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第25話
(19)
しおりを挟む男の腹部を慎重に押さえ、不自然な張りがないことを確認した和彦は、次に、手術の傷を覆っている大きなガーゼを剥がす。腸閉塞という事態には見舞われたものの、傷口は化膿しなかったようだ。
この調子なら、もう何日かすれば抜糸ができるだろうと思いながら、消毒をして、新しいガーゼを貼る。
「手術の経過は問題なし。それと腸閉塞のほうも、便が出たと報告を受けたので、ひとまず安心はしていいだろう」
大人用のオムツをつけた患者の男は、やれやれ、という表情となる。内心では、和彦も同じ気持ちだ。
このとき、治療した側・された側と、まったく違う立場でありながら、同じ気持ちを共有したであろう二人の目が合う。
総和会に匿われる身で、暴漢に襲われて重傷を負うという凄まじい経験をした男は、いかつい顔に似合わない、妙に愛嬌のある笑みを浮かべ、軽く頭を上下に動かす。喉が渇ききって声が出せないなりに、和彦に対して感謝の気持ちを示したらしい。
「……まだ油断はできない。手術のためにけっこう腹の中を弄ったから、またどんな影響が出るかわからないんだ。もう何事も起こらないかもしれないし、再発するかもしれない。なんにしても、腹の傷が完全に塞がるまでは様子見だ」
男に対してだけ説明しているわけではなく、ベッドの傍らに立つ監視役の組員にも聞かせているのだ。
和彦は輸液の確認をしてから、必要事項をメモ用紙に書き込む。
「明日から、水分を口からとることにしよう。ただし一日で採れるのは、カップ一杯――の半分だけ。あくまで口を湿らせる程度に。引き続き、尿と便の様子を観察してほしい。何かあれば、連絡を」
淡々と告げてメモ用紙を一枚破ると、素っ気なく組員に押し付ける。和彦の態度に驚いたように目を丸くしたが、頭を下げて受け取った。
「お疲れ様でした。車を呼びますから、コーヒーでも飲んでお待ちください」
「――もし、呼んだ車の後部座席に誰か乗っていたら、タクシーで帰るからな」
和彦は、冷然とした眼差しを組員に向ける。普段であれば、こんな眼差しを他人に向けることはないのだが、この場所にいて、ぬるい気持ちではいられなかった。
これ以上なく、和彦は激怒しているのだ。激しい火花を周囲に撒き散らす種の怒りではなく、冷たく重い鉛を胸に抱き込み、ひたすら静かに耐える、そういう怒りだ。
「コーヒーはいらない。今から一階に下りる」
「いや、しかし、何が起きるかわかりませんから――」
「総和会の息がかかったこの場所で、何が起きるんだ?」
和彦はさっさと部屋を出て手を洗うと、ソファに置いたジャケットとアタッシェケースを取り上げる。足早に玄関に向かうと、部屋にいた男たちが慌てた様子であとを追いかけてきた。
総和会会長のオンナが図に乗っていると思われようが、どうでもよかった。ここにいる男たちのすべてとは言わないが、何人かは確実に、〈あの男〉の息がかかっている。当然だ。患者の男は、第二遊撃隊が面倒を見ることになっており、その男がベッドの上で動けない状態となっても、役目は変わっていないはずだ。
だからこそ、〈あの男〉――南郷は、この雑居ビル内での和彦のすべての行動を把握できたのだ。
そうでなければ、あんなことができるはずがない。
エレベーターに乗り込んだ和彦は、数日前に自分の身に起こったことを思い返す。同時に、布越しのざらついた感触の口づけが、息苦しさとともに蘇った。忌々しくて仕方なく、一刻も早く消し去ってしまいたいが、一方で、胸の内では青白い怒りの炎がチロチロと燃え続けているため、それが叶わない。
本当は、どんな理由をつけてでも、ここに来ることを拒否したかったが、患者を放り出せないという義務感には勝てなかった。そんな気持ちすら南郷に見透かされているようで、気分が悪い。それ以上に、気味が悪い。
和彦がすべてを賢吾に報告することを、南郷は恐れていない。本人に確認したわけではないが、行動の大胆さを思えば、そうとしか考えられないのだ。自分のオンナがどんな目に遭ったのかを知って、賢吾がどう出るかを計っているのかもしれない。
動けば動くほど南郷の思惑通りになりそうで、それが和彦には空恐ろしい。
一階に到着したエレベーターの扉が開く。ハッと我に返った和彦は、慌ててエレベーターを降り、狭いエントランスを通って外に出ようとしたが、それは男たちに止められた。男の一人がまず外に出て、慎重に辺りの様子をうかがい始める。
和彦は短く息を吐き出すと、髪に指を差し込む。安心するのはまだ早いが、少なくとも、今夜はここに一泊する事態だけは免れそうだった。
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