541 / 1,268
第24話
(23)
しおりを挟む
息を呑んだ和彦は、桜の花に一瞬にして魅入られる。無意識のうちに賢吾の腕にきつくしがみついていた。
「この辺りは、今が満開の時期だ。だから連れてきた」
「わざわざ?」
ほっと息を吐き出して和彦が問いかけると、賢吾も桜の木を見上げながら和らいだ表情となる。
「――花見がしたかったんだ。先生と二人きりで。もっとも先生のほうは、とっくに桜は見飽きたかもしれないけどな」
「そんなことは……ない。この何日かで見た桜は、全部印象が違うんだ」
「こんな辺ぴな場所に、人が桜を見にやってくるのは、理由がある。特別な桜があるんだ。その桜が人を呼び寄せるようになって、いつの間にか他の桜が植えられて、こんなふうになったらしい」
話しながら歩いているうちに、鮮やかなピンク色の花をつけた桜の木が目に飛び込んでくる。他の木とは種類が違うのは、一目瞭然だった。
古くて大きな木から伸びた枝は、満開の花をつけて重そうに垂れている。さほど植物に詳しくない和彦でも、すぐにこの名が口を突いて出た。
「……しだれ桜?」
「そうだ。樹齢は確か、軽く三百年は超えているはずだ。まあ、立派なもんだ。古いくせに、どの桜よりも艶やかな花を咲かせて、泰然としてる」
淡々と語る賢吾の言葉に、ふと和彦の脳裏にある男の顔が浮かぶ。もしかすると賢吾も同じかもしれない。和彦は、桜ではなく、賢吾の横顔を見つめていた。視線に気づいたのか、前触れもなく賢吾がこちらを見て、ニヤリと笑う。
「なんだ先生、俺に見惚れているのか?」
「どうしてそんな恥ずかしいことを、口にできるんだ……」
「浮かれているんだ。着物姿の先生と二人、こうして立派な桜を眺められて。去年の今ごろとは違って、今年はそれなりに落ち着いた日々を過ごせていると、実感もしている。来年は――どうだろうな?」
どう答えれば賢吾は満足なのだろうかと考えた次の瞬間、妙な照れを感じた和彦は、しがみついていた腕から手を離す。賢吾に背を向けて、足元に視線を落とす。地面には、まるで雪のように桜の花びらが積もっており、風が吹くたびにふわりと舞い上がる。
屈み込み、地面の窪みに溜まった花びらをてのひらで掬い上げると、フッと息を吹きかける。ひらひらと宙を舞った花びらを再びてのひらで受け止めると、賢吾がハンカチを広げて差し出してきた。何事かと顔を上げると、意外なことを言われる。
「花びらを拾ってここに入れてくれ。土のついていないきれいなものを、たくさんな」
「……塩漬けにでもするのか?」
「先生が食いたいなら、作ってもらえ」
他に使い道などあるのだろうかと思いながらも、言われた通り和彦は、桜の花びらを集めてハンカチにのせていく。花びらを集めるのは、さほど苦ではなかった。木の根の周囲に、散ったばかりの花びらが風に乗っては運ばれてくるのだ。
ある程度の量の桜の花びらが集まると、賢吾は丁寧にハンカチで包む。何も言わず片腕を差し出されたので、和彦も黙ってその腕を取る。
やってきた小道をゆっくりと引き返しながら、やはりどうしても、賢吾の手にあるハンカチをちらちらと見てしまう。和彦の興味をはぐらかすように、柔らかな口調で賢吾が言った。
「すぐ近くに宿を取ってある。もう少しだけ我慢してくれ」
「それはかまわないが、最初から一泊するつもりだったんだな」
「先生と二人、じっくりと花見の余韻に浸るのもいいと思ってな。小さな宿だから、あまり期待はするなよ」
そんなことは気にしないと応じてから、和彦はもう一度、賢吾の手にあるハンカチを見遣る。賢吾の口ぶりから、『花見の余韻に浸る』ために必要なのだろうと見当をつけた。
長嶺組組長という肩書きを持つ男は、意外にロマンチストだと思いながら。
賢吾に意図があったのかどうかは知らないが、三階の部屋から眺められる景色は申し分がなかった。桜の木が並ぶ小道を見下ろせるのだ。
外観からして古い旅館で、部屋も簡素としか言いようがないのだが、春の短い期間、この景色を眺められるのなら、余計なものは必要ないとも思える。
提灯の明かりを受けて、闇の中にぼんやりと浮かび上がる満開の桜は、まさに幽玄と表現できる。さきほどは木を見上げていたが、こうして見下ろしてみると、また趣きが違う。
「桜の道だ……」
ぽつりと呟いた和彦は手すりを掴み、腰窓から思いきり身を乗り出す。ふわりと風が吹き、風呂上がりでまだ濡れている髪を撫でる。
つい最近、同じような行動を取ったことがあるなと思った次の瞬間、和彦の脳裏を過ぎったのは、守光と泊まった旅館での出来事だった。
桜を眺めて、旅館に泊まる。取る行動が父子で似ているのか、それとも、賢吾が意識して張り合ったのか。
「この辺りは、今が満開の時期だ。だから連れてきた」
「わざわざ?」
ほっと息を吐き出して和彦が問いかけると、賢吾も桜の木を見上げながら和らいだ表情となる。
「――花見がしたかったんだ。先生と二人きりで。もっとも先生のほうは、とっくに桜は見飽きたかもしれないけどな」
「そんなことは……ない。この何日かで見た桜は、全部印象が違うんだ」
「こんな辺ぴな場所に、人が桜を見にやってくるのは、理由がある。特別な桜があるんだ。その桜が人を呼び寄せるようになって、いつの間にか他の桜が植えられて、こんなふうになったらしい」
話しながら歩いているうちに、鮮やかなピンク色の花をつけた桜の木が目に飛び込んでくる。他の木とは種類が違うのは、一目瞭然だった。
古くて大きな木から伸びた枝は、満開の花をつけて重そうに垂れている。さほど植物に詳しくない和彦でも、すぐにこの名が口を突いて出た。
「……しだれ桜?」
「そうだ。樹齢は確か、軽く三百年は超えているはずだ。まあ、立派なもんだ。古いくせに、どの桜よりも艶やかな花を咲かせて、泰然としてる」
淡々と語る賢吾の言葉に、ふと和彦の脳裏にある男の顔が浮かぶ。もしかすると賢吾も同じかもしれない。和彦は、桜ではなく、賢吾の横顔を見つめていた。視線に気づいたのか、前触れもなく賢吾がこちらを見て、ニヤリと笑う。
「なんだ先生、俺に見惚れているのか?」
「どうしてそんな恥ずかしいことを、口にできるんだ……」
「浮かれているんだ。着物姿の先生と二人、こうして立派な桜を眺められて。去年の今ごろとは違って、今年はそれなりに落ち着いた日々を過ごせていると、実感もしている。来年は――どうだろうな?」
どう答えれば賢吾は満足なのだろうかと考えた次の瞬間、妙な照れを感じた和彦は、しがみついていた腕から手を離す。賢吾に背を向けて、足元に視線を落とす。地面には、まるで雪のように桜の花びらが積もっており、風が吹くたびにふわりと舞い上がる。
屈み込み、地面の窪みに溜まった花びらをてのひらで掬い上げると、フッと息を吹きかける。ひらひらと宙を舞った花びらを再びてのひらで受け止めると、賢吾がハンカチを広げて差し出してきた。何事かと顔を上げると、意外なことを言われる。
「花びらを拾ってここに入れてくれ。土のついていないきれいなものを、たくさんな」
「……塩漬けにでもするのか?」
「先生が食いたいなら、作ってもらえ」
他に使い道などあるのだろうかと思いながらも、言われた通り和彦は、桜の花びらを集めてハンカチにのせていく。花びらを集めるのは、さほど苦ではなかった。木の根の周囲に、散ったばかりの花びらが風に乗っては運ばれてくるのだ。
ある程度の量の桜の花びらが集まると、賢吾は丁寧にハンカチで包む。何も言わず片腕を差し出されたので、和彦も黙ってその腕を取る。
やってきた小道をゆっくりと引き返しながら、やはりどうしても、賢吾の手にあるハンカチをちらちらと見てしまう。和彦の興味をはぐらかすように、柔らかな口調で賢吾が言った。
「すぐ近くに宿を取ってある。もう少しだけ我慢してくれ」
「それはかまわないが、最初から一泊するつもりだったんだな」
「先生と二人、じっくりと花見の余韻に浸るのもいいと思ってな。小さな宿だから、あまり期待はするなよ」
そんなことは気にしないと応じてから、和彦はもう一度、賢吾の手にあるハンカチを見遣る。賢吾の口ぶりから、『花見の余韻に浸る』ために必要なのだろうと見当をつけた。
長嶺組組長という肩書きを持つ男は、意外にロマンチストだと思いながら。
賢吾に意図があったのかどうかは知らないが、三階の部屋から眺められる景色は申し分がなかった。桜の木が並ぶ小道を見下ろせるのだ。
外観からして古い旅館で、部屋も簡素としか言いようがないのだが、春の短い期間、この景色を眺められるのなら、余計なものは必要ないとも思える。
提灯の明かりを受けて、闇の中にぼんやりと浮かび上がる満開の桜は、まさに幽玄と表現できる。さきほどは木を見上げていたが、こうして見下ろしてみると、また趣きが違う。
「桜の道だ……」
ぽつりと呟いた和彦は手すりを掴み、腰窓から思いきり身を乗り出す。ふわりと風が吹き、風呂上がりでまだ濡れている髪を撫でる。
つい最近、同じような行動を取ったことがあるなと思った次の瞬間、和彦の脳裏を過ぎったのは、守光と泊まった旅館での出来事だった。
桜を眺めて、旅館に泊まる。取る行動が父子で似ているのか、それとも、賢吾が意識して張り合ったのか。
41
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…



塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる