血と束縛と

北川とも

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第18話

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 頷いた直後に、数人の緊迫した声が上がる。振り返ると、さきほどまで楽しそうに飲んでいたグループの一人に、いかにも泥酔したスーツ姿の男が詰め寄っていた。今にも掴みかかりそうで、周囲の人間が止めようとするが、それがかえって男を煽ったようだ。とうとう揉み合いとなり、騒ぎが大きくなる。
「……まったく、いい歳したおっさんが、みっともない……」
 苦い口調で洩らした中嶋が立ち上がり、揉み合いの中心へとスッと近づく。何をするのかと和彦が見守っている中、中嶋は有無を言わせない手つきで、スーツ姿の男のジャケットを掴み上げた。
 咄嗟に、中嶋が男を殴るのではないかと危惧して、和彦も立ち上がる。何かあれば自分が間に入ろうと思ったのだが、事態はあっさりと収拾した。
 中嶋が笑いながら、男の耳元で何かを囁く。それから二、三言会話を交わしていたが、その間に、怒気でぎらついていた男の目つきが変わり、明らかに怯えの色が浮かぶ。紅潮していたはずの顔から、血の気まで失せていた。対照的に、中嶋は笑ったままだ。
 酔っ払いのあしらい方は水商売で鍛えたものかもしれないが、男の顔つきの変化からして、耳元で囁く言葉は、おそらくとてつもなく物騒なものだろう。表面上は穏やかに、しかし実際は容赦なく物事を進めるのは、ヤクザのやり口だ。
 中嶋が親しげに男の肩を叩き、こちらに戻ってくる。
「先生、出ましょうか」
 何事もなかったようにコートを取り上げ、中嶋が声をかけてくる。和彦は困惑しつつ、男のほうを見た。さきほどまで威勢がよかった酔っ払いは、急におどおどしたように周囲を見回し、ぎこちない動きで自分のテーブルに戻っている。
 あっという間に騒動は収まったが、店内の客たちの視線は、今度はこちらに――正確には中嶋に向けられていた。物腰の穏やかな普通の青年が、声を荒らげることなくどうやって酔っ払いをおとなしくさせたのか、興味津々といった様子だ。
 確かにこんな空気の中、気楽に飲み続けるのは不可能だろう。即座にそう判断した和彦は、自分もコートとマフラーを取り上げ、中嶋とともにレジへと向かう。二人で飲むときは、基本的にワリカンなのだ。
「――先生もしかして、乱闘になったら、飛び込むつもりだったんですか? 立ち上がってましたよね」
 支払いをしながら中嶋が楽しげに顔を綻ばせる。和彦はムッと唇をへの字に曲げたあと、ぶっきらぼうな口調で応じた。
「まさか。危なくなったら、君を引きずって逃げるつもりだった」
「ショックだなー。俺、そんなに弱そうに見えますか?」
「違う。――相手を半殺しにするんじゃないかと、そっちを心配したんだ。……よく考えたら、君がそんな素人みたいなマネをするわけがないな」
 心配して損をした、とぼやきながら、和彦も支払いを済ませる。隣に立った中嶋の肩が微かに震えている。和彦の気遣いに感動している――わけではなく、必死に笑いを堪えているのだ。
 ビルの一階に降りたところで、二人は並んで外を眺める。不本意な形で楽しい時間を中断してしまい、正直物足りない。別の店に移動しようという流れになりそうなものだが、今夜は天候に見放されている。
 雨の降りはますます強くなっており、開け放っている扉から吹き込んでくる風は、凍りつきそうなほど冷たい。
 和彦が丁寧にマフラーを巻く姿を見て、中嶋は苦笑に近い表情を浮かべた。
「このビルの中に、他にいくらでも店がありますから、適当に入って飲みますか?」
「君のお薦めの店が、他にあるのなら」
 中嶋は軽く肩をすくめたあと、和彦に向かって頭を下げた。
「すみません。俺から誘っておきながら、俺のせいで店を出ることになって」
「気にしないでくれ。あのまま酔っ払いに喚き続けられてたら、どっちにせよ店を出ることになっていた。それに――君の怖い面も見られた」
「怖い? にこやかだったでしょう、俺」
 澄ました顔で言うのが、なんとも白々しい。和彦は露骨に聞こえなかったふりをして、腕時計を見る。夜遊びを堪能したというには、まだ早い時間だ。
「先生、今夜はお開きにしましょう。タクシーを停めてきますから、ここで待っていてください。あっ、知らない奴についていかないでくださいね」
「ぼくは子供か……。――どうせ送ってくれるんだから、ついでに部屋に寄っていかないか? 店ほどじゃないが、そこそこの酒が揃っている」
 軽く目を見開いた中嶋が、次の瞬間には嬉しそうに目元を和らげる。さきほど、酔っ払い相手に見せた凄みのある笑みとは、まったく違う表情だ。
 先日、賢吾を挟んで自分と中嶋との間にあった出来事を考えれば、抵抗がないわけではないが、だからといって、思い出したくもない出来事というわけではないのだ。むしろ――。
 無意識にマフラーの端を弄んでいて、何げなく視線を上げた和彦は、ドキリとする。中嶋がいつの間にか笑みを消し、じっとこちらを見つめていたからだ。その眼差しに込められた熱っぽさに気づき、和彦の胸の奥がじわりと熱くなった。

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