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第25話
(4)
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耳に注ぎ込むように囁いた南郷に、耳朶に歯を立てられる。このままでは食い千切られると、本気で危機感を覚えた和彦は我に返り、南郷の体を必死に押し戻す。
何か言われる前に、平手で思いきり頬を打っていた。
車内に鋭い音が響き、次に息苦しいほどの沈黙が訪れる。
和彦はシートに座り直すと、激しい動揺とは裏腹に、冷然とした声で告げた。
「……あなたを殴ったことをぼくに謝罪させたいなら、長嶺組長に話を通してください。そうすれば、土下座だろうが、あなたの気が済むように謝罪します」
南郷は凶悪な笑みを浮かべた。
「そんな野暮はしない。これは、俺とあんたとの間でケリをつけることだ。そして――」
突然頭を下げた南郷が発したのは、すまなかった、という一言だった。呆気に取られた和彦は、すぐには声が出せず、ただ目を丸くする。
「これでケリはついた。だろ?」
頭を上げた南郷が悪びれた様子もなく同意を求めてくる。車内というごく狭いスペースでのトラブルを外に持ち出し、組の面子というレベルにまで騒ぎ立てるつもりはない。
和彦は、南郷の反応をうかがいつつも、小さく頷く。
力を持たない自分には、南郷の謝罪をこの場で受け入れるしかないと、よくわかっていたからだ。
「――心ここにあらず、といった感じだな、先生」
笑いを含んだ声でそんなことを言われ、ショーウィンドーにぼんやりと視線を投げかけていた和彦は慌てて隣を見る。賢吾がニヤニヤと笑っていた。
ムキになって反論しようとしたが、ここがどこであるか思い出し、寸前のところで声を潜める。
「はっきり言って、歩くのもつらいほど……眠いんだ」
「だったら遠慮なく、俺の腕に掴まれ」
できるわけないだろ、と心の中で言い返して、和彦は周囲を見回す。夕方の街中は、人と車で雑然として慌ただしい。仕事や学校を終え、夜が訪れるまでの時間をどう過ごすか、足早に歩きながら考えている人もいるだろう。
当の和彦は、予定ではまっすぐ帰宅し、食事もとらずにすぐにベッドに潜り込むつもりだった。睡眠不足でとにかくフラフラなのだ。ところが、いつものように送迎の車に乗り込むと、なぜか長嶺組の事務所に連れて行かれ、そこで待機していた賢吾とともに、こうして街を歩く状況となった。
夕食の前に軽いデート気分を味わいたいと、大蛇を背負った男がヌケヌケと言ったのだ。
街中の人通りの多い場所を、賢吾と並んで歩くのは新鮮だ。何かと理由をつけてよく連れ出されてはいるのだが、車で降りた目の前が目的地であったり、護衛が前後にしっかりと張り付いていたりすることがほとんどなのだ。今も護衛の組員はついているが、それでもずいぶん離れて歩いている。普段の厳重な護衛ぶりを知っていると、この状態は無防備といえるはずだ。
「何か企んでいるのか?」
髪を掻き上げ、さりげなく和彦は問いかける。スラックスのポケットに片手を突っ込み、賢吾は肩をすくめた。
「俺は信用がねーんだな。純粋に、先生とのささやかなデートを楽しみたいだけなのに」
「……往来で、物騒な男が何言ってるんだ……」
ダブルのスーツをこれ以上なく完璧に着こなした、一見して極上に見える男は、人に紛れて街中を歩くにはあまりに目立ちすぎる。辺りを睥睨しているわけでも、荒々しい空気を振り撒いているわけでもないが、やはり明らかに、一般人とは何かが違う。
前までの和彦なら、それがなんであるか明確に表現できたのかもしれないが、今は無理だった。いつまでも自分は普通の感覚を持ち続けていると過信しているうちに、その〈普通の感覚〉が鈍くなってきている。
いや、裏の世界に馴染んでしまった、というべきか。
「――昼間、クリニックを抜け出して、患者のところに行ったそうだな」
低く抑えた声で賢吾が言う。ここで切り出されるとは思わず、一瞬戸惑った和彦だが、すぐに頷く。
「大変だな。一昨日からかかりっきりだろ。昨日……というか今日も、夜中に部屋に戻ってきたんだったな。その様子だと、あまり寝ないうちにクリニックに出勤した、ってところか」
和彦自身が詳細な説明をするまでもなく、賢吾には組員を通して、和彦の行動はほぼ正確に伝わっている。総和会からも、報告が入っているだろう。もちろん、南郷が和彦を送ったことも。
ただ、車中での和彦と南郷のやり取りについてはどうなのか、確認していない。賢吾や総和会は把握しているのか、何もなかったこととして、南郷は自分の胸に収めてしまったのか。
何か言われる前に、平手で思いきり頬を打っていた。
車内に鋭い音が響き、次に息苦しいほどの沈黙が訪れる。
和彦はシートに座り直すと、激しい動揺とは裏腹に、冷然とした声で告げた。
「……あなたを殴ったことをぼくに謝罪させたいなら、長嶺組長に話を通してください。そうすれば、土下座だろうが、あなたの気が済むように謝罪します」
南郷は凶悪な笑みを浮かべた。
「そんな野暮はしない。これは、俺とあんたとの間でケリをつけることだ。そして――」
突然頭を下げた南郷が発したのは、すまなかった、という一言だった。呆気に取られた和彦は、すぐには声が出せず、ただ目を丸くする。
「これでケリはついた。だろ?」
頭を上げた南郷が悪びれた様子もなく同意を求めてくる。車内というごく狭いスペースでのトラブルを外に持ち出し、組の面子というレベルにまで騒ぎ立てるつもりはない。
和彦は、南郷の反応をうかがいつつも、小さく頷く。
力を持たない自分には、南郷の謝罪をこの場で受け入れるしかないと、よくわかっていたからだ。
「――心ここにあらず、といった感じだな、先生」
笑いを含んだ声でそんなことを言われ、ショーウィンドーにぼんやりと視線を投げかけていた和彦は慌てて隣を見る。賢吾がニヤニヤと笑っていた。
ムキになって反論しようとしたが、ここがどこであるか思い出し、寸前のところで声を潜める。
「はっきり言って、歩くのもつらいほど……眠いんだ」
「だったら遠慮なく、俺の腕に掴まれ」
できるわけないだろ、と心の中で言い返して、和彦は周囲を見回す。夕方の街中は、人と車で雑然として慌ただしい。仕事や学校を終え、夜が訪れるまでの時間をどう過ごすか、足早に歩きながら考えている人もいるだろう。
当の和彦は、予定ではまっすぐ帰宅し、食事もとらずにすぐにベッドに潜り込むつもりだった。睡眠不足でとにかくフラフラなのだ。ところが、いつものように送迎の車に乗り込むと、なぜか長嶺組の事務所に連れて行かれ、そこで待機していた賢吾とともに、こうして街を歩く状況となった。
夕食の前に軽いデート気分を味わいたいと、大蛇を背負った男がヌケヌケと言ったのだ。
街中の人通りの多い場所を、賢吾と並んで歩くのは新鮮だ。何かと理由をつけてよく連れ出されてはいるのだが、車で降りた目の前が目的地であったり、護衛が前後にしっかりと張り付いていたりすることがほとんどなのだ。今も護衛の組員はついているが、それでもずいぶん離れて歩いている。普段の厳重な護衛ぶりを知っていると、この状態は無防備といえるはずだ。
「何か企んでいるのか?」
髪を掻き上げ、さりげなく和彦は問いかける。スラックスのポケットに片手を突っ込み、賢吾は肩をすくめた。
「俺は信用がねーんだな。純粋に、先生とのささやかなデートを楽しみたいだけなのに」
「……往来で、物騒な男が何言ってるんだ……」
ダブルのスーツをこれ以上なく完璧に着こなした、一見して極上に見える男は、人に紛れて街中を歩くにはあまりに目立ちすぎる。辺りを睥睨しているわけでも、荒々しい空気を振り撒いているわけでもないが、やはり明らかに、一般人とは何かが違う。
前までの和彦なら、それがなんであるか明確に表現できたのかもしれないが、今は無理だった。いつまでも自分は普通の感覚を持ち続けていると過信しているうちに、その〈普通の感覚〉が鈍くなってきている。
いや、裏の世界に馴染んでしまった、というべきか。
「――昼間、クリニックを抜け出して、患者のところに行ったそうだな」
低く抑えた声で賢吾が言う。ここで切り出されるとは思わず、一瞬戸惑った和彦だが、すぐに頷く。
「大変だな。一昨日からかかりっきりだろ。昨日……というか今日も、夜中に部屋に戻ってきたんだったな。その様子だと、あまり寝ないうちにクリニックに出勤した、ってところか」
和彦自身が詳細な説明をするまでもなく、賢吾には組員を通して、和彦の行動はほぼ正確に伝わっている。総和会からも、報告が入っているだろう。もちろん、南郷が和彦を送ったことも。
ただ、車中での和彦と南郷のやり取りについてはどうなのか、確認していない。賢吾や総和会は把握しているのか、何もなかったこととして、南郷は自分の胸に収めてしまったのか。
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