血と束縛と

北川とも

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第20話

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「佐伯審議官に相談を持ちかけられたときも、半信半疑だった。だが、写真を見せられて気が変わった。――今の君を放っておくべきじゃないと」
 困る、という一言が出てこなかった。思いがけない里見の登場に、明らかに和彦の心は揺れている。ただの元家庭教師というだけでなく、佐伯家で居場所のなかった和彦にとって、里見の存在は特別だった。
 里見のおかげで、和彦は〈大人〉になれた。家族と馴染めないからこそ、足りないものを他人とのつき合いで補う術を教えてくれたのだ。
 佐伯家の人間とは会いたくない。しかし、里見とは――。
 気持ちが掻き乱され、何も考えられない和彦は、危うくすべてを話してしまいそうになったが、寸前で脳裏を過ったのは、今関係を持っている特別な男たちの顔だった。
 唇を引き結んだ和彦は、里見の顔をまっすぐ見据える。
「……ごめん、里見さん……。もう時間がないんだ。そろそろ戻らないと、患者さんを待たせることになる」
 里見は穏やかに微笑んだ。
「医者として仕事をしているらしいと、君の友人から話は聞いていたんだが、本当みたいだな」
「もちろん」
「ならまあ、君の口から情報を一つ引き出せたことに、満足しておこう」
 そんなことを言った里見が、名刺入れから一枚の名刺を取り出し、手早く何か書き込む。渡された名刺を受け取った和彦は、それが携帯電話の番号だと知った。
「これ……」
「連絡先を教えてほしいとは言わない。その代わり、わたしの連絡先を知っておいてくれ」
 困惑する和彦に、里見はこう付け加えた。
「卑怯な言い方をするなら、佐伯審議官の心象を悪くしないためにもわたしは、君と連絡を取れる立場を確保しておきたい。――君から連絡が欲しい。もっと言うなら、また会いたい」
 ズルい大人のようなことを言う里見から、嫌な印象はまったく受けなかった。口調があまりに切実だったからだ。
「……実家のことでいろいろと聞きたいことはあるけど、今は本当に時間がないんだ。それに、いつ電話できるか、約束もできない」
「かまわない。都合のいいときに、わたしのオフィスでも携帯でも、どちらでもいいからかけてくれ」
 生活のすべてを長嶺組に――賢吾に把握されている和彦にとって、里見の名刺を持っていることはリスクが高い。十秒ほど考え込んでから、結局和彦は名刺を受け取り、ジャケットのポケットに入れて立ち上がる。もちろん、メッセージカードも忘れない。
 別れの挨拶の代わりに、和彦は里見にこう尋ねた。
「――里見さん、ぼくは今、どんなふうに見える?」
「ハンサムで知的な、育ちのいい青年に見える」
 あまりにあっさりと答えられ、聞いているほうが恥ずかしくなってくる。
「……臆面もなく、そういうことを言えるところも、相変わらずだ」
「本当に嬉しいんだ。大人になった『和彦くん』に会えて」
 里見の言葉に、胸に甘く切ない感覚が広がる。自分も里見に会えて嬉しいのだと言いたかったが、気持ちが舞い上がりすぎて声が出なかった。
 和彦は深々と頭を下げると、逃げるようにその場を立ち去った。


 スタッフが帰り、一人クリニックに残った和彦は、やっと肩から力を抜く。昼間からずっと引きずってきた興奮はどうにか鎮まりつつあるが、それは同時に、まともな思考能力が戻ってきたことを表している。
 自分に向けられる男たちの執着や、今の生活に感じる愛着としっかり向き合うために、和彦は里見に会いに行った。里見の中にいるであろう、高校生までの自分と決別もしたかったし、どこにでもいる中年男になった里見の姿も見たかった。
 だが、和彦の目的は一つも果たせなかったといえる。
 イスに腰掛けた和彦は、里見がくれた名刺を手の中で弄ぶ。
 悔しいほど、里見は昔のままだった。いや、年齢を重ねた分、落ち着きと深みが増して、さらに魅力的な大人の男になっていた。その大人の余裕で、成長した和彦に対しても穏やかな眼差しを向けてくれた。里見にとって、和彦が何歳になろうが関係ないのだ。
 心地いい思い出に浸りそうになり、我に返った和彦は名刺ホルダーに里見の名刺を加える。マンションの部屋に持ち帰るより、クリニックで保管したほうがかえって人目につかず安全だ。
 里見が書いたメッセージカードは、すでに燃やした。一緒に名刺も処分してしまおう――とは考えなかった。
 里見が直接手渡してくれた、最後のものになるかもしれない。
 そう考えるのは誰かに対する裏切りになるのだろうかと、自問しながら和彦は、名刺ホルダーをキャビネットに仕舞い、鍵をかけた。
 後ろ髪を引かれるような想いを断ち切り、手早く帰り支度を整えると、クリニックを出る。

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