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第17話
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首を傾げて返事を待つ賢吾の顔をまじまじと見つめてから、とうとう和彦は笑ってしまう。実家を見せられ、なんの嫌がらせかと思ったが、そうではないとわかった。
賢吾は、和彦の心の内を見たかったのだ。今の生活をどう感じているか、和彦が本当に佐伯家を忌避しているかどうか。もちろん、それだけではないだろう。受け取り方によっては、これは恫喝にもなりうる。ヤクザの組長に、実家の場所と状況を把握されているというのは、ある意味で恐怖だ。
賢吾が声をかけ、車が走り出す。実家前を通り過ぎるとき、スモークフィルムの貼られたウィンドー越しに眺めてはみたが、和彦の中で懐かしいという感情が込み上げることはなかった。それどころか、門扉を開けて家族の誰かが姿を現すのではないかと、少し緊張する。
すぐに実家は見えなくなり、肩から力を抜いた和彦はシートに体を預ける。賢吾は何も言わず、再び手を握り締めてくれた。
賢吾にとって、〈仕事で出かけるついで〉に和彦をドライブに誘うというのは、単なる口実だったのだろう。
書類に目を通したところで和彦は視線を上げ、テーブルの向かいに座っている賢吾を見る。スーツから、ラフなセーター姿へと着替えは済ませてはいるものの、やっていることは、仕事だ。さきほどから膝の上にノートパソコンを置き、熱心に何か読んでいるかと思えば、ときおり携帯電話で、和彦の知らない案件について誰かと話している。
その様子から、賢吾が決して暇を持て余しているわけではないとわかる。それでも午前中いっぱいを使って和彦を外に連れ出してくれた。賢吾なりに、クリニック開業までの労をねぎらってくれたと考えるほうが自然だ。
再び書類に視線を落として署名をしていると、なんの前触れもなく賢吾が言葉を発した。
「――結果としてよかったかもな」
驚いて顔を上げた和彦が見たのは、賢吾が携帯電話の電源を切っているところだった。どうやら、もう仕事の電話をする気はないらしい。
「えっ……?」
「クリニック開業祝いの約束を、オヤジに取られたことだ。おかげでこうして、先生とゆっくりできる」
「ぼくの休みを潰しただろ」
「どうせ先生は、放っておいたら寝室と書斎しか行き来しないだろ。俺が連れ出して、やっと休みらしくなったんだ」
勝手な言い分だと思ったが、あながち間違ってもいないので、反論できない。それに、本宅で過ごす時間は嫌いではなかった。
和彦は鼻先を掠める香りに気づき、視線をある方向に向ける。応接間の一角には、華やかなスペースができていた。クリニックの開業祝いに贈られた胡蝶蘭たちだ。寒さも直射日光も避けられる場所が、長嶺の本宅にはたくさんある。その一つが、この応接間というわけだ。
和彦も組員から育て方を聞いて、恐る恐る鉢の一つの世話を始めたところだった。
書類すべてに署名を終えると、賢吾が組員にコーヒーを運ばせてくる。書類をまとめてテーブルの隅に置いた和彦は、さっそくコーヒーにミルクを注いだ。
「先生、明日もクリニックは休みなんだから、本宅に泊まっていったらどうだ」
さりげなく賢吾に切り出され、コーヒーを混ぜた和彦はちらりと視線を上げる。返事は決まっているとばかりに、賢吾は薄い笑みを浮かべていた。
「……ついこの間、たっぷり世話になったばかりだと思うんだが……」
「いいじゃねーか。うちの連中も、先生を気に入ってるんだ。メシを食わせたり、花の世話を教えたりしてな。男所帯のこの家も、先生がいるだけで空気が柔らかくなる」
「男のぼくが加わっても、男所帯に変わりはないだろ」
ぼそっと指摘すると、賢吾は機嫌よさそうに声を上げて笑う。和彦はそんな賢吾につられるように、笑みをこぼしていた。
こうしてのんびりと過ごしていると、つい数時間前に実家を見たという現実が、どこか夢の出来事のように感じられる。もっとも、家族と出くわしでもしていたら、こんなふうに落ち着いてはいられなかっただろう。
ただ、いつまでも佐伯家と音信不通のままではいられない。
和彦は、思わず賢吾にこう問いかけた。
「ぼくはこの先、実家とどう接していけばいいんだろう……」
「先生と佐伯家次第だ。互いに干渉しないという要望が合致すれば、円満に過ごせる。衝突するなら――そうだな、俺の養子になるか? そうすれば先生は、佐伯の人間でなくなる」
咄嗟に反応できない和彦に対して、賢吾はニヤリと笑いかけてくる。
「俺は大歓迎だぞ」
慎重に賢吾の表情をうかがい、とりあえず冗談だと判断した和彦は、苦笑しつつ応じた。
「千尋と、長嶺組の後継者争いをするつもりはないな」
「ほお、そういう切り返しできたか」
賢吾は、和彦の心の内を見たかったのだ。今の生活をどう感じているか、和彦が本当に佐伯家を忌避しているかどうか。もちろん、それだけではないだろう。受け取り方によっては、これは恫喝にもなりうる。ヤクザの組長に、実家の場所と状況を把握されているというのは、ある意味で恐怖だ。
賢吾が声をかけ、車が走り出す。実家前を通り過ぎるとき、スモークフィルムの貼られたウィンドー越しに眺めてはみたが、和彦の中で懐かしいという感情が込み上げることはなかった。それどころか、門扉を開けて家族の誰かが姿を現すのではないかと、少し緊張する。
すぐに実家は見えなくなり、肩から力を抜いた和彦はシートに体を預ける。賢吾は何も言わず、再び手を握り締めてくれた。
賢吾にとって、〈仕事で出かけるついで〉に和彦をドライブに誘うというのは、単なる口実だったのだろう。
書類に目を通したところで和彦は視線を上げ、テーブルの向かいに座っている賢吾を見る。スーツから、ラフなセーター姿へと着替えは済ませてはいるものの、やっていることは、仕事だ。さきほどから膝の上にノートパソコンを置き、熱心に何か読んでいるかと思えば、ときおり携帯電話で、和彦の知らない案件について誰かと話している。
その様子から、賢吾が決して暇を持て余しているわけではないとわかる。それでも午前中いっぱいを使って和彦を外に連れ出してくれた。賢吾なりに、クリニック開業までの労をねぎらってくれたと考えるほうが自然だ。
再び書類に視線を落として署名をしていると、なんの前触れもなく賢吾が言葉を発した。
「――結果としてよかったかもな」
驚いて顔を上げた和彦が見たのは、賢吾が携帯電話の電源を切っているところだった。どうやら、もう仕事の電話をする気はないらしい。
「えっ……?」
「クリニック開業祝いの約束を、オヤジに取られたことだ。おかげでこうして、先生とゆっくりできる」
「ぼくの休みを潰しただろ」
「どうせ先生は、放っておいたら寝室と書斎しか行き来しないだろ。俺が連れ出して、やっと休みらしくなったんだ」
勝手な言い分だと思ったが、あながち間違ってもいないので、反論できない。それに、本宅で過ごす時間は嫌いではなかった。
和彦は鼻先を掠める香りに気づき、視線をある方向に向ける。応接間の一角には、華やかなスペースができていた。クリニックの開業祝いに贈られた胡蝶蘭たちだ。寒さも直射日光も避けられる場所が、長嶺の本宅にはたくさんある。その一つが、この応接間というわけだ。
和彦も組員から育て方を聞いて、恐る恐る鉢の一つの世話を始めたところだった。
書類すべてに署名を終えると、賢吾が組員にコーヒーを運ばせてくる。書類をまとめてテーブルの隅に置いた和彦は、さっそくコーヒーにミルクを注いだ。
「先生、明日もクリニックは休みなんだから、本宅に泊まっていったらどうだ」
さりげなく賢吾に切り出され、コーヒーを混ぜた和彦はちらりと視線を上げる。返事は決まっているとばかりに、賢吾は薄い笑みを浮かべていた。
「……ついこの間、たっぷり世話になったばかりだと思うんだが……」
「いいじゃねーか。うちの連中も、先生を気に入ってるんだ。メシを食わせたり、花の世話を教えたりしてな。男所帯のこの家も、先生がいるだけで空気が柔らかくなる」
「男のぼくが加わっても、男所帯に変わりはないだろ」
ぼそっと指摘すると、賢吾は機嫌よさそうに声を上げて笑う。和彦はそんな賢吾につられるように、笑みをこぼしていた。
こうしてのんびりと過ごしていると、つい数時間前に実家を見たという現実が、どこか夢の出来事のように感じられる。もっとも、家族と出くわしでもしていたら、こんなふうに落ち着いてはいられなかっただろう。
ただ、いつまでも佐伯家と音信不通のままではいられない。
和彦は、思わず賢吾にこう問いかけた。
「ぼくはこの先、実家とどう接していけばいいんだろう……」
「先生と佐伯家次第だ。互いに干渉しないという要望が合致すれば、円満に過ごせる。衝突するなら――そうだな、俺の養子になるか? そうすれば先生は、佐伯の人間でなくなる」
咄嗟に反応できない和彦に対して、賢吾はニヤリと笑いかけてくる。
「俺は大歓迎だぞ」
慎重に賢吾の表情をうかがい、とりあえず冗談だと判断した和彦は、苦笑しつつ応じた。
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「ほお、そういう切り返しできたか」
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