440 / 1,268
第21話
(2)
しおりを挟む
「――あそこだ、先生」
あそこ、と言われても和彦にはわからない。車がすれ違うのもやっとの通りの左右には、住宅や商店が並んでいるのだ。
車は狭い駐車場に入り、降りた和彦は辺りを見回す。古い建物が多いなと思っていると、賢吾に呼ばれてあとをついていく。どうやら護衛の組員は車に待機させておくようだ。
和彦が物言いたげな眼差しを向けると、賢吾は軽くあごをしゃくった。
「店は目の前だ。それに、これから優雅な気分を味わおうってのに、護衛をつけてたら不粋だろ」
「……優雅?」
「いい品を揃えてある店だからな。目が肥えるぞ」
そう言って賢吾が、駐車場前の店の扉を開ける。〈準備中〉の札が表になっているのもお構いなしだ。
電気がついている店の中を覗き込んだ和彦は目を見開くと同時に、かつて賢吾に言われた言葉を思い出した。
「春には、着物の着付けができるようになってもらうって言ってたが、もしかして――……」
「着付けをするためには、まずは肝心の着物がないとな」
賢吾に肩を押され、店に足を踏み入れる。さほど広くない店内には、数え切れないほどの反物が並んでいた。艶やかなものから、渋い色合いのものまで、さまざまだ。
「ここは、長嶺の人間がずっと贔屓にしている呉服屋だ。今日は昼まで、貸切にさせてもらった。人目を気にせず、じっくりと選びたかったからな」
促されるまま靴を脱ぎ、畳敷きのスペースに上がる。物珍しさはあるが、高価そうな反物に迂闊に近づけず離れて眺めていると、着物姿の初老の男性が奥から出てきて、親しげに賢吾と言葉を交わす。風情や会話の内容からして、この呉服屋の主人のようだ。
会釈した和彦を、その主人が頭の先から爪先までじっくりと見つめたかと思うと、反物を選び始める。
「すごい色男さんだとうかがって、こちらも気合いを入れて、反物を仕入れておきましたよ。賢吾さんがお好きそうな色目のものから、若い方向きのちょっと粋なデザインまで」
「おう。これからちょくちょく世話になると思うから、よさそうなものがあったら取っておいてくれ。こうして、その色男も連れてきたしな」
「上背もおありになるし、姿勢もよろしい方なので、着物が映えますよ。――まずは、この反物から見てみましょうか」
所在なく立ち尽くして、二人の会話を聞いていた和彦だが、賢吾に手を取られて姿見の前に立たされる。ジャケットを脱ぐよう言われてその通りにすると、主人が反物を広げ、和彦の肩にかけてきた。
賢吾は傍らに立ち、その様子を見守っている。和彦は助けを求める眼差しを送るが、澄ました顔でこう言われた。
「先生は、そうやって突っ立っていればいい。俺と主人が、いいのを選んでやる」
このとき自分がどんな表情を浮かべたのか、否応なく和彦は知ることになる。姿見に、苦笑する和彦自身が映っているのだ。ただ、どことなく嬉しそうにも見える。こういう初体験は、多少気恥ずかしくはあるが、歓迎すべきことなのだろう。
「……ぼくはよくわからないから、任せる」
「なんだったら、目を閉じていてもいいぞ」
賢吾らしい冗談にちらりと笑みをこぼしてから、和彦は着せ替え人形に徹することにした。
主人が反物を和彦の体に合わせながら、賢吾に話しかける。
「千尋さんもそろそろ、新しい着物はいかがですか。確か、前に仕立てられたときは、高校生のときだったでしょう」
姿見に映る和彦の姿を熱心に見つめていた賢吾が、微かに笑みを見せる。
「本当は、二十歳の誕生日に合わせて仕立てるつもりだったんだ。だけど肝心の千尋が、本宅に寄り付かなかったからな。まあ、これからは、必要があればいつでもここに連れて来られるだろう。なんといっても、この色男がいることだし。あいつは、先生の言うことなら素直に聞く」
鏡を通して意味ありげな眼差しを寄越され、和彦は賢吾を軽く睨みつける。余計なことを言うなと牽制したつもりだが、澄ました表情で返される。
反物に合わせて、裏地や長襦袢、帯から小物などを賢吾と主人が選ぶ間に、和彦は他の従業員に採寸をしてもらう。
既製品ではなく、上等な反物を使ってオーダーするとなると、料金はかなりのものだろう。しかも、一揃えだ。
賢吾は、和彦に――〈オンナ〉に金を注ぎ込むことを楽しんでいる。決して、金で和彦を縛りつけようとはしていないのだ。ただ、事情を知らない他人からは、ヤクザの組長が、男の愛人に贅沢をさせていると捉えられるだろう。
和彦なりに、金で買われているわけではないとささやかな矜持は保っているつもりだが、大きな声で主張するのははばかられる。現状を見れば、和彦の主張は分が悪すぎる。
あそこ、と言われても和彦にはわからない。車がすれ違うのもやっとの通りの左右には、住宅や商店が並んでいるのだ。
車は狭い駐車場に入り、降りた和彦は辺りを見回す。古い建物が多いなと思っていると、賢吾に呼ばれてあとをついていく。どうやら護衛の組員は車に待機させておくようだ。
和彦が物言いたげな眼差しを向けると、賢吾は軽くあごをしゃくった。
「店は目の前だ。それに、これから優雅な気分を味わおうってのに、護衛をつけてたら不粋だろ」
「……優雅?」
「いい品を揃えてある店だからな。目が肥えるぞ」
そう言って賢吾が、駐車場前の店の扉を開ける。〈準備中〉の札が表になっているのもお構いなしだ。
電気がついている店の中を覗き込んだ和彦は目を見開くと同時に、かつて賢吾に言われた言葉を思い出した。
「春には、着物の着付けができるようになってもらうって言ってたが、もしかして――……」
「着付けをするためには、まずは肝心の着物がないとな」
賢吾に肩を押され、店に足を踏み入れる。さほど広くない店内には、数え切れないほどの反物が並んでいた。艶やかなものから、渋い色合いのものまで、さまざまだ。
「ここは、長嶺の人間がずっと贔屓にしている呉服屋だ。今日は昼まで、貸切にさせてもらった。人目を気にせず、じっくりと選びたかったからな」
促されるまま靴を脱ぎ、畳敷きのスペースに上がる。物珍しさはあるが、高価そうな反物に迂闊に近づけず離れて眺めていると、着物姿の初老の男性が奥から出てきて、親しげに賢吾と言葉を交わす。風情や会話の内容からして、この呉服屋の主人のようだ。
会釈した和彦を、その主人が頭の先から爪先までじっくりと見つめたかと思うと、反物を選び始める。
「すごい色男さんだとうかがって、こちらも気合いを入れて、反物を仕入れておきましたよ。賢吾さんがお好きそうな色目のものから、若い方向きのちょっと粋なデザインまで」
「おう。これからちょくちょく世話になると思うから、よさそうなものがあったら取っておいてくれ。こうして、その色男も連れてきたしな」
「上背もおありになるし、姿勢もよろしい方なので、着物が映えますよ。――まずは、この反物から見てみましょうか」
所在なく立ち尽くして、二人の会話を聞いていた和彦だが、賢吾に手を取られて姿見の前に立たされる。ジャケットを脱ぐよう言われてその通りにすると、主人が反物を広げ、和彦の肩にかけてきた。
賢吾は傍らに立ち、その様子を見守っている。和彦は助けを求める眼差しを送るが、澄ました顔でこう言われた。
「先生は、そうやって突っ立っていればいい。俺と主人が、いいのを選んでやる」
このとき自分がどんな表情を浮かべたのか、否応なく和彦は知ることになる。姿見に、苦笑する和彦自身が映っているのだ。ただ、どことなく嬉しそうにも見える。こういう初体験は、多少気恥ずかしくはあるが、歓迎すべきことなのだろう。
「……ぼくはよくわからないから、任せる」
「なんだったら、目を閉じていてもいいぞ」
賢吾らしい冗談にちらりと笑みをこぼしてから、和彦は着せ替え人形に徹することにした。
主人が反物を和彦の体に合わせながら、賢吾に話しかける。
「千尋さんもそろそろ、新しい着物はいかがですか。確か、前に仕立てられたときは、高校生のときだったでしょう」
姿見に映る和彦の姿を熱心に見つめていた賢吾が、微かに笑みを見せる。
「本当は、二十歳の誕生日に合わせて仕立てるつもりだったんだ。だけど肝心の千尋が、本宅に寄り付かなかったからな。まあ、これからは、必要があればいつでもここに連れて来られるだろう。なんといっても、この色男がいることだし。あいつは、先生の言うことなら素直に聞く」
鏡を通して意味ありげな眼差しを寄越され、和彦は賢吾を軽く睨みつける。余計なことを言うなと牽制したつもりだが、澄ました表情で返される。
反物に合わせて、裏地や長襦袢、帯から小物などを賢吾と主人が選ぶ間に、和彦は他の従業員に採寸をしてもらう。
既製品ではなく、上等な反物を使ってオーダーするとなると、料金はかなりのものだろう。しかも、一揃えだ。
賢吾は、和彦に――〈オンナ〉に金を注ぎ込むことを楽しんでいる。決して、金で和彦を縛りつけようとはしていないのだ。ただ、事情を知らない他人からは、ヤクザの組長が、男の愛人に贅沢をさせていると捉えられるだろう。
和彦なりに、金で買われているわけではないとささやかな矜持は保っているつもりだが、大きな声で主張するのははばかられる。現状を見れば、和彦の主張は分が悪すぎる。
42
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる