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第22話
(1)
しおりを挟むかぶっていた帽子を取った和彦は、髪を掻き上げる。気候のよさのせいだけではなく、春が近づいてきている証拠か、思いがけず気温が高い。歩いているうちにすっかり汗ばんでしまった。
石畳の通りを歩く人たちに目を向ければ、地元住民と観光客の違いが服装に出ているようだ。観光客は持て余し気味にコートやジャケットを腕にかけているが、地元の人たちはすでに春らしい軽装だ。
春が近づいているどころか、ここはもう春が訪れているのだ。
和彦は改めて、ここが旅先なのだと実感する。柔らかな風も、空気の匂いも、見渡せる風景も、何もかもが今暮らしている地域とは違う。
これが一人旅なら、どれだけ肩の力を抜いて楽しめただろうか――。
和彦は深刻なため息をつくと、帽子をかぶり直して歩き出す。有名な寺が近くにあるという場所柄か、通りに並ぶ土産物屋も落ち着いた雰囲気を醸し出しており、店先に出ている商品も、渋いものが多い。
特に何か買うつもりはなかった和彦だが、藍染め商品を扱う店が目につき、ついふらふらと中に入る。サングラスを外してざっと店内を見て回る。
ブックカバーが気に入り、数種類の柄を選んでから、次に扇子に目移りする。いままで扇子など使ったことはないのだが、賢吾がせっかく春に合わせて着物を一揃いあつらえてくれたこともあり、何か一つぐらい、着物に合いそうな小物を自分で揃えてみようかと思ったのだ。
和彦が扇子の一本を手に取ろうとしたとき、隣にスッと誰かが立つ気配がした。
「――それは、自分で使うのかね?」
いきなり話しかけられ、飛び上がりそうなほど驚く。隣を見ると、守光が身を乗り出すようにして扇子を眺めていた。さきほどまで、和彦よりずいぶん先を歩いていたはずだが、わざわざ引き返してきたようだ。
店の入り口のほうに目をやると、スーツ姿の男たちがこちらをうかがいつつ、外で待っていた。
「あっ、すみません。勝手に動き回って……」
「かまわんよ。なんといってもわしは、あんたを〈観光旅行〉に連れてきたんだ。こういうところで買い物をしないと、旅行の醍醐味がないだろう」
守光から悪戯っぽく笑みを向けられ、和彦はぎこちなく応じる。
守光だけでなく、その守光に同行している総和会の男たちも、儀礼的ではあるにせよ和彦には丁寧に接し、何かと気遣ってくれる。まさに、大名旅行だ。
「とは言え、観光できる時間はあまり取れない。会合の間、あんただけでも自由に出歩かせてやりたいが、賢吾と千尋から預かっている以上、何かあったら申し訳ない」
「……ぼくみたいな人間が一人でふらふらしていたところで、何かあるとも思えませんが……」
「その理屈は、賢吾相手でも通じんだろう。だから、クリニックの送り迎えを組員にさせている」
和彦が苦い顔となると、守光は低く笑い声を洩らした。差し出された扇子を受け取って広げる。いくら買い物好きの和彦でも、この状況で守光を差し置いて店内をうろうろもできず、並んで扇子を選ぶことになる。
「まさか、あんたが今回の旅行についてきてくれるとは思わなかったよ」
守光の言葉に、和彦の罪悪感が疼く。自分でも、誰に対して抱いているのか判断できない感情だ。
守光から、旅行の出発日を知らせる連絡を受けたとき、和彦の気持ちは大きく揺れている最中だった。里見の職場近くで偶然、なぜか英俊と一緒に歩いているところを見かけたせいだ。かつての上司と部下である二人が、里見が転職後も親交があっても不思議ではない。里見自身、佐伯家といまだ繋がっていることを認めていた。
頭では、そんな事情を理解しているのだ。だが、二人が一緒にいる場面を見た和彦を支配したのは、嫉妬だ。事情も理屈も関係ない、率直な感情だ。
動揺していた和彦は、守光からの旅行の誘いに応じた。上手く断る理由が思いつかなかったというのは、単なる言い訳にしかならない。賢吾に相談して改めて返事を、と言うことはできたはずなのに、和彦はあえて一人で決めた。
旅行に同行する件は守光から賢吾に告げられたようだが、和彦はその賢吾から何も言われなかった。正確には、和彦が本宅に顔を出さなかった。顔を合わせるのを避けたのだ。
「――何か、悩み事でもあるのかね?」
かけられた言葉に、和彦はハッとして隣を見る。返事をしなくとも、肯定したようなものだ。守光は相変わらず団扇を選んでいる。
「連れてきておいて、いまさらこんなことを言うのもあれだが、今回の誘いを遠慮なく断ってもらってもよかったんだ。無理強いは、わしの本意じゃない」
そう思っていながら、総和会会長自ら、和彦に旅行の日程を知らせてきたのだとしたら、やはり心理的圧力を狙っていたのだろうか――。
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