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第18話
(17)
しおりを挟む妙なことになったと、畳の上に座った和彦は軽く困惑しつつ、浴衣の衿を直す。そして改めて、室内を見回す。
まるで旅館の客室のような部屋で、必要なものは過不足なく揃っていた。しかも、和彦が入浴をしている間に、抜かりなく布団も敷かれてしまった。まさに、もてなす気満々といった感じだ。
それが悪いとは言わないが、素直に好意に甘えるには、少々抵抗があった。なんといってもこの部屋は――。
和彦はまだ半乾きの髪を指で軽く梳いてから、ため息をつく。同じ屋根の下に総和会会長がいるのかと思うと、やはりどうしても寛げない。
夕食をともにしたあと、コーヒーを飲みつつ世間話をしたまではよかったのだ。ただ、あまり遅くならないうちにお暇を、と和彦が切り出したとき、即座に守光から提案された。
ぜひ、泊まっていってくれと。
乗り気の千尋と二人がかりで説得されて、嫌と言えるはずもない。遠慮の言葉すら口にできず、和彦は頷いていた。その結果が、総和会会長宅の客間で一人、所在なく座り込んでいるこの状況だ。
自分の立場の微妙さもあり、和彦はいまだに、守光とどう接すればいいのかわからない。かけられる言葉に甘え、打ち解けて見せた途端、何か恐ろしい獣が牙を剥きそうな本能的な怯えが拭えないのだ。
この状態で眠れるのだろうかと、もう一度ため息をつこうとした瞬間、視界の隅に鮮やかな色彩を捉えて、和彦はドキリとする。何かと思えば、床の間に掛けられた掛け軸だ。
派手な装飾品のない客間の中、この掛け軸は鮮烈な存在感を放っていた。描かれているのは、鎧を身につけた若武者が、栗毛の馬に跨っている姿だ。武具や馬具には、赤や朱、金という華やかな色が惜しみなく施されているが、何より鮮やかなのは、若武者そのものだ。
見惚れるほど美しい顔立ちをしており、表情は凛々しい。どこかを見据える眼差しは涼しげでありながら憂いを含んでおり、それが妙に艶かしい。
描かれたのはそう昔ではないだろう。作風は現代のものに近いと、美術に疎い和彦でも判断できる。
もっと近くで見たくて、床の間に這い寄ろうとしたとき、突然背後から声をかけられた。
「――賢吾が生まれたときに、端午の節句に飾ってやろうと思って買い求めたものだ」
ビクリと肩を震わせて和彦が振り返ると、いつの間にか襖が開き、守光が立っていた。慌てて正座をすると、ふっと守光の眼差しが柔らかくなる。
「いい画なんだが、男の子の成長を祝う日に飾るにしては……色気がありすぎる。若武者の顔立ちが整いすぎているんだろうな。姿は勇ましいはずなのに、眺めていると胸がざわついてくる。ただ気に入ってはいるんで、季節に関係なく、ときどき箱から出しては掛けているんだ」
「そうなんですか……」
「どことなく、あんたに似ている」
思いがけない言葉に、和彦は大きく目を見開く。守光は口元に薄い笑みを浮かべながらも、こちらを見る眼差しは心の中すら見通してしまいそうなほど、鋭い。忘れているつもりはなかったが、眼差し一つで、長嶺守光という男の怖さを思い知らされたようだ。
和彦を丁寧に扱ってくれるのは、決して守光が穏やかで優しい人物だからではない。和彦が、力を見せつけるほどの存在ではなく、容易に押さえ込めると知っているからだ。和彦にしても、反抗や抵抗を示すつもりはなかった。ただ、丁寧に扱われることに身を任せるだけだ。
本当に和彦の心の内を見通したのか、目を細めた守光がこう言った。
「あんたは本当に、力に敏感だな。頭のいい証拠だ」
「……そんなこと……」
「賢吾に対して、あんたは巧く身を委ねた。なら、わしに対しては、どこまで巧く身を委ねられるか――」
意味ありげに言葉を切られ、和彦は急に不安に襲われる。守光は何事もなかったように、今度は目元まで和らげて笑った。
「四階は自由に行き来していいし、欲しいものがあれば、二階の連絡所に内線をかけたら、誰かがすぐに届けてくれる。あんたは、わしの大事な客だ。何も遠慮しなくていい」
「ありがとうございます」
頷いた守光が襖を閉めようとして、ふと動きを止める。何事かと思えば、守光の視線は掛け軸に向けられていた。つられて和彦も、再び掛け軸を見る。
「――この部屋で寝ると、変わった夢を見られるかもしれない。掛け軸の中の若武者が添い寝してくれる夢とかな……」
賢吾に似た低く艶のある声は、冗談を言っている声音ではなかった。体を内側から撫で回されたような感覚に襲われ、和彦は小さく身震いする。
ゆっくりと振り返ったとき、すでに襖は閉められ、守光の姿はなかった。この瞬間、和彦は思った。制止を振り切ってでも、帰宅するべきではなかったのか、と。
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