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第26話
(12)
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そう皮肉を言い置いて、鷹津がリビングを出ていく。他人のことは言えないだろうと思いながら、鷹津の背を見送った和彦だが、ふと、あることを思い出して、慌ててあとを追いかける。しかし、鷹津の姿は玄関のドアの向こうに消えるところだった。
靴を履いて追うべきだろうかと逡巡している間に、すっかりタイミングを失う。和彦は軽く息を吐き出すと、くしゃくしゃと自分の髪を掻き乱す。
思い出したのは、実に些細なことなのだ。
何日か前に、賢吾と一緒に夕方の街を歩いているとき、和彦は鷹津を見かけた気がした。鷹津も、こちらを見ていたように感じ、ただそのことを確認したかっただけだ。見間違いかもしれないし、仮に鷹津がいたとしても、何か問題があるわけではない。
次に会ったとき、覚えていれば聞けばいい。その程度のことだ。
忘れている確率のほうが遥かに高いだろうが、と心の中で呟いて、和彦はキッチンに向かう。
南郷は苦手だが、だからといって花に罪はない。可憐な花に相応しい花瓶で活けてやろうと思いながら、ワイシャツの袖を捲くり上げた。
寝返りを打った拍子に、指先に硬い感触が触れた。和彦は夢うつつの状態で、これは一体なんだろうかと、緩慢に思考を働かせる。
いよいよ連休に突入するということで、夜更かしをする気満々だった和彦は、ハードカバーのミステリー小説をベッドに持ち込んだのだ。眠くてたまらなくなったにもかかわらず、続きが気になって仕方なく、目を擦りながら読んでいたのだが、本を閉じた記憶がない。
指先に触れる感触は、その読みかけの本だと見当をつけ、安心したところで再び意識を手放そうとする。が、叶わなかった。
前触れもなく、まばゆい光が瞼を通して目に突き刺さる。和彦は低く呻き声を洩らすと、もぞりと身じろいで布団に頭まで潜り込む。一体何事かと、目を閉じたまま考えたが、心当たりは限られる。
睡眠を中断された不満を小声で洩らし、渋々布団から顔を出す。薄暗かった室内は、すべてのカーテンを開けられたおかげで、清々しい陽射しが満ちていた。
「――連休初日にふさわしく、今日は天気がいいぞ、先生。五月晴れというやつだ」
乱暴ではないものの、寝ているところを強引に起こされた和彦は、ベッドの傍らに立つ賢吾をじろりと睨む。不機嫌な和彦とは対照的に、賢吾は機嫌よさそうに唇を緩めている。
「今、何時なんだ……」
低く抑えた声で問いかけると、様になる仕種で賢吾は腕時計に視線を落とす。
「八時、少し前だ」
返ってきた答えに、ハードカバーを投げつけたい衝動に駆られた和彦だが、さすがに堪えた。その代わり、布団に半分顔を埋めつつ、賢吾に恨み言をぶつける。
「忙しい生活を送っているぼくは、クリニックが休みの日に、時間を気にせず眠ることに、ささやかながら幸せを感じているんだ。しかも今日から、あんたがさっき言った通り、連休だ。なのにどうして、こんなに早い時間に起こされないといけないんだ」
「いい寝顔だったな。思わず俺も、先生の隣に潜り込みたくなった」
「だったら――」
「午後から、業者がこの部屋にやってくる」
賢吾の言葉に、寝起きということもあってすぐには思考が追いつかない。和彦はようやくしっかりと目を開けると、布団から顔を上げる。ベッドの端に腰掛けた賢吾が窓のほうに視線を向けた。
「少し、この部屋に手を加える。寝室だけじゃなく、他の部屋も。長嶺の男たちが大事にしているオンナが暮らしているんだ。相応しい場所にしたい」
「……今だって、十分立派な部屋だと思うが。暮らしているこっちが、気後れしそうなぐらい」
先生は謙虚だ、と揶揄するように呟いた賢吾の目が、鋭い光を宿す。大蛇が潜むに相応しい、凄みを帯びた目だ。
「最近、何かと物騒だ。総和会との関わりが深くなって、先生が特別な存在だと知られるようになってきたし、この間の秦の件のように、誰かのとばっちりで襲われる可能性もある。このマンションは防犯はしっかりしているが、あくまで〈普通〉の悪党を想定してのものだ。暴力のプロ相手だと限界がある。そこで、少しばかり補強しようと思ったんだ」
先日の襲撃の現場が脳裏に蘇り、和彦は身震いする。漠然とした不安に駆られて起き上がると、待ちかねていたように賢吾に肩を抱き寄せられた。ジャケット越しに感じる逞しい腕と胸の感触が、押し寄せてこようとした不安をあっという間に追い払ってしまう。
「窓ガラスや、各部屋のドアを、もっと頑丈なものに取り替える。先生が仕事に行っている間に、サイズを測らせて、注文しておいたんだ」
靴を履いて追うべきだろうかと逡巡している間に、すっかりタイミングを失う。和彦は軽く息を吐き出すと、くしゃくしゃと自分の髪を掻き乱す。
思い出したのは、実に些細なことなのだ。
何日か前に、賢吾と一緒に夕方の街を歩いているとき、和彦は鷹津を見かけた気がした。鷹津も、こちらを見ていたように感じ、ただそのことを確認したかっただけだ。見間違いかもしれないし、仮に鷹津がいたとしても、何か問題があるわけではない。
次に会ったとき、覚えていれば聞けばいい。その程度のことだ。
忘れている確率のほうが遥かに高いだろうが、と心の中で呟いて、和彦はキッチンに向かう。
南郷は苦手だが、だからといって花に罪はない。可憐な花に相応しい花瓶で活けてやろうと思いながら、ワイシャツの袖を捲くり上げた。
寝返りを打った拍子に、指先に硬い感触が触れた。和彦は夢うつつの状態で、これは一体なんだろうかと、緩慢に思考を働かせる。
いよいよ連休に突入するということで、夜更かしをする気満々だった和彦は、ハードカバーのミステリー小説をベッドに持ち込んだのだ。眠くてたまらなくなったにもかかわらず、続きが気になって仕方なく、目を擦りながら読んでいたのだが、本を閉じた記憶がない。
指先に触れる感触は、その読みかけの本だと見当をつけ、安心したところで再び意識を手放そうとする。が、叶わなかった。
前触れもなく、まばゆい光が瞼を通して目に突き刺さる。和彦は低く呻き声を洩らすと、もぞりと身じろいで布団に頭まで潜り込む。一体何事かと、目を閉じたまま考えたが、心当たりは限られる。
睡眠を中断された不満を小声で洩らし、渋々布団から顔を出す。薄暗かった室内は、すべてのカーテンを開けられたおかげで、清々しい陽射しが満ちていた。
「――連休初日にふさわしく、今日は天気がいいぞ、先生。五月晴れというやつだ」
乱暴ではないものの、寝ているところを強引に起こされた和彦は、ベッドの傍らに立つ賢吾をじろりと睨む。不機嫌な和彦とは対照的に、賢吾は機嫌よさそうに唇を緩めている。
「今、何時なんだ……」
低く抑えた声で問いかけると、様になる仕種で賢吾は腕時計に視線を落とす。
「八時、少し前だ」
返ってきた答えに、ハードカバーを投げつけたい衝動に駆られた和彦だが、さすがに堪えた。その代わり、布団に半分顔を埋めつつ、賢吾に恨み言をぶつける。
「忙しい生活を送っているぼくは、クリニックが休みの日に、時間を気にせず眠ることに、ささやかながら幸せを感じているんだ。しかも今日から、あんたがさっき言った通り、連休だ。なのにどうして、こんなに早い時間に起こされないといけないんだ」
「いい寝顔だったな。思わず俺も、先生の隣に潜り込みたくなった」
「だったら――」
「午後から、業者がこの部屋にやってくる」
賢吾の言葉に、寝起きということもあってすぐには思考が追いつかない。和彦はようやくしっかりと目を開けると、布団から顔を上げる。ベッドの端に腰掛けた賢吾が窓のほうに視線を向けた。
「少し、この部屋に手を加える。寝室だけじゃなく、他の部屋も。長嶺の男たちが大事にしているオンナが暮らしているんだ。相応しい場所にしたい」
「……今だって、十分立派な部屋だと思うが。暮らしているこっちが、気後れしそうなぐらい」
先生は謙虚だ、と揶揄するように呟いた賢吾の目が、鋭い光を宿す。大蛇が潜むに相応しい、凄みを帯びた目だ。
「最近、何かと物騒だ。総和会との関わりが深くなって、先生が特別な存在だと知られるようになってきたし、この間の秦の件のように、誰かのとばっちりで襲われる可能性もある。このマンションは防犯はしっかりしているが、あくまで〈普通〉の悪党を想定してのものだ。暴力のプロ相手だと限界がある。そこで、少しばかり補強しようと思ったんだ」
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