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第26話
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気にしないでくれと、和彦は苦笑を洩らす。大変な騒動と、その後の鷹津とのこともあり、自分が背負っていた事柄について、今この瞬間まで考えることすらしていなかった。秦の思惑とは違ったところで、和彦の機嫌は直りつつあるといえるのかもしれない。
あくまで、問題の先延ばしでしかないのだが――。
電話を切った和彦はぼんやりとしていたが、ふと、バスタブに湯を溜めていることを思い出し、慌てて浴室へと駆け込んだ。
「――ここのところ大忙しだな、先生」
窓の外に広がる夜景に見惚れていた和彦は、どこか皮肉げな賢吾の言葉にハッとする。
ホテル上階からの夜景を和彦によく見せてやろうという配慮なのか、賢吾は窓を背にしてテーブルについている。
しかし和彦は、一旦賢吾に視線を移してしまうと、もう夜景を眺める気にはなれない。
賢吾は、夜の街のきらびやかさも霞む濃い闇を背負っているように見え、禍々しさすら漂っている。普通の感覚を持った人間ならば、この男を一目で危険な存在だと判断するだろうが、困ったことに和彦の目には、非常に魅力的に映るのだ。怖いほどに。
「ぼくが忙しいのは、ぼくのせいじゃない。……暖かくなってくると、この世界の連中は血が滾るのか? 物騒なことが多すぎる」
賢吾は低く喉を鳴らして笑い、鉄板の上で焼けたヒレステーキを一切れ、和彦の前の小皿に置いた。
クリニックを終えてから途中で賢吾と合流し、外で夕食をとることにしたのだが、肉が食べたいと希望したのは賢吾だ。疲れ気味の和彦に精をつけさせようと考えた――のかどうかは知らないが、鉄板焼きのコースディナーの他に、さらにサーロインステーキを別メニューで頼んだ賢吾は、和彦の倍の速度で肉を焼き、口に運んでいる。
「物騒といえば、総和会からの申し出も、ある意味じゃ物騒だな」
賢吾が言っているのは、総和会から、和彦にクリニックを任せたいと提案された件だ。移動中の車内で簡単に説明をしたのだが、とっくに千尋から、賢吾の耳に入っていただろう。驚いた様子もなく、薄く笑っただけだった。もっとも和彦自身、賢吾の反応をある程度予測はしていた。
大事なのは、和彦から賢吾に相談を持ちかけるという〈形〉なのだ。
「……総和会は、何を考えていると思う?」
和彦は単刀直入に賢吾に問いかける。もう一切れ肉を食べた賢吾は、ペロリと唇を舐めた。
「一つは、ビジネスだ。医者を連れてきて治療をさせるなんてことは、いままでもやってきたが、まさかヤクザが、医者を常駐させる……つまりクリニックを経営するなんてことを、やったことはなかったからな。考えはしても、ビジネスとしてのノウハウがなかった。いままでは。理想的な医者がいてこそ、クリニック経営を支えるヤクザたちも、経験を積めるというわけだ」
和彦を最初は脅して従わせ、次々に男たちと関係を持たせていくことで、賢吾はその、『理想的な医者』を手に入れた。
賢吾と知り合ったばかりの頃に抱いていた、恐れや怒りといった感情が蘇り、和彦は強い眼差しを向ける。当然、硬い鱗に覆われた体を持つ大蛇は、痛痒を感じないようだ。
「もう一つは、面子だ」
「面子って、誰の」
「――総和会会長」
和彦はそっと眉をひそめる。食事中、堂々と口にするのははばかられる肩書きだが、ここは他のテーブルとは扉で隔てられている個室だ。護衛の男たちすら、その扉の向こうの席についている。
「長嶺組組長は、自分のオンナにクリニックを持たせた。だったら、その父親である総和会会長が、同じオンナに何も与えないわけにはいかねーだろ。ただし、長嶺組組長の面子を潰すわけにはいかない。クリニックは、その意味で一挙両得というわけだ」
「……ぼくの体は一つしかないのに……」
ため息交じりに和彦が洩らすと、賢吾がニヤリと笑う。
「だが先生は、何人もの男と、たった一つの体で関係を持っている」
「そういうことを言いたいんじゃなくて――」
「オヤジは、もっと深く先生と関わろうとしている。俺が今挙げたのは、総和会が先生にクリニックを持たせたがる理由だ。だが俺は、その理由の奥に、長嶺守光の本来の目的があるんじゃないかと勘繰っている」
「何か……?」
賢吾がスッと和彦の顔を見据えてくる。冷ややかなのに獰猛さも感じさせる大蛇の潜む目に、無意識のうちに和彦は息を詰めていた。
「先生に骨抜きになったオヤジが、俺から取り上げようとしている、とかな」
数秒ほど真剣に考えた和彦だが、すぐに賢吾を睨みつける。案の定、堪えきれなくなったように賢吾は声を上げて笑った。
「……そんなに、ぼくをからかって楽しいか」
あくまで、問題の先延ばしでしかないのだが――。
電話を切った和彦はぼんやりとしていたが、ふと、バスタブに湯を溜めていることを思い出し、慌てて浴室へと駆け込んだ。
「――ここのところ大忙しだな、先生」
窓の外に広がる夜景に見惚れていた和彦は、どこか皮肉げな賢吾の言葉にハッとする。
ホテル上階からの夜景を和彦によく見せてやろうという配慮なのか、賢吾は窓を背にしてテーブルについている。
しかし和彦は、一旦賢吾に視線を移してしまうと、もう夜景を眺める気にはなれない。
賢吾は、夜の街のきらびやかさも霞む濃い闇を背負っているように見え、禍々しさすら漂っている。普通の感覚を持った人間ならば、この男を一目で危険な存在だと判断するだろうが、困ったことに和彦の目には、非常に魅力的に映るのだ。怖いほどに。
「ぼくが忙しいのは、ぼくのせいじゃない。……暖かくなってくると、この世界の連中は血が滾るのか? 物騒なことが多すぎる」
賢吾は低く喉を鳴らして笑い、鉄板の上で焼けたヒレステーキを一切れ、和彦の前の小皿に置いた。
クリニックを終えてから途中で賢吾と合流し、外で夕食をとることにしたのだが、肉が食べたいと希望したのは賢吾だ。疲れ気味の和彦に精をつけさせようと考えた――のかどうかは知らないが、鉄板焼きのコースディナーの他に、さらにサーロインステーキを別メニューで頼んだ賢吾は、和彦の倍の速度で肉を焼き、口に運んでいる。
「物騒といえば、総和会からの申し出も、ある意味じゃ物騒だな」
賢吾が言っているのは、総和会から、和彦にクリニックを任せたいと提案された件だ。移動中の車内で簡単に説明をしたのだが、とっくに千尋から、賢吾の耳に入っていただろう。驚いた様子もなく、薄く笑っただけだった。もっとも和彦自身、賢吾の反応をある程度予測はしていた。
大事なのは、和彦から賢吾に相談を持ちかけるという〈形〉なのだ。
「……総和会は、何を考えていると思う?」
和彦は単刀直入に賢吾に問いかける。もう一切れ肉を食べた賢吾は、ペロリと唇を舐めた。
「一つは、ビジネスだ。医者を連れてきて治療をさせるなんてことは、いままでもやってきたが、まさかヤクザが、医者を常駐させる……つまりクリニックを経営するなんてことを、やったことはなかったからな。考えはしても、ビジネスとしてのノウハウがなかった。いままでは。理想的な医者がいてこそ、クリニック経営を支えるヤクザたちも、経験を積めるというわけだ」
和彦を最初は脅して従わせ、次々に男たちと関係を持たせていくことで、賢吾はその、『理想的な医者』を手に入れた。
賢吾と知り合ったばかりの頃に抱いていた、恐れや怒りといった感情が蘇り、和彦は強い眼差しを向ける。当然、硬い鱗に覆われた体を持つ大蛇は、痛痒を感じないようだ。
「もう一つは、面子だ」
「面子って、誰の」
「――総和会会長」
和彦はそっと眉をひそめる。食事中、堂々と口にするのははばかられる肩書きだが、ここは他のテーブルとは扉で隔てられている個室だ。護衛の男たちすら、その扉の向こうの席についている。
「長嶺組組長は、自分のオンナにクリニックを持たせた。だったら、その父親である総和会会長が、同じオンナに何も与えないわけにはいかねーだろ。ただし、長嶺組組長の面子を潰すわけにはいかない。クリニックは、その意味で一挙両得というわけだ」
「……ぼくの体は一つしかないのに……」
ため息交じりに和彦が洩らすと、賢吾がニヤリと笑う。
「だが先生は、何人もの男と、たった一つの体で関係を持っている」
「そういうことを言いたいんじゃなくて――」
「オヤジは、もっと深く先生と関わろうとしている。俺が今挙げたのは、総和会が先生にクリニックを持たせたがる理由だ。だが俺は、その理由の奥に、長嶺守光の本来の目的があるんじゃないかと勘繰っている」
「何か……?」
賢吾がスッと和彦の顔を見据えてくる。冷ややかなのに獰猛さも感じさせる大蛇の潜む目に、無意識のうちに和彦は息を詰めていた。
「先生に骨抜きになったオヤジが、俺から取り上げようとしている、とかな」
数秒ほど真剣に考えた和彦だが、すぐに賢吾を睨みつける。案の定、堪えきれなくなったように賢吾は声を上げて笑った。
「……そんなに、ぼくをからかって楽しいか」
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