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第25話
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すぐに車を手配するという言葉を受けた和彦は、背もたれに深く体を預けようとしたところで、自分の格好に気づく。もう必要なくなった手術衣を脱ぐと、丸めて組員に手渡す。
ささやかな開放感を味わいながら、ソファに置いたままにしてあったジャケットを羽織る。ここで、ポケットに入れたままにしておいた携帯電話の存在を思い出し、何時間ぶりかに電源を入れる。そしてアタッシェケースから、もう一台の携帯電話を取り出す。先週、賢吾から渡されたプリペイド携帯だ。
一瞬逡巡はしたものの、電源を入れてみると、メールが届いていた。わざわざ確認するまでもなく、送信主はわかっている。この携帯電話の番号とメールアドレスは、賢吾以外にはたった一人、里見にしか知らせていないのだ。
以来、毎日メールが送られてくる。内容は他愛ないものばかりだが、だからこそ、和彦の生活の様子を慎重にうかがっているのだと感じられる。当然といえば当然だろう。これまで、公衆電話から一方的に電話をかけてくるだけだった相手が、突然、携帯電話から連絡を取ってきたのだ。
それでも理由を問うてこないのは、里見らしいといえた。問われたとしても、和彦も答えに困る。
複雑な気持ちを押し隠し、二時間ほど前に送られてきたメールに目を通す。
和彦の父親である俊哉と一緒に昼食をとったという内容に、無意識のうちに眉をひそめていた。和彦の態度の軟化を気にかけているとも記されており、わずかな苛立ちが胸の奥で芽生える。実家で暮らしている頃、父親は和彦の様子になど目を向けたことはなかったのだ。
佐伯家の様子を伝えてほしいと頼んだのは自分だが、知らされるたびに、神経がささくれ立つような感情に苛まれるのかと思うと、疲れているせいもあり、少しだけ和彦は気が滅入る。だからといって届いたメールを無視するわけにもいかない。
何時であろうがメールしてもらってかまわないという里見の言葉に甘え、俊哉のことには触れずにメールを返信した。
これでやっと、日づけは変わってしまったが、今日一日の仕事が片付いた気がする。
和彦は大きく息を吐き出すと、顔を仰向かせて目を閉じる。これから帰宅したところで、あまり睡眠時間はとれないだろう。ほんの少し前まで、桜の花を眺めて浮かれていたのがウソのような慌ただしさだ。
閉じた瞼の裏に、満開の桜の映像が映し出される。この桜を一緒に眺めたのは――。
「先生、もうすぐ車が到着しますので、一階までご案内します」
いつの間にか眠っていたらしい。そう声をかけられて目を開けた和彦は反射的に、手にしたままの携帯電話で時間を確認する。メールを送信してから、三十分ほど経っていた。慌てて携帯電話を、ジャケットのもう片方のポケットに入れた。
アタッシェケースを手に部屋を出る。古い雑居ビルの共用廊下は、室内の明るさとは対照的に薄暗く、時間の感覚が麻痺していた和彦はようやく、今が深夜なのだと実感する。
エレベーターで一階に降りると、ちょうど車が雑居ビルの前に停まったところだった。和彦を招くように後部座席のドアが開き、身を乗り出すようにして一人の男が顔を見せる。和彦は息を呑み、足を止めた。
「どうした先生、早く乗ったらどうだ」
獣の唸り声が空気を震わせる。南郷の声と口調は決して荒々しいわけではないのに、和彦にそんな印象を抱かせる。もしかすると、南郷が内に飼っているものの気配を感じ取っているのかもしれない。
車を呼ぶのにやけに時間がかかったと思ったが、どうやら南郷が関係あるらしい。和彦はきつい眼差しを南郷に向けはしたものの、無視して立ち去れるはずもなく、仕方なく車に乗り込む。
「どうして――」
車が発進してすぐ、和彦は疑問を口にしようとしたが、こちらの言うことなど聞く気はないらしく、一方的に南郷が説明を始めた。
「第二遊撃隊で面倒を見ることになっていた男だ。厄介事を起こして、総和会に泣きついてきたんだが、それでおとなしくしてりゃいいものを、ふらふらと出歩いて、あの様だ。――総和会の中で詰め腹を切らせることで話はついている。それが、外の組の者にボコられて死んだとあっちゃ、あちこちにケジメがつかない。〈今〉は、生きていてもらわないと困る」
南郷と一緒にいるというだけで、まるで本能が警報を発しているかのように、全身の神経がざわつく。存在そのものがまるで凶器のようで、怖くて痛いのだ。そんな男に物騒な発言をされると、吐き気すら催しそうだ。
和彦は感じる不快さを隠そうともせず、露骨に表情に出す。
「……詰め腹を切らせるって、もしかして……」
最後の一言が声に出せず、口ごもる。南郷は悠然とシートにもたれかかりながら、嘲笑に近い表情を浮かべた。
ささやかな開放感を味わいながら、ソファに置いたままにしてあったジャケットを羽織る。ここで、ポケットに入れたままにしておいた携帯電話の存在を思い出し、何時間ぶりかに電源を入れる。そしてアタッシェケースから、もう一台の携帯電話を取り出す。先週、賢吾から渡されたプリペイド携帯だ。
一瞬逡巡はしたものの、電源を入れてみると、メールが届いていた。わざわざ確認するまでもなく、送信主はわかっている。この携帯電話の番号とメールアドレスは、賢吾以外にはたった一人、里見にしか知らせていないのだ。
以来、毎日メールが送られてくる。内容は他愛ないものばかりだが、だからこそ、和彦の生活の様子を慎重にうかがっているのだと感じられる。当然といえば当然だろう。これまで、公衆電話から一方的に電話をかけてくるだけだった相手が、突然、携帯電話から連絡を取ってきたのだ。
それでも理由を問うてこないのは、里見らしいといえた。問われたとしても、和彦も答えに困る。
複雑な気持ちを押し隠し、二時間ほど前に送られてきたメールに目を通す。
和彦の父親である俊哉と一緒に昼食をとったという内容に、無意識のうちに眉をひそめていた。和彦の態度の軟化を気にかけているとも記されており、わずかな苛立ちが胸の奥で芽生える。実家で暮らしている頃、父親は和彦の様子になど目を向けたことはなかったのだ。
佐伯家の様子を伝えてほしいと頼んだのは自分だが、知らされるたびに、神経がささくれ立つような感情に苛まれるのかと思うと、疲れているせいもあり、少しだけ和彦は気が滅入る。だからといって届いたメールを無視するわけにもいかない。
何時であろうがメールしてもらってかまわないという里見の言葉に甘え、俊哉のことには触れずにメールを返信した。
これでやっと、日づけは変わってしまったが、今日一日の仕事が片付いた気がする。
和彦は大きく息を吐き出すと、顔を仰向かせて目を閉じる。これから帰宅したところで、あまり睡眠時間はとれないだろう。ほんの少し前まで、桜の花を眺めて浮かれていたのがウソのような慌ただしさだ。
閉じた瞼の裏に、満開の桜の映像が映し出される。この桜を一緒に眺めたのは――。
「先生、もうすぐ車が到着しますので、一階までご案内します」
いつの間にか眠っていたらしい。そう声をかけられて目を開けた和彦は反射的に、手にしたままの携帯電話で時間を確認する。メールを送信してから、三十分ほど経っていた。慌てて携帯電話を、ジャケットのもう片方のポケットに入れた。
アタッシェケースを手に部屋を出る。古い雑居ビルの共用廊下は、室内の明るさとは対照的に薄暗く、時間の感覚が麻痺していた和彦はようやく、今が深夜なのだと実感する。
エレベーターで一階に降りると、ちょうど車が雑居ビルの前に停まったところだった。和彦を招くように後部座席のドアが開き、身を乗り出すようにして一人の男が顔を見せる。和彦は息を呑み、足を止めた。
「どうした先生、早く乗ったらどうだ」
獣の唸り声が空気を震わせる。南郷の声と口調は決して荒々しいわけではないのに、和彦にそんな印象を抱かせる。もしかすると、南郷が内に飼っているものの気配を感じ取っているのかもしれない。
車を呼ぶのにやけに時間がかかったと思ったが、どうやら南郷が関係あるらしい。和彦はきつい眼差しを南郷に向けはしたものの、無視して立ち去れるはずもなく、仕方なく車に乗り込む。
「どうして――」
車が発進してすぐ、和彦は疑問を口にしようとしたが、こちらの言うことなど聞く気はないらしく、一方的に南郷が説明を始めた。
「第二遊撃隊で面倒を見ることになっていた男だ。厄介事を起こして、総和会に泣きついてきたんだが、それでおとなしくしてりゃいいものを、ふらふらと出歩いて、あの様だ。――総和会の中で詰め腹を切らせることで話はついている。それが、外の組の者にボコられて死んだとあっちゃ、あちこちにケジメがつかない。〈今〉は、生きていてもらわないと困る」
南郷と一緒にいるというだけで、まるで本能が警報を発しているかのように、全身の神経がざわつく。存在そのものがまるで凶器のようで、怖くて痛いのだ。そんな男に物騒な発言をされると、吐き気すら催しそうだ。
和彦は感じる不快さを隠そうともせず、露骨に表情に出す。
「……詰め腹を切らせるって、もしかして……」
最後の一言が声に出せず、口ごもる。南郷は悠然とシートにもたれかかりながら、嘲笑に近い表情を浮かべた。
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