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第24話
(22)
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「……ヤクザの組長が、ずいぶん可愛いことを言うんだな」
さらりと軽口で応じた和彦を、なぜか賢吾がまじまじと凝視してくる。機嫌を損ねたかと一瞬緊張したが、どうやらそうではないようだ。
「俺相手に『可愛い』なんて単語を使うのは、先生ぐらいのものだろうな。オヤジですら、言ってくれたことはないぞ」
「言ってもらいたかったのか……」
賢吾は唇の端に微苦笑らしきものを刻み、わざわざ後部座席のドアを開けてくれる。おとなしく乗り込んだ和彦だが、車が走り出した方向を確認してから、たまらず賢吾に問いかけた。
「次は、どこに行くんだ?」
「ついてからのお楽しみだ」
「帰りが遅くなるんじゃ――」
「先生は何も心配しなくていい」
別に心配はしていない、と心の中で応じた和彦は、ウィンドーの向こうを流れる景色に目を向ける。
夕方になり、少しずつ気温が下がってきたが、車内はほどよく暖房が効き、しかも食後だ。歩き回ったことによる軽い疲労感もあり、急速に眠気に襲われる。賢吾の視線を気にかけつつも、外の景色を眺めるふりをして目を閉じていた。
ただ、なんとなく落ち着かない。車内で男たちがどんな会話を交わすのか、どんな道を走っているのか、神経の一部を尖らせて探る。裏の世界に引き込まれる前から、自分はこんな癖を持っていたのか、もう和彦は思い出すことはできない。なんのためにこんなことをしているのかすら、実は和彦自身わかっていないのだ。
いまさら賢吾が、和彦をどこかに連れ去るはずもないのに。
そう思いながらも、車が、坂とカーブの多い道に差しかかったのを感じ、一体どこに向かっているのだろうかと、さすがに不安になってくる。
とうとう和彦はゆっくりと目を開け、思いがけない周囲の暗さに驚く。軽くウトウトしたつもりだが、時間の感覚が麻痺する程度には寝入ってしまったらしい。完全に日が落ちていた。
外を見ようとシートに座り直すと、賢吾に声をかけられた。
「気持ちよさそうに寝ていたな、先生」
「……目を閉じていただけだ」
「寝息が聞こえたと思ったが、そうか、俺の空耳だな」
和彦が横目でじろりと睨みつけると、賢吾はわずかに口元を緩めた。気を取り直し、改めて外に目を向ける。車は、街灯も乏しい山の中を走っていた。ライトの明かりが闇を切り裂くように前方を照らしており、木々の間から何か飛び出してきそうな雰囲気だ。
「ここは……?」
「先生に見せたいものがある」
「見せたいものって――」
「行けばわかる」
車がさらに走るにしたがい道は細くなり、人家の数も目に見えて少なくなってくる。さすがに不安になってきたところで、車はやっと、ある脇道の前で停まった。賢吾を見ると頷かれたので、ここが目的地のようだ。
車を降りた和彦は、まだ説明をしてくれない賢吾について脇道に入る。意外にもきれいに整備されており、点々と提灯が吊るされているため、先々の道までぼんやりと照らされている。来る途中、看板には気づかなかったが、確かに〈何か〉があるようだ。
「少し坂がきつい道だが、我慢してくれ」
「それはかまわないが……」
和彦はちらりと背後を振り返る。どこに行くにもついてきていた護衛の組員たちが、車に残ったままなのだ。和彦が何を心配したのかわかったらしく、賢吾が言った。
「ここから先についてくるのは、野暮ってものだ。道はこの一本しかないから、俺を狙う奴がいるにしても、嫌でもあいつらとかち合うことになる」
「……護衛は大変だな。あちこち動き回る組長に振り回されて」
「それは言うな。先生を連れて出歩くのが、俺の数少ない楽しみなんだから」
さりげなく言われた言葉に、心をくすぐられる。どういう表情を浮かべていいかわからず、和彦が唇を引き結ぶと、賢吾は周囲を確認してから、片腕を突き出してきた。
「掴まれ、先生。足を引きずって歩いてるぞ」
うろたえ、顔を熱くしながら、和彦も辺りの様子をうかがう。
「でも、人が来るんじゃ……」
「昼間は、こんな山奥でも人が多いんだがな。夜はさすがに、わざわざやってくる物好きはそういないだろ。来るときも、他の車とすれ違わなかった」
つまり、気にするなと言いたいらしい。足を引きずっているのも本当で、下り坂がきつくて、草履の鼻緒が指の間に食い込むのだ。
賢吾の優しさに甘えることにして、和彦は腕に掴まる。
歩いているうちに、賢吾が何を見せてくれようとしているのか、薄々とながらわかってくる。風に乗って、ひらひらと舞い落ちてくるものがあるのだ。坂を下りると、小道に沿うように桜の木が植えられていた。すべて満開で、提灯の控えめな明かりに照らされると、薄ピンクというより、妖しさを漂わせた花びらの白さが際立って見える。
さらりと軽口で応じた和彦を、なぜか賢吾がまじまじと凝視してくる。機嫌を損ねたかと一瞬緊張したが、どうやらそうではないようだ。
「俺相手に『可愛い』なんて単語を使うのは、先生ぐらいのものだろうな。オヤジですら、言ってくれたことはないぞ」
「言ってもらいたかったのか……」
賢吾は唇の端に微苦笑らしきものを刻み、わざわざ後部座席のドアを開けてくれる。おとなしく乗り込んだ和彦だが、車が走り出した方向を確認してから、たまらず賢吾に問いかけた。
「次は、どこに行くんだ?」
「ついてからのお楽しみだ」
「帰りが遅くなるんじゃ――」
「先生は何も心配しなくていい」
別に心配はしていない、と心の中で応じた和彦は、ウィンドーの向こうを流れる景色に目を向ける。
夕方になり、少しずつ気温が下がってきたが、車内はほどよく暖房が効き、しかも食後だ。歩き回ったことによる軽い疲労感もあり、急速に眠気に襲われる。賢吾の視線を気にかけつつも、外の景色を眺めるふりをして目を閉じていた。
ただ、なんとなく落ち着かない。車内で男たちがどんな会話を交わすのか、どんな道を走っているのか、神経の一部を尖らせて探る。裏の世界に引き込まれる前から、自分はこんな癖を持っていたのか、もう和彦は思い出すことはできない。なんのためにこんなことをしているのかすら、実は和彦自身わかっていないのだ。
いまさら賢吾が、和彦をどこかに連れ去るはずもないのに。
そう思いながらも、車が、坂とカーブの多い道に差しかかったのを感じ、一体どこに向かっているのだろうかと、さすがに不安になってくる。
とうとう和彦はゆっくりと目を開け、思いがけない周囲の暗さに驚く。軽くウトウトしたつもりだが、時間の感覚が麻痺する程度には寝入ってしまったらしい。完全に日が落ちていた。
外を見ようとシートに座り直すと、賢吾に声をかけられた。
「気持ちよさそうに寝ていたな、先生」
「……目を閉じていただけだ」
「寝息が聞こえたと思ったが、そうか、俺の空耳だな」
和彦が横目でじろりと睨みつけると、賢吾はわずかに口元を緩めた。気を取り直し、改めて外に目を向ける。車は、街灯も乏しい山の中を走っていた。ライトの明かりが闇を切り裂くように前方を照らしており、木々の間から何か飛び出してきそうな雰囲気だ。
「ここは……?」
「先生に見せたいものがある」
「見せたいものって――」
「行けばわかる」
車がさらに走るにしたがい道は細くなり、人家の数も目に見えて少なくなってくる。さすがに不安になってきたところで、車はやっと、ある脇道の前で停まった。賢吾を見ると頷かれたので、ここが目的地のようだ。
車を降りた和彦は、まだ説明をしてくれない賢吾について脇道に入る。意外にもきれいに整備されており、点々と提灯が吊るされているため、先々の道までぼんやりと照らされている。来る途中、看板には気づかなかったが、確かに〈何か〉があるようだ。
「少し坂がきつい道だが、我慢してくれ」
「それはかまわないが……」
和彦はちらりと背後を振り返る。どこに行くにもついてきていた護衛の組員たちが、車に残ったままなのだ。和彦が何を心配したのかわかったらしく、賢吾が言った。
「ここから先についてくるのは、野暮ってものだ。道はこの一本しかないから、俺を狙う奴がいるにしても、嫌でもあいつらとかち合うことになる」
「……護衛は大変だな。あちこち動き回る組長に振り回されて」
「それは言うな。先生を連れて出歩くのが、俺の数少ない楽しみなんだから」
さりげなく言われた言葉に、心をくすぐられる。どういう表情を浮かべていいかわからず、和彦が唇を引き結ぶと、賢吾は周囲を確認してから、片腕を突き出してきた。
「掴まれ、先生。足を引きずって歩いてるぞ」
うろたえ、顔を熱くしながら、和彦も辺りの様子をうかがう。
「でも、人が来るんじゃ……」
「昼間は、こんな山奥でも人が多いんだがな。夜はさすがに、わざわざやってくる物好きはそういないだろ。来るときも、他の車とすれ違わなかった」
つまり、気にするなと言いたいらしい。足を引きずっているのも本当で、下り坂がきつくて、草履の鼻緒が指の間に食い込むのだ。
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