463 / 1,268
第21話
(25)
しおりを挟む送って行くという中嶋からの申し出を断り、雑居ビルの前まで、組の車に迎えにきてもらう。
後部座席に乗り込んだ和彦は、朝早くからすまないと組員に謝る。手間を考えれば、秦の部屋からクリニックへと直接向かえば楽なのだが、仕事上、身だしなみはきちんとしておきたい。それに気分的なものとして、情事の痕跡はしっかりと洗い流しておきたかった。
和彦はシートにもたれかかると、ぼんやりと外の景色を眺める。
慣れないベッドで眠ったせいか、体が疲労感を引きずっている。それでも悪い気分ではなかった。自分の淫奔ぶりに自己嫌悪に陥るぐらいはしてもいいのだろうが、相手が中嶋と秦ともなると、後ろ暗い感情を持つのは違う気がする。もう、そんな殊勝さを大事に抱え持つ時期は過ぎてしまった。
綺麗事で肯定するつもりはなく、賢吾の許可の下、男と関係を持つのは、和彦にとって生活の一部なのだ。そうやって、限られた自分の世界と生活を守り、より居心地のいいものにしている。
ここでふと、行為の最中に中嶋に語ったことを思い出す。
里見と関係を持っている頃、和彦にとっての世界とは、佐伯家の自室がすべてだった。小さな世界からどうすれば解放されるか、そんなことばかりを考えていた気がする。
この瞬間和彦は、魔が差したようにこう思っていた。
里見の姿を見たい、と。
思考は一気に目まぐるしく動き始め、ハンドルを握る組員にこう声をかけていた。
「マンションに戻る前に、ついでに寄って行きたいところがあるんだ」
「どこですか?」
「――パン屋」
和彦が細かい住所を告げる。ついでに、というにはかなり遠回りとなる場所だが、異論を挟むことなく組員は進路変更した。
鷹津から、里見に関して調べた内容はすべて、報告書という形でメールで送ってもらった。その報告書には出勤時間から退勤時間まで記載されており、普段の言動からは想像もつかないが、鷹津の性格の細かさが表れているようだった。何より、有能だ。人を使ったにせよ、短期間で和彦が知りたかった以上のことを調べ上げてきたのだ。
おかげで和彦は、里見に知られることなく周囲をうろつくことが可能になる。
まさか、職場近くのパン屋に和彦が現れるとは、里見も思ってはいないだろう。
「そのパン屋、有名なんですか?」
突然組員から話しかけられ、和彦は目を丸くする。
「えっ……」
「いえ、先生はあまり食事にこだわりがないようなので、その先生がわざわざ立ち寄ってくれと言うのなら、よほどの店なのかと思いまして」
「確かに、美味しいものは好きだけど、苦労してまで食べようという気はないな。……クリニックを開業したら、患者との世間話で、どうしても話題が必要になるんだ。だから、薦められた店があれば、とりあえず一度は味見してみることにしたんだ」
鷹津からの報告に、里見の勤務先周辺の美味しい店の情報など、もちろんなかった。ネットで地図検索をしたのは、和彦の好奇心――というより、未練がましい気持ちからだ。それが思わぬところで、言い訳として役に立った。
ただ護衛の組員は、こんな他愛ない会話すら、賢吾に報告するのだろう。
危険なことをしていると自覚はある和彦だが、湧き起こる衝動の抑止力にはならない。だったら行動を起こして、自分を納得させるしかない。
車が、里見の勤務先が入っている大きなビルの前を通るとき、和彦は意識して他へと視線を向けていた。出勤ラッシュの時間帯にはまだ少し早いが、歩道を歩く人の姿は次第に増えてきている。歩く人の中に里見の姿はないか、つい探してしまう。たまたま車で通りかかり、出勤している里見の姿を見ることなど、ほぼ不可能に近いだろう。それは承知のうえだ。
そして当然のように、里見の姿を見出すことはできなかった。
失望はなかった。むしろ当然のことだと受け止めたし、心のどこかで和彦は安堵もしていた。
朝早い時間から開いているというパン屋に着くと、和彦一人が店内に入る。手ぶらで車に戻るわけにもいかず、トレーとトングを手に、並んでいるパンを選ぶ。
どうせなので、本宅の組員たちの分も買っておこうと思い、目につくパンを片っ端からトレーにのせていて、ふと顔を上げる。店は通りに面しているため、ガラスの向こうを歩く人の姿が見えるのだ。
「えっ……」
和彦は小さく声を洩らし、硬直する。通りを歩く、自分そっくりの顔立ちをした男が視界に飛び込んできた。その男は銀縁の眼鏡をかけており、怜悧な雰囲気に拍車をかけている。
見間違うはずもなく、それは和彦の兄――英俊だった。
あまりに予想外の人物を見かけ、心臓が止まりそうな衝撃を受けた和彦だが、数瞬あとには激しく鼓動が打ち始める。動揺から、足が小刻みに震えていた。
英俊に見つかるかもしれないという本能的な恐れから、棚の陰に身を隠す。
なぜこんな場所に英俊がいるのかという疑問は、すぐに氷解した。
英俊に続いて和彦の視界に入ってきたのは、里見だった。小走りで英俊に追いついて何事か話しかけ、英俊が歩調を緩める。二人は並んで歩いていった。たったそれだけともいえるが、和彦にとっては強烈な光景だった。
里見と英俊はかつて、同じ省庁の課内で働く上司と部下だったが、里見は現在、民間企業に勤めている。なのに朝から二人が一緒にいる理由が、和彦には思いつかなかった。
里見と佐伯家は現在もつき合いがある。それは事実として受け止められる。里見が、和彦たちの父親の命令に逆らえないという立場も、理解できる。なのに、里見と英俊が一緒にいる姿を見ただけで、和彦は混乱していた。ひどく怖くもあった。
呆然としながらも、なんとか精算を済ませて外に出たとき、通りにはすでに里見と英俊の姿はなかった。
和彦は突然、ここは自分がいていい場所ではないと痛切に感じ、逃げるように車に戻る。
車の傍らに立って待っていた組員は、一目見て和彦の異変に気づいたらしく、わずかに眉をひそめた。会話を交わす間も惜しむように後部座席のドアが開けられ、和彦は素早く乗り込む。
ドアを閉めた車内に、焼きたてのパンのいい香りがふんわりと漂う。その香りを深く吸い込んでも、和彦の胸に巣食った不快な感情は、少しも軽くならない。
里見と英俊が外で会う間柄だと、和彦は知らなかった。かつての上司と部下だからこそ、職場が変わればそれまでのつき合いだと、勝手に思い込んでいた。そうであってほしいと、願っていたのかもしれない。
ここで和彦は、不快な感情の正体を知る。――嫉妬だ。
頭が混乱し、気持ちは激しく揺れている。そんな絶妙のタイミングで、和彦の携帯電話が鳴った。人と話したい心境ではなかったが、車内でいつまでも着信音を鳴らすわけにもいかない。
携帯電話を手に取ると、見覚えのある番号が表示されており、和彦は見えない力に操られるように電話に出る。
耳に届いたのは、太く艶のある声だった。
37
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…



塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる