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第19話
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「先生の誕生日前後に二、三日まとめて休みを取りたかったが、無理だった」
「誕生日当日、とは言ってくれないのか?」
「俺には、そんな大事な日に先生を独占できる権利はない」
こうして触れ合ってはいても、和彦と三田村の関係は恋人同士ではない。和彦がいくら三田村を、自分の〈オトコ〉だと言っても、それが通じるのは二人の間だけだ。組にとって三田村は、若頭補佐であり、組長のオンナの〈犬〉なのだ。
三田村は、そんな自分の立場をわきまえている。そうであるよう、心身に叩き込んでいるのだろう。
この男らしいと思いながら和彦は、小さくあくびを洩らす。現金なもので、人恋しさを満たしてしまうと、今度は緩やかな眠気が押し寄せてくる。三田村の側だと、いくらでも無防備になれるのだ。
「朝、仕事に間に合うよう起こすから、安心して休んでくれ」
三田村の優しい声に頷いたとき、すでに和彦は目を閉じていた。その状態で会話を続ける。
「……気をつかってもらうほど、ぼくの誕生日なんて大したものじゃないんだけどな」
「だったらせめて、ケーキを買っておこうか?」
三田村のその言葉が冗談か本気か、まったく読めない。和彦は薄く目を開くと、じっと返事を待っている三田村の表情を確認する。どうやら本気で言ったらしい。
「誕生日プレゼントは、もういらない。あんたからはもらった。こうしてぼくに会いに来てくれて、それだけで十分だ。記憶にもしっかり残ったしな」
「誕生日、誕生日と騒ぎ続けたら、本気で先生に嫌われそうだな……」
「ああ、嫌ってやる」
笑いを含んだ柔らかな声で答えた和彦は、ごそごそと身じろいでから、三田村の胸に顔を寄せる。
背に獰猛な動物を背負いながらも、誰よりも優しい男の体温を感じながら考えるのは、誕生日までに自分がすべきことだった。
今いる世界の男たちは、猛々しくて狡猾で、ときには残酷ですらある。必要があれば、何を使ってでも和彦を雁字搦めにして、逃がしはしないだろう。だが、そういった男たちの執着が、和彦には息苦しくある一方で、心地よく、愛しい。
今手放してしまえば、もう二度と手に入らないものだとわかってもいる。だから――。
和彦の心の揺れを読み取ったわけではないだろうが、三田村の片腕にしっかりと抱き締められる。和彦は安堵の吐息を洩らし、虎に守られながら眠る贅沢を堪能することにした。
やや緊張しながら和彦は、手にした携帯電話に視線を落とす。いまさら確認するまでもないのだが、液晶には二月七日の金曜日と表示され、時刻はもうすぐ十二時半になろうとしていた。
クリニックにはすでに患者の姿はなく、電話番のスタッフ以外は昼休みに入っている。
和彦はいつものように白衣を脱ぎ、代わってコートを羽織る。財布と携帯電話をポケットに入れると、昼食をとりに行くとスタッフに告げてクリニックを出た。
一階に降りるまでの間、和彦は大きく響く自分の鼓動を聞いていた。自然な態度を装ってはいるが、内心はこれ以上なく緊張しているのだ。そのため、指先まで冷たくなっている。
ビルを出て、素早く周囲を見回してから歩き出す。長嶺組の組員にクリニックへの送迎をしてもらっている和彦にとって、日中、組員の目を気にせず自由に出歩ける時間は昼休みしかない。
ビルから少し歩いて、大通りへと出る。この辺りに来ると飲食店が多く並んでおり、和彦は店を捜すふりをして、さりげなく背後をうかがう。思ったとおり、護衛の組員はついてきていなかった。
信頼されていると喜んでいいのだろうかと、苦々しく唇を歪める。
一年近く組長のオンナとして、組に協力する医者として、従順に過ごしてきて積み上げてきた信頼を、こんな形で利用することになるとは、和彦自身、思ってもいなかった。
賢吾の恐ろしさを知っているからこそ隠し事はしたくないが、今から和彦が取る行動は、決して賢吾を――関係を持っている男たちを裏切るためのものではない。
そう自分に言い聞かせながら、和彦はもう一度、今度は慎重に背後を観察してからタクシーを停める。
行き先を告げてタクシーが発進すると、プツリと緊張の糸が切れた。奇妙な解放感すら味わいながら、微かな震えを帯びた息を吐き出す。
和彦はコートのポケットをまさぐり、財布に触れる。これは前から使っているもので、誕生日プレゼントとして佐伯家から贈られた財布は、相変わらず書斎のデスクの中だ。ただ、今日はメッセージカードだけは外に持ち出し、財布のカードポケットに納まっている。
二人きりで会いたいと書かれているメッセージカード一枚で、無謀にも護衛をつけず、それどころか行き先すら誰にも告げないまま出向くことの危険性を、和彦はよく理解している。それでも行動を起こしたのは――。
タクシーは、見覚えのあるホテルの前で停まる。昨年、澤村とランチを食べたのが、このホテル内にある中華料理店だった。メッセージカードに書かれた待ち合わせ場所は、同じホテルのガーデンラウンジだ。
和彦がどこで生活し、仕事をしているのか不明なうえ、都合を尋ねることもできないため、無難にこのホテルを選択したのだろう。その配慮のおかげで、こうして仕事の合間に足を運べた。
正面玄関からロビーに足を踏み入れると、和彦は周囲を見回し、露骨に警戒する。トラウマになっているのか、兄の英俊が姿を現しそうで怖かったのだ。もちろん、そんなことはありえないだろう。メッセージカードを書いた人物は、和彦を騙すようなまねはしない。そう信じているのだ。
大きな池と日本庭園を眺められるガーデンラウンジは、眺めのよさや、昼時ということもあってか、けっこうなにぎわいを見せていた。
案内のスタッフに待ち合わせであることを告げて、ホールを見回す。そして、窓際のテーブルにつく、それらしい人物の姿を見出した。仕立てのいい明るいグレーのスーツを見事に着こなした体は、しっかりと引き締まっており、貫禄すら感じる。だが、全身から漂う雰囲気は柔らかい。
変わっているようで、変わっていない。その人物の存在を認めた瞬間から、和彦の心臓は壊れたように鼓動が速くなる。
ゆっくりとした足取りでテーブルに近づく。すると、こちらから声をかけるより先に気配に気づいたらしく、熱心に庭を眺めていたその人物がスッと和彦を見た。
目が合っただけで、胸に甘苦しさが広がる。さまざまなことを考えて危惧し、警戒していたが、すべて吹き飛んでしまった。
柔らかな髪をきれいに撫でつけた髪型は、相変わらずだ。もう四二歳になるはずなのに、育ちのいい青年のような屈託ない笑顔も変わらない。
「――久しぶりだね、和彦くん」
この呼び方も、声の穏やかさやイントネーションすら同じだ。
大きく息を吐き出した和彦は、込み上げてくる感情をぐっと胸の奥に押し込み、ぎこちなく笑い返す。
「本当に……、久しぶりだ、里見さん」
和彦が応じると、里見は嬉しそうに目を細めた。
「誕生日当日、とは言ってくれないのか?」
「俺には、そんな大事な日に先生を独占できる権利はない」
こうして触れ合ってはいても、和彦と三田村の関係は恋人同士ではない。和彦がいくら三田村を、自分の〈オトコ〉だと言っても、それが通じるのは二人の間だけだ。組にとって三田村は、若頭補佐であり、組長のオンナの〈犬〉なのだ。
三田村は、そんな自分の立場をわきまえている。そうであるよう、心身に叩き込んでいるのだろう。
この男らしいと思いながら和彦は、小さくあくびを洩らす。現金なもので、人恋しさを満たしてしまうと、今度は緩やかな眠気が押し寄せてくる。三田村の側だと、いくらでも無防備になれるのだ。
「朝、仕事に間に合うよう起こすから、安心して休んでくれ」
三田村の優しい声に頷いたとき、すでに和彦は目を閉じていた。その状態で会話を続ける。
「……気をつかってもらうほど、ぼくの誕生日なんて大したものじゃないんだけどな」
「だったらせめて、ケーキを買っておこうか?」
三田村のその言葉が冗談か本気か、まったく読めない。和彦は薄く目を開くと、じっと返事を待っている三田村の表情を確認する。どうやら本気で言ったらしい。
「誕生日プレゼントは、もういらない。あんたからはもらった。こうしてぼくに会いに来てくれて、それだけで十分だ。記憶にもしっかり残ったしな」
「誕生日、誕生日と騒ぎ続けたら、本気で先生に嫌われそうだな……」
「ああ、嫌ってやる」
笑いを含んだ柔らかな声で答えた和彦は、ごそごそと身じろいでから、三田村の胸に顔を寄せる。
背に獰猛な動物を背負いながらも、誰よりも優しい男の体温を感じながら考えるのは、誕生日までに自分がすべきことだった。
今いる世界の男たちは、猛々しくて狡猾で、ときには残酷ですらある。必要があれば、何を使ってでも和彦を雁字搦めにして、逃がしはしないだろう。だが、そういった男たちの執着が、和彦には息苦しくある一方で、心地よく、愛しい。
今手放してしまえば、もう二度と手に入らないものだとわかってもいる。だから――。
和彦の心の揺れを読み取ったわけではないだろうが、三田村の片腕にしっかりと抱き締められる。和彦は安堵の吐息を洩らし、虎に守られながら眠る贅沢を堪能することにした。
やや緊張しながら和彦は、手にした携帯電話に視線を落とす。いまさら確認するまでもないのだが、液晶には二月七日の金曜日と表示され、時刻はもうすぐ十二時半になろうとしていた。
クリニックにはすでに患者の姿はなく、電話番のスタッフ以外は昼休みに入っている。
和彦はいつものように白衣を脱ぎ、代わってコートを羽織る。財布と携帯電話をポケットに入れると、昼食をとりに行くとスタッフに告げてクリニックを出た。
一階に降りるまでの間、和彦は大きく響く自分の鼓動を聞いていた。自然な態度を装ってはいるが、内心はこれ以上なく緊張しているのだ。そのため、指先まで冷たくなっている。
ビルを出て、素早く周囲を見回してから歩き出す。長嶺組の組員にクリニックへの送迎をしてもらっている和彦にとって、日中、組員の目を気にせず自由に出歩ける時間は昼休みしかない。
ビルから少し歩いて、大通りへと出る。この辺りに来ると飲食店が多く並んでおり、和彦は店を捜すふりをして、さりげなく背後をうかがう。思ったとおり、護衛の組員はついてきていなかった。
信頼されていると喜んでいいのだろうかと、苦々しく唇を歪める。
一年近く組長のオンナとして、組に協力する医者として、従順に過ごしてきて積み上げてきた信頼を、こんな形で利用することになるとは、和彦自身、思ってもいなかった。
賢吾の恐ろしさを知っているからこそ隠し事はしたくないが、今から和彦が取る行動は、決して賢吾を――関係を持っている男たちを裏切るためのものではない。
そう自分に言い聞かせながら、和彦はもう一度、今度は慎重に背後を観察してからタクシーを停める。
行き先を告げてタクシーが発進すると、プツリと緊張の糸が切れた。奇妙な解放感すら味わいながら、微かな震えを帯びた息を吐き出す。
和彦はコートのポケットをまさぐり、財布に触れる。これは前から使っているもので、誕生日プレゼントとして佐伯家から贈られた財布は、相変わらず書斎のデスクの中だ。ただ、今日はメッセージカードだけは外に持ち出し、財布のカードポケットに納まっている。
二人きりで会いたいと書かれているメッセージカード一枚で、無謀にも護衛をつけず、それどころか行き先すら誰にも告げないまま出向くことの危険性を、和彦はよく理解している。それでも行動を起こしたのは――。
タクシーは、見覚えのあるホテルの前で停まる。昨年、澤村とランチを食べたのが、このホテル内にある中華料理店だった。メッセージカードに書かれた待ち合わせ場所は、同じホテルのガーデンラウンジだ。
和彦がどこで生活し、仕事をしているのか不明なうえ、都合を尋ねることもできないため、無難にこのホテルを選択したのだろう。その配慮のおかげで、こうして仕事の合間に足を運べた。
正面玄関からロビーに足を踏み入れると、和彦は周囲を見回し、露骨に警戒する。トラウマになっているのか、兄の英俊が姿を現しそうで怖かったのだ。もちろん、そんなことはありえないだろう。メッセージカードを書いた人物は、和彦を騙すようなまねはしない。そう信じているのだ。
大きな池と日本庭園を眺められるガーデンラウンジは、眺めのよさや、昼時ということもあってか、けっこうなにぎわいを見せていた。
案内のスタッフに待ち合わせであることを告げて、ホールを見回す。そして、窓際のテーブルにつく、それらしい人物の姿を見出した。仕立てのいい明るいグレーのスーツを見事に着こなした体は、しっかりと引き締まっており、貫禄すら感じる。だが、全身から漂う雰囲気は柔らかい。
変わっているようで、変わっていない。その人物の存在を認めた瞬間から、和彦の心臓は壊れたように鼓動が速くなる。
ゆっくりとした足取りでテーブルに近づく。すると、こちらから声をかけるより先に気配に気づいたらしく、熱心に庭を眺めていたその人物がスッと和彦を見た。
目が合っただけで、胸に甘苦しさが広がる。さまざまなことを考えて危惧し、警戒していたが、すべて吹き飛んでしまった。
柔らかな髪をきれいに撫でつけた髪型は、相変わらずだ。もう四二歳になるはずなのに、育ちのいい青年のような屈託ない笑顔も変わらない。
「――久しぶりだね、和彦くん」
この呼び方も、声の穏やかさやイントネーションすら同じだ。
大きく息を吐き出した和彦は、込み上げてくる感情をぐっと胸の奥に押し込み、ぎこちなく笑い返す。
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