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第21話
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「――あそこだ、先生」
あそこ、と言われても和彦にはわからない。車がすれ違うのもやっとの通りの左右には、住宅や商店が並んでいるのだ。
車は狭い駐車場に入り、降りた和彦は辺りを見回す。古い建物が多いなと思っていると、賢吾に呼ばれてあとをついていく。どうやら護衛の組員は車に待機させておくようだ。
和彦が物言いたげな眼差しを向けると、賢吾は軽くあごをしゃくった。
「店は目の前だ。それに、これから優雅な気分を味わおうってのに、護衛をつけてたら不粋だろ」
「……優雅?」
「いい品を揃えてある店だからな。目が肥えるぞ」
そう言って賢吾が、駐車場前の店の扉を開ける。〈準備中〉の札が表になっているのもお構いなしだ。
電気がついている店の中を覗き込んだ和彦は目を見開くと同時に、かつて賢吾に言われた言葉を思い出した。
「春には、着物の着付けができるようになってもらうって言ってたが、もしかして――……」
「着付けをするためには、まずは肝心の着物がないとな」
賢吾に肩を押され、店に足を踏み入れる。さほど広くない店内には、数え切れないほどの反物が並んでいた。艶やかなものから、渋い色合いのものまで、さまざまだ。
「ここは、長嶺の人間がずっと贔屓にしている呉服屋だ。今日は昼まで、貸切にさせてもらった。人目を気にせず、じっくりと選びたかったからな」
促されるまま靴を脱ぎ、畳敷きのスペースに上がる。物珍しさはあるが、高価そうな反物に迂闊に近づけず離れて眺めていると、着物姿の初老の男性が奥から出てきて、親しげに賢吾と言葉を交わす。風情や会話の内容からして、この呉服屋の主人のようだ。
会釈した和彦を、その主人が頭の先から爪先までじっくりと見つめたかと思うと、反物を選び始める。
「すごい色男さんだとうかがって、こちらも気合いを入れて、反物を仕入れておきましたよ。賢吾さんがお好きそうな色目のものから、若い方向きのちょっと粋なデザインまで」
「おう。これからちょくちょく世話になると思うから、よさそうなものがあったら取っておいてくれ。こうして、その色男も連れてきたしな」
「上背もおありになるし、姿勢もよろしい方なので、着物が映えますよ。――まずは、この反物から見てみましょうか」
所在なく立ち尽くして、二人の会話を聞いていた和彦だが、賢吾に手を取られて姿見の前に立たされる。ジャケットを脱ぐよう言われてその通りにすると、主人が反物を広げ、和彦の肩にかけてきた。
賢吾は傍らに立ち、その様子を見守っている。和彦は助けを求める眼差しを送るが、澄ました顔でこう言われた。
「先生は、そうやって突っ立っていればいい。俺と主人が、いいのを選んでやる」
このとき自分がどんな表情を浮かべたのか、否応なく和彦は知ることになる。姿見に、苦笑する和彦自身が映っているのだ。ただ、どことなく嬉しそうにも見える。こういう初体験は、多少気恥ずかしくはあるが、歓迎すべきことなのだろう。
「……ぼくはよくわからないから、任せる」
「なんだったら、目を閉じていてもいいぞ」
賢吾らしい冗談にちらりと笑みをこぼしてから、和彦は着せ替え人形に徹することにした。
主人が反物を和彦の体に合わせながら、賢吾に話しかける。
「千尋さんもそろそろ、新しい着物はいかがですか。確か、前に仕立てられたときは、高校生のときだったでしょう」
姿見に映る和彦の姿を熱心に見つめていた賢吾が、微かに笑みを見せる。
「本当は、二十歳の誕生日に合わせて仕立てるつもりだったんだ。だけど肝心の千尋が、本宅に寄り付かなかったからな。まあ、これからは、必要があればいつでもここに連れて来られるだろう。なんといっても、この色男がいることだし。あいつは、先生の言うことなら素直に聞く」
鏡を通して意味ありげな眼差しを寄越され、和彦は賢吾を軽く睨みつける。余計なことを言うなと牽制したつもりだが、澄ました表情で返される。
反物に合わせて、裏地や長襦袢、帯から小物などを賢吾と主人が選ぶ間に、和彦は他の従業員に採寸をしてもらう。
既製品ではなく、上等な反物を使ってオーダーするとなると、料金はかなりのものだろう。しかも、一揃えだ。
賢吾は、和彦に――〈オンナ〉に金を注ぎ込むことを楽しんでいる。決して、金で和彦を縛りつけようとはしていないのだ。ただ、事情を知らない他人からは、ヤクザの組長が、男の愛人に贅沢をさせていると捉えられるだろう。
和彦なりに、金で買われているわけではないとささやかな矜持は保っているつもりだが、大きな声で主張するのははばかられる。現状を見れば、和彦の主張は分が悪すぎる。
あそこ、と言われても和彦にはわからない。車がすれ違うのもやっとの通りの左右には、住宅や商店が並んでいるのだ。
車は狭い駐車場に入り、降りた和彦は辺りを見回す。古い建物が多いなと思っていると、賢吾に呼ばれてあとをついていく。どうやら護衛の組員は車に待機させておくようだ。
和彦が物言いたげな眼差しを向けると、賢吾は軽くあごをしゃくった。
「店は目の前だ。それに、これから優雅な気分を味わおうってのに、護衛をつけてたら不粋だろ」
「……優雅?」
「いい品を揃えてある店だからな。目が肥えるぞ」
そう言って賢吾が、駐車場前の店の扉を開ける。〈準備中〉の札が表になっているのもお構いなしだ。
電気がついている店の中を覗き込んだ和彦は目を見開くと同時に、かつて賢吾に言われた言葉を思い出した。
「春には、着物の着付けができるようになってもらうって言ってたが、もしかして――……」
「着付けをするためには、まずは肝心の着物がないとな」
賢吾に肩を押され、店に足を踏み入れる。さほど広くない店内には、数え切れないほどの反物が並んでいた。艶やかなものから、渋い色合いのものまで、さまざまだ。
「ここは、長嶺の人間がずっと贔屓にしている呉服屋だ。今日は昼まで、貸切にさせてもらった。人目を気にせず、じっくりと選びたかったからな」
促されるまま靴を脱ぎ、畳敷きのスペースに上がる。物珍しさはあるが、高価そうな反物に迂闊に近づけず離れて眺めていると、着物姿の初老の男性が奥から出てきて、親しげに賢吾と言葉を交わす。風情や会話の内容からして、この呉服屋の主人のようだ。
会釈した和彦を、その主人が頭の先から爪先までじっくりと見つめたかと思うと、反物を選び始める。
「すごい色男さんだとうかがって、こちらも気合いを入れて、反物を仕入れておきましたよ。賢吾さんがお好きそうな色目のものから、若い方向きのちょっと粋なデザインまで」
「おう。これからちょくちょく世話になると思うから、よさそうなものがあったら取っておいてくれ。こうして、その色男も連れてきたしな」
「上背もおありになるし、姿勢もよろしい方なので、着物が映えますよ。――まずは、この反物から見てみましょうか」
所在なく立ち尽くして、二人の会話を聞いていた和彦だが、賢吾に手を取られて姿見の前に立たされる。ジャケットを脱ぐよう言われてその通りにすると、主人が反物を広げ、和彦の肩にかけてきた。
賢吾は傍らに立ち、その様子を見守っている。和彦は助けを求める眼差しを送るが、澄ました顔でこう言われた。
「先生は、そうやって突っ立っていればいい。俺と主人が、いいのを選んでやる」
このとき自分がどんな表情を浮かべたのか、否応なく和彦は知ることになる。姿見に、苦笑する和彦自身が映っているのだ。ただ、どことなく嬉しそうにも見える。こういう初体験は、多少気恥ずかしくはあるが、歓迎すべきことなのだろう。
「……ぼくはよくわからないから、任せる」
「なんだったら、目を閉じていてもいいぞ」
賢吾らしい冗談にちらりと笑みをこぼしてから、和彦は着せ替え人形に徹することにした。
主人が反物を和彦の体に合わせながら、賢吾に話しかける。
「千尋さんもそろそろ、新しい着物はいかがですか。確か、前に仕立てられたときは、高校生のときだったでしょう」
姿見に映る和彦の姿を熱心に見つめていた賢吾が、微かに笑みを見せる。
「本当は、二十歳の誕生日に合わせて仕立てるつもりだったんだ。だけど肝心の千尋が、本宅に寄り付かなかったからな。まあ、これからは、必要があればいつでもここに連れて来られるだろう。なんといっても、この色男がいることだし。あいつは、先生の言うことなら素直に聞く」
鏡を通して意味ありげな眼差しを寄越され、和彦は賢吾を軽く睨みつける。余計なことを言うなと牽制したつもりだが、澄ました表情で返される。
反物に合わせて、裏地や長襦袢、帯から小物などを賢吾と主人が選ぶ間に、和彦は他の従業員に採寸をしてもらう。
既製品ではなく、上等な反物を使ってオーダーするとなると、料金はかなりのものだろう。しかも、一揃えだ。
賢吾は、和彦に――〈オンナ〉に金を注ぎ込むことを楽しんでいる。決して、金で和彦を縛りつけようとはしていないのだ。ただ、事情を知らない他人からは、ヤクザの組長が、男の愛人に贅沢をさせていると捉えられるだろう。
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