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第25話
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「これだけ揃えるとなると、病院を経営するのと変わりませんね」
何げなく和彦が洩らした言葉に、藤倉はにこやかな表情を浮かべつつ、さらりとこう言った。
「あとは、優秀なお医者さんを揃えるだけですね。もっとも、暴力団組織に協力的な、という前提がつくわけですが」
「協力的……」
和彦も決して最初から、組の人間を治療することに協力的だったわけではない。
初めて、長嶺組の組員を治療したときのことを思い出し、つい苦笑を洩らす。あのとき、目の前に現れたのが三田村でなければ、今の状況はもっと違うものになっていたかもしれない。
「長嶺組長が美容外科クリニックの経営に乗り出すと聞いたときは、驚きました。初期投資は大きいし、医療関係はとにかく行政の目が厳しい。いざ開業しても、表向きは不穏なものを一切匂わせないようにしなくてはならない。わたしたちにしてみればかなり高いハードルを、長嶺組は乗り越えた。それはやはり、先生の存在が大きいでしょう」
まるで、講義を受けているようだ。頭の片隅で和彦はちらりとそんなことを考える。
ここに来るまでの千尋の説明もあってか、自分が急速に、総和会の人間として造り替えられているような感覚に陥る。もちろん、組織の事情を知ったところで大きな変化は訪れないだろう。ただ、環境には慣れてくるものなのだ。
一年前の和彦が、裏の世界に引きずり込まれ、急速に馴染んでいったように――。
「先生は、ご自分が手術をなさったあと、総和会や長嶺組が患者に渡す請求書をご覧になる機会はないので、ピンとこないでしょうが、リスクを冒してまで手がける手術というのは、高くつくんです。払うのは患者個人ではなく、その患者が所属する組織です。面子がかかっているからこそ、支払いが滞ることはない。長嶺組長は、先生にクリニックを任せましたが、それは道楽なんかではなく、きちんと儲けの目処が立っているからです」
藤倉が次のファイルを差し出してくる。ざっと目を通した和彦は、そこに記されているのがなんであるかすぐにわかった。クリニックを開業するために揃えた、備品や医療機器、医薬品、消耗品にいたるまで、詳細に記載されていたのだ。
「ぜひ参考にしたいと、総和会から正式に依頼をして、長嶺組から提供いただいた書類です」
胸がざわつき、和彦はうかがうように藤倉に視線を向ける。眼鏡のつるに指先を当て、藤倉はこれが本題だと言わんばかりに切り出した。
「――佐伯先生、新たにクリニックを開業する気はありませんか? 資金は、総和会が出します」
手にしたファイルを落とした和彦は、呆然としてしまう。それほど意外な提案だったのだ。
頭が混乱し、咄嗟に言葉が出ないのをいいことに、藤倉は畳み掛けるように続ける。
「覚えてらっしゃいますか? ずいぶん前に、料亭で設けた席で、わたしはこう言ったはずです。先生のクリニックに、総和会も資金面で協力させてもらえないだろうかと。あの席のあと、長嶺組長にあっさりと断られたんです。頓挫するかもしれないビジネスに、総和会を巻き込むわけにはいかない、とおっしゃられて」
「そう、だったのですか……」
「あれから、思いがけない形で、先生と総和会との関わりは変化しました」
藤倉が暗に何を仄めかしているか、すぐに和彦は察する。感じた羞恥に全身が熱くなり、うろたえそうになるところを、藤倉に強い眼差しを向けることで堪える。総和会の人間と会うということは、こういう羞恥と向き合うことでもあるのだ。
「長嶺組だけではなく、総和会との強い結びつきの証を、先生のために残したい――ということを、先日、長嶺会長がちらりと洩らしたんです。こうして資料を用意したのは、長嶺会長を慕う者たちが先走った結果とも言えますが……」
婉曲な表現をしているが、要は、守光の望みを受け入れろと言っているようなものだ。
和彦は、自分の顔が次第に強張っていくのを感じ、なんとか唇を動かそうとするが、肝心の言葉が出てこない。この場で即答などできるはずもなく、しかし、持ち帰って賢吾に相談したいとも言えない。これは、和彦と総和会の間の話だ。実際、賢吾に相談するにしても、ここで迂闊に名を出すのははばかられる。
口ごもる和彦を、藤倉はこの場で追い詰める気はないらしい。ファイルを閉じ、他のファイルと一緒に紙袋に入れた。
「クリニックの概要について、大まかではありますがまとめてあります。あくまで、〈我々〉の希望をまとめただけのものなので、お時間があるときにでも、簡単に目を通していただければ……。そして、先生の心に留めておいていただけるとありがたいです。返事は急ぎませんので」
何げなく和彦が洩らした言葉に、藤倉はにこやかな表情を浮かべつつ、さらりとこう言った。
「あとは、優秀なお医者さんを揃えるだけですね。もっとも、暴力団組織に協力的な、という前提がつくわけですが」
「協力的……」
和彦も決して最初から、組の人間を治療することに協力的だったわけではない。
初めて、長嶺組の組員を治療したときのことを思い出し、つい苦笑を洩らす。あのとき、目の前に現れたのが三田村でなければ、今の状況はもっと違うものになっていたかもしれない。
「長嶺組長が美容外科クリニックの経営に乗り出すと聞いたときは、驚きました。初期投資は大きいし、医療関係はとにかく行政の目が厳しい。いざ開業しても、表向きは不穏なものを一切匂わせないようにしなくてはならない。わたしたちにしてみればかなり高いハードルを、長嶺組は乗り越えた。それはやはり、先生の存在が大きいでしょう」
まるで、講義を受けているようだ。頭の片隅で和彦はちらりとそんなことを考える。
ここに来るまでの千尋の説明もあってか、自分が急速に、総和会の人間として造り替えられているような感覚に陥る。もちろん、組織の事情を知ったところで大きな変化は訪れないだろう。ただ、環境には慣れてくるものなのだ。
一年前の和彦が、裏の世界に引きずり込まれ、急速に馴染んでいったように――。
「先生は、ご自分が手術をなさったあと、総和会や長嶺組が患者に渡す請求書をご覧になる機会はないので、ピンとこないでしょうが、リスクを冒してまで手がける手術というのは、高くつくんです。払うのは患者個人ではなく、その患者が所属する組織です。面子がかかっているからこそ、支払いが滞ることはない。長嶺組長は、先生にクリニックを任せましたが、それは道楽なんかではなく、きちんと儲けの目処が立っているからです」
藤倉が次のファイルを差し出してくる。ざっと目を通した和彦は、そこに記されているのがなんであるかすぐにわかった。クリニックを開業するために揃えた、備品や医療機器、医薬品、消耗品にいたるまで、詳細に記載されていたのだ。
「ぜひ参考にしたいと、総和会から正式に依頼をして、長嶺組から提供いただいた書類です」
胸がざわつき、和彦はうかがうように藤倉に視線を向ける。眼鏡のつるに指先を当て、藤倉はこれが本題だと言わんばかりに切り出した。
「――佐伯先生、新たにクリニックを開業する気はありませんか? 資金は、総和会が出します」
手にしたファイルを落とした和彦は、呆然としてしまう。それほど意外な提案だったのだ。
頭が混乱し、咄嗟に言葉が出ないのをいいことに、藤倉は畳み掛けるように続ける。
「覚えてらっしゃいますか? ずいぶん前に、料亭で設けた席で、わたしはこう言ったはずです。先生のクリニックに、総和会も資金面で協力させてもらえないだろうかと。あの席のあと、長嶺組長にあっさりと断られたんです。頓挫するかもしれないビジネスに、総和会を巻き込むわけにはいかない、とおっしゃられて」
「そう、だったのですか……」
「あれから、思いがけない形で、先生と総和会との関わりは変化しました」
藤倉が暗に何を仄めかしているか、すぐに和彦は察する。感じた羞恥に全身が熱くなり、うろたえそうになるところを、藤倉に強い眼差しを向けることで堪える。総和会の人間と会うということは、こういう羞恥と向き合うことでもあるのだ。
「長嶺組だけではなく、総和会との強い結びつきの証を、先生のために残したい――ということを、先日、長嶺会長がちらりと洩らしたんです。こうして資料を用意したのは、長嶺会長を慕う者たちが先走った結果とも言えますが……」
婉曲な表現をしているが、要は、守光の望みを受け入れろと言っているようなものだ。
和彦は、自分の顔が次第に強張っていくのを感じ、なんとか唇を動かそうとするが、肝心の言葉が出てこない。この場で即答などできるはずもなく、しかし、持ち帰って賢吾に相談したいとも言えない。これは、和彦と総和会の間の話だ。実際、賢吾に相談するにしても、ここで迂闊に名を出すのははばかられる。
口ごもる和彦を、藤倉はこの場で追い詰める気はないらしい。ファイルを閉じ、他のファイルと一緒に紙袋に入れた。
「クリニックの概要について、大まかではありますがまとめてあります。あくまで、〈我々〉の希望をまとめただけのものなので、お時間があるときにでも、簡単に目を通していただければ……。そして、先生の心に留めておいていただけるとありがたいです。返事は急ぎませんので」
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