血と束縛と

北川とも

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第24話

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 和彦がゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、薄ぼんやりとした明かりで照らされる、見慣れた客間の天井だった。
 いつ自分は、本宅に泊まることになったのか――。
 緩慢な思考を働かせてそんなことを考えていたが、すぐに、自分の身に起こったことを思い出し、目を見開く。布団の中で身じろいだ拍子に、浴衣に着替えさせられていることを知り、慌てて腰をまさぐる。針が突き刺さった感触が蘇ったが、不思議なことに、痛みは残っていなかった。
「――心配するな。針で一刺ししただけだ」
 すぐ側から声がかかり、顔をそちらに向ける。布団の傍らに胡坐をかいた賢吾が、じっと和彦を見下ろしていた。
 まだ少し、頭が混乱している。和彦は慎重に体を起こし、辺りを見回す。確かに、和彦がいつも使っている客間だった。それを確認してからもう一度、浴衣の上から腰に触れる。
「先生に、こっちは本気だと信じ込ませるためにやったんだ」
 賢吾の言葉に、和彦はただ困惑する。空しく唇を動かすと、自嘲気味に笑って賢吾は続ける。
「が、実はギリギリまで迷っていた。この機会に、いっそのこと俺の証でも入れちまおうか、ってな。もっとも、痛いのが何より嫌だという先生が、針で刺されて声も上げずに気を失ったのを見たら、その気は萎えた。大事で可愛いオンナを痛めつけるのは、どうやら俺の趣味じゃなかったようだ」
 ここで賢吾が片手を伸ばしてきたため、一瞬殴られるのかと思った和彦はビクリと体を震わせる。賢吾は、寝乱れた和彦の髪を撫でてきた。
「先生はこの世界にいて、きれいな体でいるから価値がある。一時の独占欲に駆られて、無体なことはできねーな」
 和彦は、優しい声で話す賢吾を、うかがうように見つめる。次の瞬間には様子が一変するのではないかと考えると、まだ怖いのだ。そんな和彦に対して賢吾は、辛抱強く髪を撫でてくる。
「先生はいい加減、自分が隠し事に向かない人間なんだと理解するべきだな。秦や鷹津のときもそうだっただろ。自分の保身のためだけじゃなく、相手の男の心配なんてものまでするから、身動きが取れなくなる。最初から、なんでも俺に打ち明けておけば、悩まなくていいし、罪悪感も抱えなくて済む」
「……住む世界が違いすぎる。秦や鷹津はともかく、里見さんは……表の世界の人間だ。そういう人間は、ヤクザと関わって失うものが大きすぎる」
「かつての先生のようにか?」
 ため息をついて和彦は頷く。いまさら、そのことで賢吾を――長嶺組の人間を責めるつもりはなかった。最初はともかく、すでに和彦はこの世界に馴染み、居心地のよさすら感じている。
「あの人には、これまで通りの生活を送ってほしい。久しぶりに会って、いろいろと込み上げてくる感情はあったけど、だからといって、昔のような関係になりたいわけじゃないんだ。でも……、隠れて電話をしていて、少し楽しかったかもしれない。実家の情報を引き出すということを、理由にしていた」
 髪を撫でていた賢吾の手が肩にかかり、引き寄せられる。ぎこちなく賢吾の胸にもたれかかった和彦は、そっと問いかけた。
「もっとぼくを泳がせて、里見さんと会っている現場を押さえようと思わなかったのか? そのほうが、ぼくからあれこれ聞き出すより、確実だったはずだ。ぼくが……ウソをつかないとは限らなかったはずだし」
 肩を掴む大きな手にぐっと力が込められる。
「自分のオンナが、よその男を想って心が揺れている様を、指を咥えてもっと見ていろと言うのか? それは拷問だぞ、先生。それに俺は、先生の昔の男となんとしても会いたいわけじゃない」
「……そう、なのか……?」
「今回のことは、ヤクザも組も関係ない。俺と先生の、信頼の問題だと思っている」
 こう感じるのは変なのかもしれないが、賢吾の言葉が嬉しかった。本音を言っているとも限らないのに、胸の奥深くにズンと突き刺さる。これが本音であってほしいと、和彦自身が願ったせいかもしれない。
「信頼、か……」
「ヤクザが何を言ってる、なんて笑うなよ」
「――……そんな命知らずなこと、するわけないだろ」
「いつもの調子が出てきたじゃねーか、先生」
 そうでもない、と和彦は口中で答える。こうして賢吾に身を預けていても、次の瞬間には大蛇の化身らしい本性を見せられるのではないかと、つい想像してしまうのだ。それほど、自分の体に馬乗りになり、刺青を入れると言った賢吾は怖かった。
 しかしその怖さは、賢吾が抱える和彦への執着の強さを表してもいる。
 賢吾の手が、肩から背、そして腰へと移動する。物騒な言葉が和彦の耳に届いた。
「次にこんなことがあったら、何日だろうが部屋に閉じ込めて、先生の体に艶やかな絵を彫ってやるからな」
 ハッとして顔を上げると、賢吾は薄い笑みを口元に刻んでいた。
「そして――相手の男は殺す」
 急に寒気を感じて和彦は身震いする。本当は賢吾から体を離したかったが、その途端、機嫌を損ねた大蛇の牙が首筋に突き立てられそうで、動けなかった。
 賢吾は決して、和彦の背信行為を許したわけではないのだ。
「先生にもう一台、携帯電話を用意してやる。それで、昔の男と連絡を取ればいい。上手く男を操って、佐伯家の動きを探るんだ。自分の身と生活を守るために。利用するためだと割り切れるなら、接触するのも許してやってもいい。組の人間を護衛につけて、だが」
「……あんたは本当に、怒っているんだな」
 和彦がぽつりと洩らすと、優しい手つきで頬を撫でられる。
「ああ、怒っている。先生が俺に隠し事をしていたことにな。だから、先生が隠そうとしていたものを利用してやる。痛みを与えることだけが、相手を罰する方法じゃない。こういうやり方だってあるんだ」
 賢吾の冷酷さが、心地いい。
 和彦はようやく自分から賢吾に身をすり寄せると、広い背に両腕を回し、服の上から大蛇を撫でる。賢吾も、しっかりと和彦を抱き締めてきた。
「まだ明け方だ。今日はクリニックを休みにするよう連絡を入れておくから、今日はゆっくり休め」
「でも、予約が入って――」
「先生の本業は、物騒な男たちの世話だろ。俺を宥めて、やれやれと思っているかもしれないが、もう少ししたら、事情を知った子犬がキャンキャン吠えて本宅に戻ってくるぞ」
 ここまで言われては仕方ない。スタッフや患者には申し訳ないが、今日の予約は、和彦が急病だと告げて日にちをズラしてもらうしかないだろう。
「いいな?」
 否とは言わせない賢吾の短い問いかけに、ゆっくりと目を閉じて和彦は頷いた。

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