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第21話
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いまさら、ともいうべきことを考え込んでいると、ふと顔を上げた賢吾がこちらを見る。一瞬何かを探るような鋭い目つきとなったが、すぐに表情を和らげた。
「先生、せっかく呉服屋に来てるんだ。着物を着てみるか?」
即座に和彦の頭に浮かんだのは、千尋の母親のものだったという長襦袢に袖を通したときのことだ。その姿で賢吾と及んだ行為が鮮明に蘇り、密かにうろたえる。
口ごもる和彦に対して、賢吾は容赦ない。
「その衝立の向こうで着付けてもらえ。しっかり見ておけよ。近いうちに、先生が自分で着ることになるからな」
ここまで言われて、拒むことは不可能だった。
着物の出来上がりは一か月後で、ちょうど春らしくなってくる頃だ。抜け目ない賢吾らしく、和彦の誕生日プレゼントに何を贈るか、早いうちから計画を立てていたのだろう。賢吾と、呉服屋の主人が交わしている会話を聞いていれば、それぐらい推測できる。
ふっと息を吐き出した和彦に、正面に腰掛けた賢吾が話しかけてきた。
「――疲れたか、先生」
和彦は目を丸くしてから、首を横に振る。向き合って座り、さりげなく言葉をかけられただけなのに、知らず知らずのうちに頬の辺りが熱くなってくる。これが二人きりであればまったく平気なのだが、そうではない。
カップに口をつけつつ和彦は、視線を周囲に向ける。店に入ったときはいくつか空いていたテーブルも、あっという間に埋まり、すでに満席だ。皆それぞれ自分たちの時間を過ごしているが、やはり会話の声はかなり抑え気味になる。
なんといっても和彦の正面に座っているのは、この場にいる誰よりも物騒な男なのだ。存在感だけでも、嫌になるほど悪目立ちしている。さきほどから人に見られているようで、賢吾の些細な言動に過剰に反応してしまう。
昼間のコーヒーショップで、ヤクザの組長とのんびりコーヒーを飲むというのも、なんだか妙な感じだ。こういうことは初めてではないが、頻繁でもない。
賢吾の立場では、目についた場所に気軽に立ち寄るだけで、危険に遭遇する可能性が高くなる。それを承知で、呉服屋の帰りにこうして寄り道をしてくれた理由は、一つしか思い当たらない。
「そう……、気をつかってもらわなくても、平気だ。たまたま疲れも重なって熱は出したが、体は丈夫なほうなんだ」
和彦がぼそぼそと応じると、賢吾は唇の端をわずかに動かす。
「体は丈夫でも、精神はガラス細工のように繊細だろう」
「……鳥肌が立つような表現はやめてくれ」
「最近は塞ぎ込むこともなくなったが、いろいろあって溜まったストレスが、こういう形で噴き出したんじゃないかと、俺なりに心配しているんだ」
賢吾の言葉が素直に胸に入り込み、くすぐったい。和彦は改めて、正面に座っている男をじっと見つめる。
明るい店内にあって賢吾は、独特の雰囲気を放つ極上な男にしか見えない。そんな男が、背に何を宿しているか、この場で知っているのは和彦しかいないのだ。
敵を探るために慎重に身を潜めながら、臆病さから程遠い獰猛さを持つ、冷たい生き物――大蛇を身の内にも棲まわせているくせに、賢吾は優しい。残酷さと隣り合わせの優しさだと、和彦は思っている。
困ったことに、賢吾から優しくされるのは、嫌いではない。
こちらを真っ直ぐ見据えてくる賢吾の眼差しに気づき、和彦は目を伏せる。
「――……着物、ありがとう。ああいう店に行ったのも、初めてなんだ」
「先生の照れた顔を、布団の上以外であれだけ拝めたことを思えば、安いもんだ」
場所が場所でなければ、賢吾の口を手で覆ってしまいたい。それができないのは、どうしても人目が気になるからだ。隣のテーブルの青年から向けられた視線が、なんとなく肌に突き刺さる。
「ぼくを気遣う気持ちがあるなら、同じぐらい、デリカシーも持ってほしいもんだな」
「下品な男は嫌いか?」
「嫌いだ」
「だったら俺は、先生から嫌われることはないな」
図々しい、と心の中で呟いて、和彦はコーヒーを飲み干す。待っていたようなタイミングで、賢吾が和彦のカップを取り上げて立ち上がった。
半ば逃げるようにコーヒーショップをあとにすると、駐車場で待機している車に乗り込む。
気分転換というにはもったいないような経験ができ、鬱屈した気分はかなり紛れた。発熱で寝込んだことは、別にいいのだ。ただ、寝込んでいる間に、自分がどれだけの問題を抱えているのか、和彦は夢の中でずっと直視していた気がする。そして、肩にのしかかる現実の重みに、熱を帯びたため息を洩らすのだ。
守光と電話で話している様子を、傍らにいた三田村にずっと見られていた。そのことも、漠然とした不安とともに和彦は引きずっていた。
「先生、せっかく呉服屋に来てるんだ。着物を着てみるか?」
即座に和彦の頭に浮かんだのは、千尋の母親のものだったという長襦袢に袖を通したときのことだ。その姿で賢吾と及んだ行為が鮮明に蘇り、密かにうろたえる。
口ごもる和彦に対して、賢吾は容赦ない。
「その衝立の向こうで着付けてもらえ。しっかり見ておけよ。近いうちに、先生が自分で着ることになるからな」
ここまで言われて、拒むことは不可能だった。
着物の出来上がりは一か月後で、ちょうど春らしくなってくる頃だ。抜け目ない賢吾らしく、和彦の誕生日プレゼントに何を贈るか、早いうちから計画を立てていたのだろう。賢吾と、呉服屋の主人が交わしている会話を聞いていれば、それぐらい推測できる。
ふっと息を吐き出した和彦に、正面に腰掛けた賢吾が話しかけてきた。
「――疲れたか、先生」
和彦は目を丸くしてから、首を横に振る。向き合って座り、さりげなく言葉をかけられただけなのに、知らず知らずのうちに頬の辺りが熱くなってくる。これが二人きりであればまったく平気なのだが、そうではない。
カップに口をつけつつ和彦は、視線を周囲に向ける。店に入ったときはいくつか空いていたテーブルも、あっという間に埋まり、すでに満席だ。皆それぞれ自分たちの時間を過ごしているが、やはり会話の声はかなり抑え気味になる。
なんといっても和彦の正面に座っているのは、この場にいる誰よりも物騒な男なのだ。存在感だけでも、嫌になるほど悪目立ちしている。さきほどから人に見られているようで、賢吾の些細な言動に過剰に反応してしまう。
昼間のコーヒーショップで、ヤクザの組長とのんびりコーヒーを飲むというのも、なんだか妙な感じだ。こういうことは初めてではないが、頻繁でもない。
賢吾の立場では、目についた場所に気軽に立ち寄るだけで、危険に遭遇する可能性が高くなる。それを承知で、呉服屋の帰りにこうして寄り道をしてくれた理由は、一つしか思い当たらない。
「そう……、気をつかってもらわなくても、平気だ。たまたま疲れも重なって熱は出したが、体は丈夫なほうなんだ」
和彦がぼそぼそと応じると、賢吾は唇の端をわずかに動かす。
「体は丈夫でも、精神はガラス細工のように繊細だろう」
「……鳥肌が立つような表現はやめてくれ」
「最近は塞ぎ込むこともなくなったが、いろいろあって溜まったストレスが、こういう形で噴き出したんじゃないかと、俺なりに心配しているんだ」
賢吾の言葉が素直に胸に入り込み、くすぐったい。和彦は改めて、正面に座っている男をじっと見つめる。
明るい店内にあって賢吾は、独特の雰囲気を放つ極上な男にしか見えない。そんな男が、背に何を宿しているか、この場で知っているのは和彦しかいないのだ。
敵を探るために慎重に身を潜めながら、臆病さから程遠い獰猛さを持つ、冷たい生き物――大蛇を身の内にも棲まわせているくせに、賢吾は優しい。残酷さと隣り合わせの優しさだと、和彦は思っている。
困ったことに、賢吾から優しくされるのは、嫌いではない。
こちらを真っ直ぐ見据えてくる賢吾の眼差しに気づき、和彦は目を伏せる。
「――……着物、ありがとう。ああいう店に行ったのも、初めてなんだ」
「先生の照れた顔を、布団の上以外であれだけ拝めたことを思えば、安いもんだ」
場所が場所でなければ、賢吾の口を手で覆ってしまいたい。それができないのは、どうしても人目が気になるからだ。隣のテーブルの青年から向けられた視線が、なんとなく肌に突き刺さる。
「ぼくを気遣う気持ちがあるなら、同じぐらい、デリカシーも持ってほしいもんだな」
「下品な男は嫌いか?」
「嫌いだ」
「だったら俺は、先生から嫌われることはないな」
図々しい、と心の中で呟いて、和彦はコーヒーを飲み干す。待っていたようなタイミングで、賢吾が和彦のカップを取り上げて立ち上がった。
半ば逃げるようにコーヒーショップをあとにすると、駐車場で待機している車に乗り込む。
気分転換というにはもったいないような経験ができ、鬱屈した気分はかなり紛れた。発熱で寝込んだことは、別にいいのだ。ただ、寝込んでいる間に、自分がどれだけの問題を抱えているのか、和彦は夢の中でずっと直視していた気がする。そして、肩にのしかかる現実の重みに、熱を帯びたため息を洩らすのだ。
守光と電話で話している様子を、傍らにいた三田村にずっと見られていた。そのことも、漠然とした不安とともに和彦は引きずっていた。
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