437 / 1,268
第20話
(26)
しおりを挟む
「ダイニングに、チョコレートと一緒に、あんたへの酒を置いてある。……まだ誕生日プレゼントはもらってないけど、何か贈ってくれるらしいから、先にお返しをしておく」
「はっきりと、バレンタインだからだ、と言ったらどうだ」
「……好きに解釈してくれ」
ため息交じりに洩らした和彦は布団を引き上げ、口元を隠す。立ち上がった賢吾が客間を出ていくとき、こう言い残した。
「用があれば、いつでも内線を鳴らせ。とにかく先生は、熱が下がるまでおとなしく寝てろ」
振り返った賢吾の表情は、怖いほど真剣だった。自分でも不思議なほど、そのことが和彦には嬉しかった。本気で心配してくれているとわかったからだ。
夜が更けるにつれ、本宅は息を潜めるように静かになっていく。ただし、完全に人の気配が絶えることはない。
夜勤として常に誰かが詰め所にいて、外部からの連絡を受けているし、深夜になって帰宅してくる者もいる。そのため寝ている人間を起こす必要がなく、何かあれば詰め所にいる人間を気兼ねなく呼びつけてくれと、お粥を運んできた組員に言われた。
そのお粥を苦労して少し食べたあとから、和彦の意識は曖昧だ。うつらうつらとしていると、組員に話しかけられ、生返事を繰り返しているうちに着替えさせられ、薬を飲まされた。ときおり汗も拭ってもらった記憶もある。
わざわざ内線で人を呼ぶまでもなく、まさに痒いところに手が届くような甲斐甲斐しさだ。
先生にはいつも組員の面倒をみてもらっているから、と言われたような気がするが、もしかすると夢かもしれない。
熱を出して体はつらいが、人から世話を焼かれる状況は和彦にとっては新鮮で、同時に、心地よかった。
ヤクザの組長の本宅で、人恋しさを癒されるというのも妙な話だが、とにかく和彦は救われていた。
実家を出て一人暮らしを始めてから、病気で寝込んだときの自分はどうしていただろうかと、朦朧とした意識で思い出しているうちに、何度目かの浅い眠りに陥る。
ふと、傍らに人の気配を感じた。組員が様子をうかがいに来てくれたのだと思い、目を開くことすらしないでいると、和彦の頭は慎重に持ち上げられ、氷枕が取り替えられる。ひんやりとした感触に、思わずほっと吐息を洩らす。
「――……ありがとう」
掠れた声で礼を言うと、今度は額や首の汗をタオルで拭われた。誰だろうと、ようやく目を開けると、体を屈めるようにして千尋が傍らに座り込んでいた。
明るさを絞った枕元のライトが千尋の顔に濃い陰影をつくり、見知らぬ男に見える。しかし、必死に和彦を見つめてくる眼差しを間違えるはずもない。和彦は唇だけで笑いかけた。
「夜更かししていると、朝つらいぞ」
「……先生、夕方よりつらそう……」
「見た目ほど、気分は悪くない。ただ、熱が高いだけだ」
途方に暮れた犬っころのような風情で、少しの間布団の傍らでじっとしていた千尋だが、思い出したように尋ねてきた。
「喉、渇いてない?」
「渇いた……。水は、いくら飲んでも足りないぐらいだ。全部汗で出てしまう」
上体をわずかに起こして和彦は、千尋がグラスに注いでくれた水を一気に飲み干す。すぐにまた横になると、我慢できなくなったのか千尋が身を寄せてきた。
「風邪がうつるし、汗臭いし、ぼくに近づいてもいいことはないぞ」
「うつしていいよ。それに俺、先生の汗の匂いはよく知ってるし」
この状況で甘い言葉を囁くあたりが、父親とそっくりだなと、和彦は苦笑を浮かべる。
「早く、寝ろ。さすがに今は、お前の頭を撫でてやる元気もないんだ……」
渋々といった様子で千尋は立ち上がろうとしたが、次の瞬間、いきなり和彦に覆い被さってきたかと思うと、唇を重ねてきた。
上唇と下唇を交互に吸われ、抵抗する気力も体力もない和彦はされるがままになる。静かに唇を離した千尋が頬ずりしてきた。
「いいよ。今はこれで我慢しておく」
「……あとでどうなっても知らないからな」
千尋が傍らから動こうとしないため、部屋から追い出すことは諦めて和彦は目を閉じる。
「ぼくが寝ている間に、変なことするなよ……」
最後にそう声をかけると、返ってきたのは微かな笑い声だった。
「はっきりと、バレンタインだからだ、と言ったらどうだ」
「……好きに解釈してくれ」
ため息交じりに洩らした和彦は布団を引き上げ、口元を隠す。立ち上がった賢吾が客間を出ていくとき、こう言い残した。
「用があれば、いつでも内線を鳴らせ。とにかく先生は、熱が下がるまでおとなしく寝てろ」
振り返った賢吾の表情は、怖いほど真剣だった。自分でも不思議なほど、そのことが和彦には嬉しかった。本気で心配してくれているとわかったからだ。
夜が更けるにつれ、本宅は息を潜めるように静かになっていく。ただし、完全に人の気配が絶えることはない。
夜勤として常に誰かが詰め所にいて、外部からの連絡を受けているし、深夜になって帰宅してくる者もいる。そのため寝ている人間を起こす必要がなく、何かあれば詰め所にいる人間を気兼ねなく呼びつけてくれと、お粥を運んできた組員に言われた。
そのお粥を苦労して少し食べたあとから、和彦の意識は曖昧だ。うつらうつらとしていると、組員に話しかけられ、生返事を繰り返しているうちに着替えさせられ、薬を飲まされた。ときおり汗も拭ってもらった記憶もある。
わざわざ内線で人を呼ぶまでもなく、まさに痒いところに手が届くような甲斐甲斐しさだ。
先生にはいつも組員の面倒をみてもらっているから、と言われたような気がするが、もしかすると夢かもしれない。
熱を出して体はつらいが、人から世話を焼かれる状況は和彦にとっては新鮮で、同時に、心地よかった。
ヤクザの組長の本宅で、人恋しさを癒されるというのも妙な話だが、とにかく和彦は救われていた。
実家を出て一人暮らしを始めてから、病気で寝込んだときの自分はどうしていただろうかと、朦朧とした意識で思い出しているうちに、何度目かの浅い眠りに陥る。
ふと、傍らに人の気配を感じた。組員が様子をうかがいに来てくれたのだと思い、目を開くことすらしないでいると、和彦の頭は慎重に持ち上げられ、氷枕が取り替えられる。ひんやりとした感触に、思わずほっと吐息を洩らす。
「――……ありがとう」
掠れた声で礼を言うと、今度は額や首の汗をタオルで拭われた。誰だろうと、ようやく目を開けると、体を屈めるようにして千尋が傍らに座り込んでいた。
明るさを絞った枕元のライトが千尋の顔に濃い陰影をつくり、見知らぬ男に見える。しかし、必死に和彦を見つめてくる眼差しを間違えるはずもない。和彦は唇だけで笑いかけた。
「夜更かししていると、朝つらいぞ」
「……先生、夕方よりつらそう……」
「見た目ほど、気分は悪くない。ただ、熱が高いだけだ」
途方に暮れた犬っころのような風情で、少しの間布団の傍らでじっとしていた千尋だが、思い出したように尋ねてきた。
「喉、渇いてない?」
「渇いた……。水は、いくら飲んでも足りないぐらいだ。全部汗で出てしまう」
上体をわずかに起こして和彦は、千尋がグラスに注いでくれた水を一気に飲み干す。すぐにまた横になると、我慢できなくなったのか千尋が身を寄せてきた。
「風邪がうつるし、汗臭いし、ぼくに近づいてもいいことはないぞ」
「うつしていいよ。それに俺、先生の汗の匂いはよく知ってるし」
この状況で甘い言葉を囁くあたりが、父親とそっくりだなと、和彦は苦笑を浮かべる。
「早く、寝ろ。さすがに今は、お前の頭を撫でてやる元気もないんだ……」
渋々といった様子で千尋は立ち上がろうとしたが、次の瞬間、いきなり和彦に覆い被さってきたかと思うと、唇を重ねてきた。
上唇と下唇を交互に吸われ、抵抗する気力も体力もない和彦はされるがままになる。静かに唇を離した千尋が頬ずりしてきた。
「いいよ。今はこれで我慢しておく」
「……あとでどうなっても知らないからな」
千尋が傍らから動こうとしないため、部屋から追い出すことは諦めて和彦は目を閉じる。
「ぼくが寝ている間に、変なことするなよ……」
最後にそう声をかけると、返ってきたのは微かな笑い声だった。
39
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…



塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる