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第20話
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無理やり笑みをつくって歩き出そうとしたが、千尋に腕を掴まれ引き止められる。人目があるというのに間近に顔を寄せられ、和彦のほうが動揺してしまう。
「千尋、本当に何もないんだ」
「……先生、まだ顔が赤いよ。それに、目の焦点がおかしい」
そこまで言われてやっと和彦は、自分の体調の悪さが疲労ではなく、病気からくるものだと知った。足元が覚束ないのは、熱が高いせいだ。
自分の額に手をやったが、体温はよくわからない。額だけでなく、てのひらまで熱くなっていた。急に体に力が入らなくなり、その場に座り込みそうになったが、寸前のところで千尋に支えられる。
「先生、本宅に帰ろう」
顔を上げるのもつらくて、和彦はうつむいたまま頷いた。
喉が痛くて小さく咳き込むと、それだけで頭を揺さぶられるような眩暈に襲われる。一度意識してしまうと、体がどんどん熱に侵食されていくようで、横になっていてもだるい。
和彦は客間の天井を見上げ、ゆっくりと瞬きを繰り返す。体はつらいが、精神的には奇妙なほど安らいでいた。
耳を澄ますと、廊下を歩く足音が聞こえてくる。それに、話し声も。人の気配を感じるおかげで、心細さとは無縁でいられる。それが安らぎに繋がるのだ。
長嶺の本宅に連れて来られた和彦は、そのまま客間に通された。事前に千尋が連絡を入れておいたため、部屋は暖められ、布団も敷かれていた。浴衣に着替えて和彦が横になる頃には、加湿器まで運び込まれたぐらいだ。
和彦にはもう、自分の症状が何からくるものかわかっている。疲労が溜まってきたところに風邪を引き、自分でも驚くような高熱が出たのだ。風邪を予期させる症状にいくつか心当たりがあるが、寝込んでしまった今となっては、遅いとしかいいようがない。
千尋には悪いことをしたと思う。時間を作ってもらったのに、結局何も楽しめないまま、本宅に戻ってきたのだ。和彦に付き添っていると言っていたが、自分に代わって組員が諭してくれ、なんとか客間を出ていってもらった。
苦労して寝返りをうった和彦は、タオルに包まれた氷枕に頬を押し当てる。全身が燃えそうに熱いくせに、ゾクゾクと寒気がする。
苦しさに小さく喘いでいると、障子が開く音がした。振り返る体力もなく、ぐったりしていたが、相手のほうから正面に回り込んできた。
「――熱を出して弱った先生も色っぽいな」
いかにも賢吾らしい発言に、和彦は眉をひそめる。
「それが、病人にかける言葉か」
「掠れた声も実にいい」
畳の上にあぐらをかいて座った賢吾が顔を覗き込んできた。汗で湿った髪を掻き上げられ、頬を撫でられて、和彦はじっと賢吾を見つめる。漠然と思ったことを口にしていた。
「……なんだか、楽しそうだな」
「こんなふうにぐったりした先生も、なかなかいいものだと思って。――今は図体もでかくて頑丈な千尋だが、小さい頃は腺病質でな。よく熱を出して寝込んでたんだ。そのときだけは、生意気な坊主がおとなしくなって、すがるような目で俺を見ていた。それが、むしょうに可愛かった」
「ぼくは、そんな目はしてないぞ……」
「熱を出すまでもなく、セックスの最中に俺をすがるように見ているからな」
これ以上ないほど熱が高いというのに、賢吾の言葉で体中の血が沸騰しそうになる。和彦が必死に睨みつけると、口元に笑みを浮かべた賢吾はもう一度頬を撫でてきた。
「こんなに熱を出して、医者の不養生だ、先生」
高熱のせいで頭の芯がぼんやりしていても、官能的なバリトンの威力はしっかりと伝わる。まるで鼓膜を声で愛撫されたようで、布団の中で和彦は小さく身震いしていた。
「と、言ってはみたが、俺にも責任はあるな。先生を振り回しているんだから。どうにも、先生がクリニック経営で忙しいということが、頭からすっぽり抜けちまうんだ。俺だけじゃなく、千尋も、うちのじいさんもな」
このときばかりは賢吾を見られず、つい和彦は目を伏せる。昨夜、守光と会ったことを報告はしていないが、当然賢吾は知っているだろう。もちろん、ただ会って談笑したわけではないことも。
「――……何日も前から、体調は怪しかったんだ。というより、この一年ずっと慌しかったから、ようやくクリニックを開いて、仕事にも慣れたところで、力が抜けたのかもしれない。こんなに熱を出したのは、本当に何年かぶりだ」
誰かのせいではないと、言外に和彦は仄めかす。賢吾は丁寧な手つきで髪を梳いてくれた。
「優しいな、先生は。そうやって甘やかすから、男どもがつけ上がるとも言えるがな」
「その言葉を、しっかりとあんたの胸に刻みつけておいてくれ」
低く笑い声を洩らして賢吾が立ち上がろうとしたので、苦しい息の下、囁くような声で和彦は言った。
「千尋、本当に何もないんだ」
「……先生、まだ顔が赤いよ。それに、目の焦点がおかしい」
そこまで言われてやっと和彦は、自分の体調の悪さが疲労ではなく、病気からくるものだと知った。足元が覚束ないのは、熱が高いせいだ。
自分の額に手をやったが、体温はよくわからない。額だけでなく、てのひらまで熱くなっていた。急に体に力が入らなくなり、その場に座り込みそうになったが、寸前のところで千尋に支えられる。
「先生、本宅に帰ろう」
顔を上げるのもつらくて、和彦はうつむいたまま頷いた。
喉が痛くて小さく咳き込むと、それだけで頭を揺さぶられるような眩暈に襲われる。一度意識してしまうと、体がどんどん熱に侵食されていくようで、横になっていてもだるい。
和彦は客間の天井を見上げ、ゆっくりと瞬きを繰り返す。体はつらいが、精神的には奇妙なほど安らいでいた。
耳を澄ますと、廊下を歩く足音が聞こえてくる。それに、話し声も。人の気配を感じるおかげで、心細さとは無縁でいられる。それが安らぎに繋がるのだ。
長嶺の本宅に連れて来られた和彦は、そのまま客間に通された。事前に千尋が連絡を入れておいたため、部屋は暖められ、布団も敷かれていた。浴衣に着替えて和彦が横になる頃には、加湿器まで運び込まれたぐらいだ。
和彦にはもう、自分の症状が何からくるものかわかっている。疲労が溜まってきたところに風邪を引き、自分でも驚くような高熱が出たのだ。風邪を予期させる症状にいくつか心当たりがあるが、寝込んでしまった今となっては、遅いとしかいいようがない。
千尋には悪いことをしたと思う。時間を作ってもらったのに、結局何も楽しめないまま、本宅に戻ってきたのだ。和彦に付き添っていると言っていたが、自分に代わって組員が諭してくれ、なんとか客間を出ていってもらった。
苦労して寝返りをうった和彦は、タオルに包まれた氷枕に頬を押し当てる。全身が燃えそうに熱いくせに、ゾクゾクと寒気がする。
苦しさに小さく喘いでいると、障子が開く音がした。振り返る体力もなく、ぐったりしていたが、相手のほうから正面に回り込んできた。
「――熱を出して弱った先生も色っぽいな」
いかにも賢吾らしい発言に、和彦は眉をひそめる。
「それが、病人にかける言葉か」
「掠れた声も実にいい」
畳の上にあぐらをかいて座った賢吾が顔を覗き込んできた。汗で湿った髪を掻き上げられ、頬を撫でられて、和彦はじっと賢吾を見つめる。漠然と思ったことを口にしていた。
「……なんだか、楽しそうだな」
「こんなふうにぐったりした先生も、なかなかいいものだと思って。――今は図体もでかくて頑丈な千尋だが、小さい頃は腺病質でな。よく熱を出して寝込んでたんだ。そのときだけは、生意気な坊主がおとなしくなって、すがるような目で俺を見ていた。それが、むしょうに可愛かった」
「ぼくは、そんな目はしてないぞ……」
「熱を出すまでもなく、セックスの最中に俺をすがるように見ているからな」
これ以上ないほど熱が高いというのに、賢吾の言葉で体中の血が沸騰しそうになる。和彦が必死に睨みつけると、口元に笑みを浮かべた賢吾はもう一度頬を撫でてきた。
「こんなに熱を出して、医者の不養生だ、先生」
高熱のせいで頭の芯がぼんやりしていても、官能的なバリトンの威力はしっかりと伝わる。まるで鼓膜を声で愛撫されたようで、布団の中で和彦は小さく身震いしていた。
「と、言ってはみたが、俺にも責任はあるな。先生を振り回しているんだから。どうにも、先生がクリニック経営で忙しいということが、頭からすっぽり抜けちまうんだ。俺だけじゃなく、千尋も、うちのじいさんもな」
このときばかりは賢吾を見られず、つい和彦は目を伏せる。昨夜、守光と会ったことを報告はしていないが、当然賢吾は知っているだろう。もちろん、ただ会って談笑したわけではないことも。
「――……何日も前から、体調は怪しかったんだ。というより、この一年ずっと慌しかったから、ようやくクリニックを開いて、仕事にも慣れたところで、力が抜けたのかもしれない。こんなに熱を出したのは、本当に何年かぶりだ」
誰かのせいではないと、言外に和彦は仄めかす。賢吾は丁寧な手つきで髪を梳いてくれた。
「優しいな、先生は。そうやって甘やかすから、男どもがつけ上がるとも言えるがな」
「その言葉を、しっかりとあんたの胸に刻みつけておいてくれ」
低く笑い声を洩らして賢吾が立ち上がろうとしたので、苦しい息の下、囁くような声で和彦は言った。
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