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第25話
(23)
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和彦の周囲を流れていた空気が一気に凍りつき、目の前に座っている秦が顔を強張らせる。そこまでを認識したときには、世界が一変した。
寸前まで隣に座っていた鷹津がいつの間にか立ち上がり、体が震えるような怒声を発する。テーブルの上の食器を掴んだかと思うと、ホールの中央に向かって投げつける。同時に秦がテーブルを乗り越えながら、スーツのジャケットから何かを取り出す。ちらりと見えた銀色の冷たく輝く刃が、和彦の網膜にしっかりと焼きついた。
「佐伯っ、伏せてろっ」
鷹津に怒鳴られて、ぐいっと頭を押さえつけられる。和彦はソファの上に倒れ込んだが、そのまま体が硬直し、動けなくなった。
その間、鼓膜に突き刺さるようなガラスの割れる音と、重々しい衝撃音が響き、そこに男たちの罵声や、威嚇する声が入り乱れる。ずいぶん長い間続いていたような気がするが、もしかすると一分ほどのことだったかもしれない。とにかく和彦は、身動きどころか瞬きもできず、ただ、壁を凝視していた。
「――生きてるか」
再び頭上から鷹津の声がする。ハッと我に返った和彦は、大きく息を吸い込む。すぐには身動きができないでいると、正面に回り込んできた秦に顔を覗き込まれた。店内がただならぬ状況にあったのは、秦のまだ強張った顔を見ればわかった。
「怪我はないですか、先生?」
そう問いかけられて、手を差し出される。秦の手を取って体を起こそうとした和彦だが、男の怒声が聞こえて、大きく身を震わせ、怯える。秦がようやく微笑を浮かべ、耳元で囁いた。
「もう大丈夫ですよ。押さえましたから」
和彦はぎこちなく体を起こし、背後を振り返る。凄惨ともいえる光景が、そこにはあった。
ホールの床の上に見たこともない男たち三人が倒れていた。一人は完全に気絶しており、もう一人は腕を抱えてのたうち回ろうとして、護衛の組員に肩を踏みつけられている。残る一人は、うつ伏せの姿勢で必死に顔を上げ、何かを喚いている。起き上がれないのは、もう一人の組員が背に座り込み、しっかりと腕を捻り上げているからだ。
食器や酒瓶の破片が床に散乱しており、さらには点々と血が落ちている。それを見てドキリとした和彦は慌てて、秦や組員たちの様子を確認したが、一見して無傷に見えた。
そして、もう一人――。
店内を見回すと、鷹津はカウンターに寄りかかり、おしぼりで右手を拭いていた。安堵しかけた和彦だが、おしぼりが真っ赤に染まっていくのを見て、反射的に立ち上がる。
「先生っ、まだじっとして――」
和彦を引きとめようと秦が手を伸ばしたが、それをすり抜け、慌てて鷹津の元に駆け寄る。鷹津は忌々しげに唇を歪め、和彦を一瞥した。
「……酒を飲むつもりで来たのに、まだ一口も飲めてねーぞ」
「人にタカってまで飲むなということだろ」
いつもの調子で応じた和彦だが、声はわずかに震えを帯びていた。状況が呑み込めないまま、まだ激しく動揺している。
それでも、鷹津の怪我を放っておくことはできず、秦に頼んでタオルを持ってきてもらう。
鷹津のシャツの袖を捲り上げる。腕から手首にかけて、十センチほどざっくりと裂けて、そこから出血していた。どうやらナイフで切りつけられたようだ。
傷口にタオルを押し当てて、まずは止血する。
「一体、何が起こったんだ」
和彦が尋ねると、鷹津は軽くあごをしゃくり、どこかに電話をかけている秦を示した。
「多分、秦を狙った〈客〉だ。ここにヤクザも刑事もいるってのに、まっさきにあいつに向かって突っ込んできた」
それを聞いた和彦は、あっ、と声を洩らしていた。
「どうした?」
「いや……、この間――」
秦の護衛を一時期務めたことのある長嶺組の組員が、何日か前に襲われたことを話す。本来、こういう情報を他言するのは賢吾の許可をもらうべきなのだろうが、秦を狙った男たちのせいで負傷した鷹津を目の前にして、そういう理屈も振りかざせない。
「秦を狙っている奴は、よほどの阿呆か、ヤクザ相手に張り合えると、本気で思っている人間だな。例えば――外国人。最近は、外国人とつるんで仕事をする、日本人のチンピラもいるしな」
意味ありげに、鷹津が和彦を見る。和彦は傷口にタオルをぐっと押し付けて、首を横に振った。
「ぼくは何も知らない。それに、あんたにしても、探ったところで仕方ないだろ。いるはずのない刑事が、犯行現場にいたんだ。同僚を呼んで、捜査をするのか?」
「……そうだ。俺は今晩は、美味い餌を食いに来ただけだ。刑事としての俺は、ここにはいなかった」
寸前まで隣に座っていた鷹津がいつの間にか立ち上がり、体が震えるような怒声を発する。テーブルの上の食器を掴んだかと思うと、ホールの中央に向かって投げつける。同時に秦がテーブルを乗り越えながら、スーツのジャケットから何かを取り出す。ちらりと見えた銀色の冷たく輝く刃が、和彦の網膜にしっかりと焼きついた。
「佐伯っ、伏せてろっ」
鷹津に怒鳴られて、ぐいっと頭を押さえつけられる。和彦はソファの上に倒れ込んだが、そのまま体が硬直し、動けなくなった。
その間、鼓膜に突き刺さるようなガラスの割れる音と、重々しい衝撃音が響き、そこに男たちの罵声や、威嚇する声が入り乱れる。ずいぶん長い間続いていたような気がするが、もしかすると一分ほどのことだったかもしれない。とにかく和彦は、身動きどころか瞬きもできず、ただ、壁を凝視していた。
「――生きてるか」
再び頭上から鷹津の声がする。ハッと我に返った和彦は、大きく息を吸い込む。すぐには身動きができないでいると、正面に回り込んできた秦に顔を覗き込まれた。店内がただならぬ状況にあったのは、秦のまだ強張った顔を見ればわかった。
「怪我はないですか、先生?」
そう問いかけられて、手を差し出される。秦の手を取って体を起こそうとした和彦だが、男の怒声が聞こえて、大きく身を震わせ、怯える。秦がようやく微笑を浮かべ、耳元で囁いた。
「もう大丈夫ですよ。押さえましたから」
和彦はぎこちなく体を起こし、背後を振り返る。凄惨ともいえる光景が、そこにはあった。
ホールの床の上に見たこともない男たち三人が倒れていた。一人は完全に気絶しており、もう一人は腕を抱えてのたうち回ろうとして、護衛の組員に肩を踏みつけられている。残る一人は、うつ伏せの姿勢で必死に顔を上げ、何かを喚いている。起き上がれないのは、もう一人の組員が背に座り込み、しっかりと腕を捻り上げているからだ。
食器や酒瓶の破片が床に散乱しており、さらには点々と血が落ちている。それを見てドキリとした和彦は慌てて、秦や組員たちの様子を確認したが、一見して無傷に見えた。
そして、もう一人――。
店内を見回すと、鷹津はカウンターに寄りかかり、おしぼりで右手を拭いていた。安堵しかけた和彦だが、おしぼりが真っ赤に染まっていくのを見て、反射的に立ち上がる。
「先生っ、まだじっとして――」
和彦を引きとめようと秦が手を伸ばしたが、それをすり抜け、慌てて鷹津の元に駆け寄る。鷹津は忌々しげに唇を歪め、和彦を一瞥した。
「……酒を飲むつもりで来たのに、まだ一口も飲めてねーぞ」
「人にタカってまで飲むなということだろ」
いつもの調子で応じた和彦だが、声はわずかに震えを帯びていた。状況が呑み込めないまま、まだ激しく動揺している。
それでも、鷹津の怪我を放っておくことはできず、秦に頼んでタオルを持ってきてもらう。
鷹津のシャツの袖を捲り上げる。腕から手首にかけて、十センチほどざっくりと裂けて、そこから出血していた。どうやらナイフで切りつけられたようだ。
傷口にタオルを押し当てて、まずは止血する。
「一体、何が起こったんだ」
和彦が尋ねると、鷹津は軽くあごをしゃくり、どこかに電話をかけている秦を示した。
「多分、秦を狙った〈客〉だ。ここにヤクザも刑事もいるってのに、まっさきにあいつに向かって突っ込んできた」
それを聞いた和彦は、あっ、と声を洩らしていた。
「どうした?」
「いや……、この間――」
秦の護衛を一時期務めたことのある長嶺組の組員が、何日か前に襲われたことを話す。本来、こういう情報を他言するのは賢吾の許可をもらうべきなのだろうが、秦を狙った男たちのせいで負傷した鷹津を目の前にして、そういう理屈も振りかざせない。
「秦を狙っている奴は、よほどの阿呆か、ヤクザ相手に張り合えると、本気で思っている人間だな。例えば――外国人。最近は、外国人とつるんで仕事をする、日本人のチンピラもいるしな」
意味ありげに、鷹津が和彦を見る。和彦は傷口にタオルをぐっと押し付けて、首を横に振った。
「ぼくは何も知らない。それに、あんたにしても、探ったところで仕方ないだろ。いるはずのない刑事が、犯行現場にいたんだ。同僚を呼んで、捜査をするのか?」
「……そうだ。俺は今晩は、美味い餌を食いに来ただけだ。刑事としての俺は、ここにはいなかった」
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