。よほどひどい顔をしていたのか、口を塞いでいた和彦の手を、千尋がぎゅっと握り締めてきた。ふと顔を上げた和彦は、まっすぐ見据えてくる千尋の眼差しに気づき、なんとか自分を取り戻す。
 いろいろと言いたいことはあったが、和彦が口にできたのは、ささやかな苦言だった。
「……相変わらず、自分の都合ばかりだ」
『佐伯家を守る義務があるからな。――わたしには』
 耳から引き剥がすように携帯電話を離すと、乱暴な手つきで電源を切る。和彦はその場に崩れ込み、大きくため息をついた。自分の中のどす黒い感情を一気に吐き出すように。
「先生……」
 気遣うように千尋が肩に手をかけてくる。和彦が力なくうな垂れていると、思いきったように傍らに座り、顔を覗き込んできた。ぎこちなく頭を引き寄せられたので、遠慮なく千尋の肩に額を押し当てる。
「今の電話の相手、先生、『兄さん』って呼んでた……」
「ああ。……佐伯英俊。ぼくの、兄だ」
「先生、震えてる」
 千尋に指摘されて初めて和彦は、自分の体の震えを認識する。たまらず、本音を吐露していた。
「――……ぼくは物心ついたときから、自分の兄が怖いんだ」

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