368 / 1,268
第18話
(7)
しおりを挟む
思わず語気を荒くすると、中嶋が驚いたように目を丸くする。和彦はウィスキーを一口飲んでから、ほっと息を吐き出した。ついでに、言い訳がましく説明する。
「別に……、総和会の仕事を受けたくないわけじゃない。ただ、たまたま君が待機組だったというだけで、いつ怪我をしてもおかしくない環境だから、心配になっただけだ」
「こんな世界にいて、甘いですね、先生は。ただ俺は、先生の甘さが大好きですよ。きっとこれは、俺だけの意見じゃないと思いますけど」
「ぼくの甘さに対して、きちんと見返りをくれる男ばかりだからな。損はしてない――と思う」
悪党ぶって言ってはみたが、返ってきたのは、中嶋の楽しげな笑い声だった。
「けっこう、悪辣な世界に染まってきましたね」
「全然、そう思ってないだろ……」
ひとしきり笑ったあと、中嶋がふっと我に返ったように真摯な顔つきとなる。隣のテーブルの客が帰ったところを狙っていたように、実にさりげなく和彦の手に触れてきた。
「――俺が怪我したら、先生が治療してください」
「その前に、怪我をしないよう気をつけることだな」
「ヤクザに、無茶言いますね」
和彦は、重ねられた中嶋の手を軽く握ってやる。
「せっかく、大きな傷跡のないきれいな体をしているんだ。そんな君の体を縫うところは、あまり考えたくないな」
「でも、いつかは現実になるかもしれない」
「……そうなったら、せめて箔がつくように、立派な縫い跡を作ってやる」
従業員がやってきて、隣のテーブルを片付け始めたので、二人は何事もなかったように手を離す。
我ながら不埒だなと思うが、中嶋との会話も、ささやかな肌の触れ合いも、適度に気分を高揚させられて心地いい。妖しい胸のざわつきを覚えながらも、反面、強い肉欲を意識するまでには至らない。
和彦は深い吐息を洩らして夜景に視線を向ける。さきほどより雨の降りが強くなってきたようで、ますます景色が霞んで見える。
ガラスを伝って流れ落ちる水滴に見入っていると、背後からにぎやかな歓声が上がる。いかにも学生らしいグループが盛り上がっているようだが、だからといって不快というほどではない。むしろ、物騒な会話を交わしているという後ろ暗さを感じなくて済み、ありがたいぐらいだ。
中嶋も同じ感想を持っているのか、ガラスに反射して映るハンサムな顔には機嫌よさそうな笑みが浮かんでいた。その中嶋が、唐突に問いかけてくる。
「――そういえば先生、南郷さんと何かありましたか?」
完全に虚をつかれた和彦は目を見開く。思わず隣を見ると、いつの間にか中嶋は、したたかで食えない男の顔となっていた。普通の青年の顔をしているから騙されそうになるが、中嶋の中身は、たっぷりの野心を抱え持つ切れ者のヤクザだ。
よりによって、南郷の話題を持ち出してくるとは――。
心地よい酩酊感に浸りかけていたところを、強引に現実に引き戻された気がして、和彦はつい顔をしかめる。それがますます、中嶋の好奇心を刺激したらしい。肘掛けにしなだれかかるようにして、和彦に身を寄せてきた。
「何かあったという顔ですね」
「……どうして、そう思うんだ」
「南郷さんが、俺に聞いてきたんですよ。先生は、どんな人間なのかって」
和彦は、一昨日の夜の出来事を嫌でも思い出す。総和会からの仕事だということで、三田村との逢瀬の途中にもかかわらず慌しく部屋を出て、迎えの車に乗り込んだまではよかったが、なぜか南郷も同乗していたのだ。
露骨に性的なことを言われはしたが、それも最初だけで、南郷はすぐに黙り込んでしまった。和彦が極端に、警戒と拒絶の態度を示したせいかもしれないが、今にして、自分は値踏みされていたのではないかと思う。佐伯和彦としてではなく、〈長嶺組長のオンナ〉として。
中嶋が、和彦をじっと見据えて答えを待っている。仕方なく口を開こうとしたとき、背後で突然、怒声が響いた。
「うるせーんだよっ、さっきから。酒の飲み方も知らないガキが、こんなところに来るなっ」
さらに、グラスが割れるような音に続いて、女性の小さな悲鳴が上がる。驚いた和彦がピクンと肩を震わせる間に、中嶋はソファから腰を浮かせて振り返っていた。向けられた横顔は鋭い殺気を放っている。〈普通の青年〉という表現をためらう迫力があった。
和彦が一瞬息を呑むと、中嶋はふっと表情を和らげる。
「酔っ払いが、他の客に絡んでいるみたいです。先生、危ないから動かないでください」
「あ、あ……」
「別に……、総和会の仕事を受けたくないわけじゃない。ただ、たまたま君が待機組だったというだけで、いつ怪我をしてもおかしくない環境だから、心配になっただけだ」
「こんな世界にいて、甘いですね、先生は。ただ俺は、先生の甘さが大好きですよ。きっとこれは、俺だけの意見じゃないと思いますけど」
「ぼくの甘さに対して、きちんと見返りをくれる男ばかりだからな。損はしてない――と思う」
悪党ぶって言ってはみたが、返ってきたのは、中嶋の楽しげな笑い声だった。
「けっこう、悪辣な世界に染まってきましたね」
「全然、そう思ってないだろ……」
ひとしきり笑ったあと、中嶋がふっと我に返ったように真摯な顔つきとなる。隣のテーブルの客が帰ったところを狙っていたように、実にさりげなく和彦の手に触れてきた。
「――俺が怪我したら、先生が治療してください」
「その前に、怪我をしないよう気をつけることだな」
「ヤクザに、無茶言いますね」
和彦は、重ねられた中嶋の手を軽く握ってやる。
「せっかく、大きな傷跡のないきれいな体をしているんだ。そんな君の体を縫うところは、あまり考えたくないな」
「でも、いつかは現実になるかもしれない」
「……そうなったら、せめて箔がつくように、立派な縫い跡を作ってやる」
従業員がやってきて、隣のテーブルを片付け始めたので、二人は何事もなかったように手を離す。
我ながら不埒だなと思うが、中嶋との会話も、ささやかな肌の触れ合いも、適度に気分を高揚させられて心地いい。妖しい胸のざわつきを覚えながらも、反面、強い肉欲を意識するまでには至らない。
和彦は深い吐息を洩らして夜景に視線を向ける。さきほどより雨の降りが強くなってきたようで、ますます景色が霞んで見える。
ガラスを伝って流れ落ちる水滴に見入っていると、背後からにぎやかな歓声が上がる。いかにも学生らしいグループが盛り上がっているようだが、だからといって不快というほどではない。むしろ、物騒な会話を交わしているという後ろ暗さを感じなくて済み、ありがたいぐらいだ。
中嶋も同じ感想を持っているのか、ガラスに反射して映るハンサムな顔には機嫌よさそうな笑みが浮かんでいた。その中嶋が、唐突に問いかけてくる。
「――そういえば先生、南郷さんと何かありましたか?」
完全に虚をつかれた和彦は目を見開く。思わず隣を見ると、いつの間にか中嶋は、したたかで食えない男の顔となっていた。普通の青年の顔をしているから騙されそうになるが、中嶋の中身は、たっぷりの野心を抱え持つ切れ者のヤクザだ。
よりによって、南郷の話題を持ち出してくるとは――。
心地よい酩酊感に浸りかけていたところを、強引に現実に引き戻された気がして、和彦はつい顔をしかめる。それがますます、中嶋の好奇心を刺激したらしい。肘掛けにしなだれかかるようにして、和彦に身を寄せてきた。
「何かあったという顔ですね」
「……どうして、そう思うんだ」
「南郷さんが、俺に聞いてきたんですよ。先生は、どんな人間なのかって」
和彦は、一昨日の夜の出来事を嫌でも思い出す。総和会からの仕事だということで、三田村との逢瀬の途中にもかかわらず慌しく部屋を出て、迎えの車に乗り込んだまではよかったが、なぜか南郷も同乗していたのだ。
露骨に性的なことを言われはしたが、それも最初だけで、南郷はすぐに黙り込んでしまった。和彦が極端に、警戒と拒絶の態度を示したせいかもしれないが、今にして、自分は値踏みされていたのではないかと思う。佐伯和彦としてではなく、〈長嶺組長のオンナ〉として。
中嶋が、和彦をじっと見据えて答えを待っている。仕方なく口を開こうとしたとき、背後で突然、怒声が響いた。
「うるせーんだよっ、さっきから。酒の飲み方も知らないガキが、こんなところに来るなっ」
さらに、グラスが割れるような音に続いて、女性の小さな悲鳴が上がる。驚いた和彦がピクンと肩を震わせる間に、中嶋はソファから腰を浮かせて振り返っていた。向けられた横顔は鋭い殺気を放っている。〈普通の青年〉という表現をためらう迫力があった。
和彦が一瞬息を呑むと、中嶋はふっと表情を和らげる。
「酔っ払いが、他の客に絡んでいるみたいです。先生、危ないから動かないでください」
「あ、あ……」
37
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。

男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。
インテリヤクザは子守りができない
タタミ
BL
とある事件で大学を中退した初瀬岳は、極道の道へ進みわずか5年で兼城組の若頭にまで上り詰めていた。
冷酷非道なやり口で出世したものの不必要に凄惨な報復を繰り返した結果、組長から『人間味を学べ』という名目で組のシマで立ちんぼをしていた少年・皆木冬馬の教育を任されてしまう。
なんでも性接待で物事を進めようとするバカな冬馬を煙たがっていたが、小学生の頃に親に捨てられ字もろくに読めないとわかると、徐々に同情という名の情を抱くようになり……──
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる