血と束縛と

北川とも

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第20話

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「ダイニングに、チョコレートと一緒に、あんたへの酒を置いてある。……まだ誕生日プレゼントはもらってないけど、何か贈ってくれるらしいから、先にお返しをしておく」
「はっきりと、バレンタインだからだ、と言ったらどうだ」
「……好きに解釈してくれ」
 ため息交じりに洩らした和彦は布団を引き上げ、口元を隠す。立ち上がった賢吾が客間を出ていくとき、こう言い残した。
「用があれば、いつでも内線を鳴らせ。とにかく先生は、熱が下がるまでおとなしく寝てろ」
 振り返った賢吾の表情は、怖いほど真剣だった。自分でも不思議なほど、そのことが和彦には嬉しかった。本気で心配してくれているとわかったからだ。


 夜が更けるにつれ、本宅は息を潜めるように静かになっていく。ただし、完全に人の気配が絶えることはない。
 夜勤として常に誰かが詰め所にいて、外部からの連絡を受けているし、深夜になって帰宅してくる者もいる。そのため寝ている人間を起こす必要がなく、何かあれば詰め所にいる人間を気兼ねなく呼びつけてくれと、お粥を運んできた組員に言われた。
 そのお粥を苦労して少し食べたあとから、和彦の意識は曖昧だ。うつらうつらとしていると、組員に話しかけられ、生返事を繰り返しているうちに着替えさせられ、薬を飲まされた。ときおり汗も拭ってもらった記憶もある。
 わざわざ内線で人を呼ぶまでもなく、まさに痒いところに手が届くような甲斐甲斐しさだ。
 先生にはいつも組員の面倒をみてもらっているから、と言われたような気がするが、もしかすると夢かもしれない。
 熱を出して体はつらいが、人から世話を焼かれる状況は和彦にとっては新鮮で、同時に、心地よかった。
 ヤクザの組長の本宅で、人恋しさを癒されるというのも妙な話だが、とにかく和彦は救われていた。
 実家を出て一人暮らしを始めてから、病気で寝込んだときの自分はどうしていただろうかと、朦朧とした意識で思い出しているうちに、何度目かの浅い眠りに陥る。
 ふと、傍らに人の気配を感じた。組員が様子をうかがいに来てくれたのだと思い、目を開くことすらしないでいると、和彦の頭は慎重に持ち上げられ、氷枕が取り替えられる。ひんやりとした感触に、思わずほっと吐息を洩らす。
「――……ありがとう」
 掠れた声で礼を言うと、今度は額や首の汗をタオルで拭われた。誰だろうと、ようやく目を開けると、体を屈めるようにして千尋が傍らに座り込んでいた。
 明るさを絞った枕元のライトが千尋の顔に濃い陰影をつくり、見知らぬ男に見える。しかし、必死に和彦を見つめてくる眼差しを間違えるはずもない。和彦は唇だけで笑いかけた。
「夜更かししていると、朝つらいぞ」
「……先生、夕方よりつらそう……」
「見た目ほど、気分は悪くない。ただ、熱が高いだけだ」
 途方に暮れた犬っころのような風情で、少しの間布団の傍らでじっとしていた千尋だが、思い出したように尋ねてきた。
「喉、渇いてない?」
「渇いた……。水は、いくら飲んでも足りないぐらいだ。全部汗で出てしまう」
 上体をわずかに起こして和彦は、千尋がグラスに注いでくれた水を一気に飲み干す。すぐにまた横になると、我慢できなくなったのか千尋が身を寄せてきた。
「風邪がうつるし、汗臭いし、ぼくに近づいてもいいことはないぞ」
「うつしていいよ。それに俺、先生の汗の匂いはよく知ってるし」
 この状況で甘い言葉を囁くあたりが、父親とそっくりだなと、和彦は苦笑を浮かべる。
「早く、寝ろ。さすがに今は、お前の頭を撫でてやる元気もないんだ……」
 渋々といった様子で千尋は立ち上がろうとしたが、次の瞬間、いきなり和彦に覆い被さってきたかと思うと、唇を重ねてきた。
 上唇と下唇を交互に吸われ、抵抗する気力も体力もない和彦はされるがままになる。静かに唇を離した千尋が頬ずりしてきた。
「いいよ。今はこれで我慢しておく」
「……あとでどうなっても知らないからな」
 千尋が傍らから動こうとしないため、部屋から追い出すことは諦めて和彦は目を閉じる。
「ぼくが寝ている間に、変なことするなよ……」
 最後にそう声をかけると、返ってきたのは微かな笑い声だった。

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