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第20話
(1)
しおりを挟む目の前に里見がいるということが、いまだに信じられなかった。
和彦の記憶の中にある里見は、活力に溢れた二十代の青年で、当時から人好きのする魅力的な外見の持ち主だった。今は、年齢を重ねた分、包容力と知性がさらに増したように見える。まさに、紳士という表現がしっくりくる。
優しげな眼差しで和彦を見つめる癖がまったく変わっていないことに、安堵する反面、気恥ずかしいものを感じ、和彦はカップを覗き込むように顔を伏せる。
「――なんだか不思議だ」
里見の言葉に、ハッとした和彦はすぐに顔を上げる。目が合うと、里見特有の優しい雰囲気に搦め捕られたようになっていた。
「何、が……?」
「君が、先生と呼ばれる職業に就いているなんて。わたしが知っている君は、高校の制服を着ている姿までだからな。そしてわたしは、そんな君に勉強を教えている〈先生〉だった」
「里見さんのおかげだよ。ぼくが優等生でいられたのは」
昔のことを思い出したのか、里見は短く声を洩らして笑う。その拍子に前髪が額にかかり、自然な仕草で掻き上げた里見の左手を、さりげなく和彦はチェックしていた。あって当然だと思っていた結婚指輪は、薬指にはない。
妙なことに気づいた自分に居心地の悪さを覚え、和彦は思わず視線をさまよわせる。
「まじめな家庭教師だったのは、君が中学生のときまでだ。あとはもう息抜きと称して、君を連れ回していた」
「……やっぱり、里見さんのおかげだよ。ぼくが人並みの子供らしく、外の世界に触れられたのは。そうじゃなかったら、ぼくは陰気な子供のままだった」
和彦が佐伯家のことを口にした途端、里見は表情を曇らせる。こんな表情まで、渋くて魅力的だと思うと、里見がいい形で年齢を重ねてくれたことに、和彦は内心で感謝せずにはいられない。
危機感を持つべき状況だと頭ではわかっているのだが、このときの和彦は、里見に会ったことで舞い上がっていた。里見が少しでも、家庭的なものを匂わせたり、仕事疲れによる陰鬱なものをまとっていればまた違ったのかもしれないが、幸か不幸か、和彦を失望させるものを里見は何も持っていない。
「――相変わらず、佐伯家のことを話すときは苦い顔をするんだな」
里見の指摘に、思わず苦笑を洩らす。
「里見さんも知ってるだろ。ぼくは大学に入ると同時に一人暮らしを始めて、それから滅多に、実家には顔を出さないんだ」
「佐伯さん……、佐伯審議官から事情は聞いている。それと、英俊くんからも」
「里見さんこそ相変わらず、父さんにとっては目をかけている部下で、兄さんにとっては信頼できる上司なんだね」
「あいにく、四十歳前に省庁を辞めて、わたしは今は、企業シンクタンクの人間だ」
驚きで目を見開く和彦を、里見は楽しげに見つめている。大人なのに、ときおり子供っぽい表情を見せるところも変わらないと、静かに息を吐き出した和彦はコーヒーを一口飲む。
頭が軽く混乱しているため、整理する必要があった。
里見真也は、和彦のかつての家庭教師だ。本来の立場は父親の部下で、〈勉強会〉に参加するためよく佐伯家を訪れていたのだが、愛想のない和彦を何かと気にかけて、勉強も見てくれていた。それを知った父親は、上司としての権限を行使し、里見に和彦の家庭教師という名の世話役を押し付けたのだ。
里見は、和彦にとっては実の兄よりも兄らしい存在だった。省庁勤めで多忙をきわめているはずなのに、休みの日には自宅に招いてくれたり、外に遊びに連れ出してくれた。佐伯家と学校という世界しか知らない和彦に、さまざまな刺激を与えてくれたおかげで、今の和彦がいると言ってもいい。
ただ、里見とのつき合いは、和彦の大学入学を機に途絶えた。一気に人間関係が広がった和彦から、里見が身を引いたという表現が正しいかもしれない。それから連絡も取ることなく、今日がおよそ十三年ぶりの再会となる。
その間、和彦の身にはさまざまなことが起こったが、それは里見も同じだったようだ。
「――仕事を抜け出しているから、あまり時間が取れないんだ。……どうして今日、ぼくの前にあなたが?」
里見との間で語れる思い出はいくらでもあるが、今日はそのために、互いに会ったわけではない。懐かしさを振り切るように和彦は本題に入った。
里見の答えは、ある程度予測できたものだった。
「わたしの今の勤め先を用意してくれたのは、佐伯審議官だ。IT研究機関としては最大手で、わたしの能力を存分に発揮できるといってね。つまりわたしは、勤め先は変わったが、今でも君のお父さんの部下のようなものだ。だから、頼まれごとをされると断れない」
「そう……」
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