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第17話
(16)
しおりを挟む 和彦の質問に対する答えは、不自然な沈黙だった。もともと緊張感が漂っていた車内の空気が凍りついたような気がして、和彦は息を詰める。
「――……昔から知っていると言えば知っているが、決して知り合いじゃない。長嶺組長は、特別だ。長嶺組を継ぐために作られたサラブレッドみたいなもので、俺のようなチンピラ上がりは、総和会の肩書きを背負ってようやく、新年のお目通りが叶ったぐらいだ」
南郷の言葉から暗い情念のようなものを感じ取り、和彦は小さく身震いする。あからさまにヤクザであることを匂わせる粗暴そうな男は、中身はさらに荒々しい嵐を秘めているようで、不気味だ。
会話を続ける気力が完全に萎えてしまい、とうとう和彦は、シートにぐったりと体を預ける。守光と夕食をともにしただけでも大きな出来事だが、なんといっても今日は、クリニック経営者としての生活が始まった日でもあるのだ。
めまぐるしい一日を思い返すだけで、眩暈がしてくる。
前髪に指を差し込み、顔を仰向かせて一度は目を閉じた和彦だが、シートに座り直したときに、何げなくバックミラーを見る。そこに映る南郷の目を見た途端、和彦は寒気を感じた。
南郷の目が、笑っているように見えたのだ。ただ笑っているだけではなく、暗く冷たいものを感じさせ、見るものを不安な気持ちにさせる。
和彦は本能的に伏せた視線を、もう上げることはできなかった。
「――このマンションだったな」
しばらく続いた沈黙を、南郷が破る。ハッとして顔を上げた和彦は、車が自宅マンション前に停まっていることを知る。
ふっと肩から力を抜き、頷いた。
「はい。ありがとうございました」
傍らに置いたマフラーを取り上げて和彦がドアを開けようとすると、勢いよく南郷が車を降り、和彦より先に後部座席のドアを開けた。獣のように荒々しく素早い行動に、和彦はただ圧倒され、南郷を見上げる。
訝しむように和彦を見下ろした南郷は、何を思ったのか、まるで淑女を気遣うように大きな片手を差し出してきた。南郷にとって、長嶺組長の〈オンナ〉とは性別に関係なく、こういう扱いをするものだという思い込みがあるらしい。
「いえ、大丈夫ですっ……」
和彦はわずかに体を熱くしながら車を降りる。南郷の顔をまともに見ないまま頭を下げ、急いで立ち去ろうとしたが、すかさず腕を掴まれ、あっと思ったときには車に体を押しつけられた。
突然のことに声も出せない和彦は、大きく目を見開く。南郷は、手荒な行動とは裏腹に、静かな表情で和彦を見つめていた。
こんなときに限って、マンション前には人はおろか、車すら通りかからない。
南郷の大きく分厚い手が眼前に迫ってくる。絞め殺されるかもしれないと、本気で危機を感じた和彦だが、仮にも総和会に身を置く男がそんなことをするはずもない。
南郷の手は、和彦の首ではなく、両頬にかかった。
「これが、長嶺組長のオンナ……」
和彦の顔を覗き込みながら、ぽつりと南郷が呟く。淡々とした声の響きにゾッとして、和彦は手を押し退けようとしたが、がっちりと頬を挟み込んで動かない。それどころか南郷は、体を寄せてきた。
「一人の女とは一度しか寝ないと言われている男が、はめ込んでまで手に入れたのが、堅気の色男だと聞いたときは、何事かと思ったんだが。……そうか。これが、長嶺の怖い男たちと相性のいいオンナ、なんだな」
南郷は逞しく硬い体だけでなく、顔まで間近に寄せてくる。しかし和彦が気になるのは、頬から首へと移動する手の感触だった。両目に凶暴さを潜ませている男の行動が、和彦には読めない。
声が出せず、体は強張る。自分の足で立っているという感覚すら危うくなっていると、ようやく走ってくる車のエンジン音が聞こえてきた。だが南郷は動じない。
和彦は絶望感に襲われそうになったが、ヘッドライトのまばゆい明かりに照らされ、一瞬目が眩む。その間に車が二人の側で停まり、声をかけられた。
「――警察だ。こんなところで何をやってる」
緊迫感に欠けた皮肉っぽい口調にこんなにも安堵感を覚えるのは、もちろん初めてだった。ようやく自分を取り戻せた和彦は、必死に南郷を睨みつける。余裕たっぷりの笑みを唇に浮かべて、南郷はやっと体を離した。
「部屋まで送っていこうか、先生?」
「けっこう……です。ここで」
「残念だ。長嶺組長は、自分のオンナをどんな部屋に囲っているのか、興味があったんだが」
そう言って南郷は車に乗り込もうとしたが、ふと動きを止める。そして、いつの間にか和彦の傍らに立った男――鷹津に話しかけた。
「お宅、本当に警察か?」
「手帳を見せてやるし、なんなら、警察署まで来るか? 意外にサービスがいいんだぜ。特に今は、組関係の人間にはな」
「――……昔から知っていると言えば知っているが、決して知り合いじゃない。長嶺組長は、特別だ。長嶺組を継ぐために作られたサラブレッドみたいなもので、俺のようなチンピラ上がりは、総和会の肩書きを背負ってようやく、新年のお目通りが叶ったぐらいだ」
南郷の言葉から暗い情念のようなものを感じ取り、和彦は小さく身震いする。あからさまにヤクザであることを匂わせる粗暴そうな男は、中身はさらに荒々しい嵐を秘めているようで、不気味だ。
会話を続ける気力が完全に萎えてしまい、とうとう和彦は、シートにぐったりと体を預ける。守光と夕食をともにしただけでも大きな出来事だが、なんといっても今日は、クリニック経営者としての生活が始まった日でもあるのだ。
めまぐるしい一日を思い返すだけで、眩暈がしてくる。
前髪に指を差し込み、顔を仰向かせて一度は目を閉じた和彦だが、シートに座り直したときに、何げなくバックミラーを見る。そこに映る南郷の目を見た途端、和彦は寒気を感じた。
南郷の目が、笑っているように見えたのだ。ただ笑っているだけではなく、暗く冷たいものを感じさせ、見るものを不安な気持ちにさせる。
和彦は本能的に伏せた視線を、もう上げることはできなかった。
「――このマンションだったな」
しばらく続いた沈黙を、南郷が破る。ハッとして顔を上げた和彦は、車が自宅マンション前に停まっていることを知る。
ふっと肩から力を抜き、頷いた。
「はい。ありがとうございました」
傍らに置いたマフラーを取り上げて和彦がドアを開けようとすると、勢いよく南郷が車を降り、和彦より先に後部座席のドアを開けた。獣のように荒々しく素早い行動に、和彦はただ圧倒され、南郷を見上げる。
訝しむように和彦を見下ろした南郷は、何を思ったのか、まるで淑女を気遣うように大きな片手を差し出してきた。南郷にとって、長嶺組長の〈オンナ〉とは性別に関係なく、こういう扱いをするものだという思い込みがあるらしい。
「いえ、大丈夫ですっ……」
和彦はわずかに体を熱くしながら車を降りる。南郷の顔をまともに見ないまま頭を下げ、急いで立ち去ろうとしたが、すかさず腕を掴まれ、あっと思ったときには車に体を押しつけられた。
突然のことに声も出せない和彦は、大きく目を見開く。南郷は、手荒な行動とは裏腹に、静かな表情で和彦を見つめていた。
こんなときに限って、マンション前には人はおろか、車すら通りかからない。
南郷の大きく分厚い手が眼前に迫ってくる。絞め殺されるかもしれないと、本気で危機を感じた和彦だが、仮にも総和会に身を置く男がそんなことをするはずもない。
南郷の手は、和彦の首ではなく、両頬にかかった。
「これが、長嶺組長のオンナ……」
和彦の顔を覗き込みながら、ぽつりと南郷が呟く。淡々とした声の響きにゾッとして、和彦は手を押し退けようとしたが、がっちりと頬を挟み込んで動かない。それどころか南郷は、体を寄せてきた。
「一人の女とは一度しか寝ないと言われている男が、はめ込んでまで手に入れたのが、堅気の色男だと聞いたときは、何事かと思ったんだが。……そうか。これが、長嶺の怖い男たちと相性のいいオンナ、なんだな」
南郷は逞しく硬い体だけでなく、顔まで間近に寄せてくる。しかし和彦が気になるのは、頬から首へと移動する手の感触だった。両目に凶暴さを潜ませている男の行動が、和彦には読めない。
声が出せず、体は強張る。自分の足で立っているという感覚すら危うくなっていると、ようやく走ってくる車のエンジン音が聞こえてきた。だが南郷は動じない。
和彦は絶望感に襲われそうになったが、ヘッドライトのまばゆい明かりに照らされ、一瞬目が眩む。その間に車が二人の側で停まり、声をかけられた。
「――警察だ。こんなところで何をやってる」
緊迫感に欠けた皮肉っぽい口調にこんなにも安堵感を覚えるのは、もちろん初めてだった。ようやく自分を取り戻せた和彦は、必死に南郷を睨みつける。余裕たっぷりの笑みを唇に浮かべて、南郷はやっと体を離した。
「部屋まで送っていこうか、先生?」
「けっこう……です。ここで」
「残念だ。長嶺組長は、自分のオンナをどんな部屋に囲っているのか、興味があったんだが」
そう言って南郷は車に乗り込もうとしたが、ふと動きを止める。そして、いつの間にか和彦の傍らに立った男――鷹津に話しかけた。
「お宅、本当に警察か?」
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