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第27話
(1)
しおりを挟むリビングに足を踏み入れた千尋は、きょろきょろと辺りを見回してから、拍子抜けしたようにこう言った。
「先生、部屋の改装工事したんじゃなかったの?」
千尋が何を疑問に感じたのか、和彦にはよくわかった。一見して、どこも変わってないように見えるのだ。実は和彦も、総和会の別荘から戻って部屋を見たときは、正直少しだけ拍子抜けした。賢吾から概要は聞いていたが、要塞のようになっているのではないかと、戦々恐々としていたのだ。
和彦がダイニングに移動すると、人懐こい犬っころのように千尋もあとをついてくる。そしてやはり、不思議そうに辺りに視線を向ける。
「……ここも、変わってないように見える……」
そう呟いた千尋がふらふらとダイニングを出て行き、他の部屋へと向かう。部屋の改装について、賢吾から詳しいことは聞かされていないのだなと思いながら、ジャケットを脱いだ和彦は冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを取り出し、グラスに注ぐ。とにかく喉が渇いていた。
一息にグラスを空にして、ほっと息を吐き出す。酸味が強めのオレンジジュースがやけに甘く感じられる。
和彦はシンクにグラスを置くと、大きく腕を回してから、軽く腰を捻ってみる。普段使わない筋肉を使ったせいか、肩や背にかけて少し違和感がある。もしかすると明日には筋肉痛が出るかもしれない。
「まったく、どうしてあの父子は、事前に人の予定を聞くということができないんだ……」
小さくぼやいた和彦は、千尋の姿を探してあちこちの部屋を覗く。どこにいるのかと思えば、バルコニーに出ていた。
千尋は、厚みのある窓ガラスを軽く叩いて、目を輝かせていた。
「このガラス、本宅に入れてあるのと厚みが同じだよ、先生」
「嬉しそうに言うな。本宅と同じぐらい、ここも物騒な場所になったのかと、気が滅入りそうになる」
そう応じて和彦は窓に歩み寄る。開けた窓から吹き込む風はいくらか涼しいが、これに陽射しの強さが加わると、すでにもう春とは呼べない季節だと痛感させられる。
すぐに蒸し暑くなり、湿気にまとわりつかれる梅雨がやってくるだろう。その鬱陶しさを想像するだけでうんざりしてきて、無意識のうちに和彦は眉をひそめる。このとき何げなく、千尋に目を向ける。
多少の不快さなど跳ね返しそうな生命力に溢れる千尋の様子は、梅雨を飛び越え、一足先に夏が訪れているように見える。半袖のTシャツから出ている腕が健康的に日焼けしているのだ。普段はスーツで活動しているはずだが、この様子だと、時間さえあればラフな格好で動き回っているのだろう。
Tシャツの袖は、千尋の左腕のタトゥーの名残りを隠している。もっとも、袖を捲り上げたところで、そこにタトゥーが彫られていたとすぐに見抜く人間は、そう多くはないだろう。慎重にレーザーを当て、時間をかけて除去していったおかげで、ケロイド状の傷跡が残るようなことはなく、うっすらと皮膚の色が変わって見えるだけだ。
和彦の視線に気づいたのか、千尋が首を傾げるようにして笑いかけてくる。
「どうかした、先生?」
「いや……、どうしてもう、そんなに日焼けしてるのかと思ってな」
「今のとこ、腕と顔ぐらいだよ、焼けてるの。今年は、体は焼かない……というか、焼けない。それでなくても、肌に針を入れるとなると炎症や病気が怖いからさ。体に負担がかかるようなことはしたくない」
千尋の言葉に、和彦は表情を曇らせる。なんのことを言っているか、すぐに理解できたからだ。
「……本当に、刺青を入れるのか」
「俺が本気じゃないと思った?」
「入れるなと言う権利はぼくにはないが、ただ、二十歳を過ぎたばかりの今じゃなくてもいいだろ、と正直思っている。年相応に遊ぼうと思っても、制限を受けることになるぞ」
「長嶺組の跡目として総和会にも出入りしている身で、もうチャラチャラと遊べるなんて思ってないよ」
さらりとそんなことを言う千尋は、非常にさばさばとした顔をしている。和彦などが忠告するまでもなく、タトゥーを消すと決心したときにさまざまなことを考えたのかもしれない。そのうえで、刺青を入れるとまで言っているのだ。父親や、祖父のように。
和彦はスッと窓から離れると、千尋に背を向ける。
「そうか。この先、お前と海水浴やプールにも行けないし、大浴場に入る機会もなくなるということか――……」
聞こえよがしに呟いてみると、案の定、千尋から大げさな反応が返ってきた。
「うわーっ、何それ。先生いままで、俺とそんなとこ行ったことないじゃんっ」
「そうだったか……?」
露骨にとぼけて見せた和彦は、着替えを取りに寝室へと向かう。その途中、再び大きく腕を回しながら、肩を揉んでいると、あとをついてきた千尋に指摘された。
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