血と束縛と

北川とも

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第21話

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 送って行くという中嶋からの申し出を断り、雑居ビルの前まで、組の車に迎えにきてもらう。
 後部座席に乗り込んだ和彦は、朝早くからすまないと組員に謝る。手間を考えれば、秦の部屋からクリニックへと直接向かえば楽なのだが、仕事上、身だしなみはきちんとしておきたい。それに気分的なものとして、情事の痕跡はしっかりと洗い流しておきたかった。
 和彦はシートにもたれかかると、ぼんやりと外の景色を眺める。
 慣れないベッドで眠ったせいか、体が疲労感を引きずっている。それでも悪い気分ではなかった。自分の淫奔ぶりに自己嫌悪に陥るぐらいはしてもいいのだろうが、相手が中嶋と秦ともなると、後ろ暗い感情を持つのは違う気がする。もう、そんな殊勝さを大事に抱え持つ時期は過ぎてしまった。
 綺麗事で肯定するつもりはなく、賢吾の許可の下、男と関係を持つのは、和彦にとって生活の一部なのだ。そうやって、限られた自分の世界と生活を守り、より居心地のいいものにしている。
 ここでふと、行為の最中に中嶋に語ったことを思い出す。
 里見と関係を持っている頃、和彦にとっての世界とは、佐伯家の自室がすべてだった。小さな世界からどうすれば解放されるか、そんなことばかりを考えていた気がする。
 この瞬間和彦は、魔が差したようにこう思っていた。
 里見の姿を見たい、と。
 思考は一気に目まぐるしく動き始め、ハンドルを握る組員にこう声をかけていた。
「マンションに戻る前に、ついでに寄って行きたいところがあるんだ」
「どこですか?」
「――パン屋」
 和彦が細かい住所を告げる。ついでに、というにはかなり遠回りとなる場所だが、異論を挟むことなく組員は進路変更した。
 鷹津から、里見に関して調べた内容はすべて、報告書という形でメールで送ってもらった。その報告書には出勤時間から退勤時間まで記載されており、普段の言動からは想像もつかないが、鷹津の性格の細かさが表れているようだった。何より、有能だ。人を使ったにせよ、短期間で和彦が知りたかった以上のことを調べ上げてきたのだ。
 おかげで和彦は、里見に知られることなく周囲をうろつくことが可能になる。
 まさか、職場近くのパン屋に和彦が現れるとは、里見も思ってはいないだろう。
「そのパン屋、有名なんですか?」
 突然組員から話しかけられ、和彦は目を丸くする。
「えっ……」
「いえ、先生はあまり食事にこだわりがないようなので、その先生がわざわざ立ち寄ってくれと言うのなら、よほどの店なのかと思いまして」
「確かに、美味しいものは好きだけど、苦労してまで食べようという気はないな。……クリニックを開業したら、患者との世間話で、どうしても話題が必要になるんだ。だから、薦められた店があれば、とりあえず一度は味見してみることにしたんだ」
 鷹津からの報告に、里見の勤務先周辺の美味しい店の情報など、もちろんなかった。ネットで地図検索をしたのは、和彦の好奇心――というより、未練がましい気持ちからだ。それが思わぬところで、言い訳として役に立った。
 ただ護衛の組員は、こんな他愛ない会話すら、賢吾に報告するのだろう。
 危険なことをしていると自覚はある和彦だが、湧き起こる衝動の抑止力にはならない。だったら行動を起こして、自分を納得させるしかない。
 車が、里見の勤務先が入っている大きなビルの前を通るとき、和彦は意識して他へと視線を向けていた。出勤ラッシュの時間帯にはまだ少し早いが、歩道を歩く人の姿は次第に増えてきている。歩く人の中に里見の姿はないか、つい探してしまう。たまたま車で通りかかり、出勤している里見の姿を見ることなど、ほぼ不可能に近いだろう。それは承知のうえだ。
 そして当然のように、里見の姿を見出すことはできなかった。
 失望はなかった。むしろ当然のことだと受け止めたし、心のどこかで和彦は安堵もしていた。
 朝早い時間から開いているというパン屋に着くと、和彦一人が店内に入る。手ぶらで車に戻るわけにもいかず、トレーとトングを手に、並んでいるパンを選ぶ。
 どうせなので、本宅の組員たちの分も買っておこうと思い、目につくパンを片っ端からトレーにのせていて、ふと顔を上げる。店は通りに面しているため、ガラスの向こうを歩く人の姿が見えるのだ。
「えっ……」
 和彦は小さく声を洩らし、硬直する。通りを歩く、自分そっくりの顔立ちをした男が視界に飛び込んできた。その男は銀縁の眼鏡をかけており、怜悧な雰囲気に拍車をかけている。
 見間違うはずもなく、それは和彦の兄――英俊だった。
 あまりに予想外の人物を見かけ、心臓が止まりそうな衝撃を受けた和彦だが、数瞬あとには激しく鼓動が打ち始める。動揺から、足が小刻みに震えていた。
 英俊に見つかるかもしれないという本能的な恐れから、棚の陰に身を隠す。
 なぜこんな場所に英俊がいるのかという疑問は、すぐに氷解した。
 英俊に続いて和彦の視界に入ってきたのは、里見だった。小走りで英俊に追いついて何事か話しかけ、英俊が歩調を緩める。二人は並んで歩いていった。たったそれだけともいえるが、和彦にとっては強烈な光景だった。
 里見と英俊はかつて、同じ省庁の課内で働く上司と部下だったが、里見は現在、民間企業に勤めている。なのに朝から二人が一緒にいる理由が、和彦には思いつかなかった。
 里見と佐伯家は現在もつき合いがある。それは事実として受け止められる。里見が、和彦たちの父親の命令に逆らえないという立場も、理解できる。なのに、里見と英俊が一緒にいる姿を見ただけで、和彦は混乱していた。ひどく怖くもあった。
 呆然としながらも、なんとか精算を済ませて外に出たとき、通りにはすでに里見と英俊の姿はなかった。
 和彦は突然、ここは自分がいていい場所ではないと痛切に感じ、逃げるように車に戻る。
 車の傍らに立って待っていた組員は、一目見て和彦の異変に気づいたらしく、わずかに眉をひそめた。会話を交わす間も惜しむように後部座席のドアが開けられ、和彦は素早く乗り込む。
 ドアを閉めた車内に、焼きたてのパンのいい香りがふんわりと漂う。その香りを深く吸い込んでも、和彦の胸に巣食った不快な感情は、少しも軽くならない。
 里見と英俊が外で会う間柄だと、和彦は知らなかった。かつての上司と部下だからこそ、職場が変わればそれまでのつき合いだと、勝手に思い込んでいた。そうであってほしいと、願っていたのかもしれない。
 ここで和彦は、不快な感情の正体を知る。――嫉妬だ。
 頭が混乱し、気持ちは激しく揺れている。そんな絶妙のタイミングで、和彦の携帯電話が鳴った。人と話したい心境ではなかったが、車内でいつまでも着信音を鳴らすわけにもいかない。
 携帯電話を手に取ると、見覚えのある番号が表示されており、和彦は見えない力に操られるように電話に出る。
 耳に届いたのは、太く艶のある声だった。

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