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第17話
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クリニックの掃除はスタッフたちが行ってくれたため、カルテをまとめ終えた和彦に残された仕事は、実はさほど残っていない。
和彦はゆっくりと窓のほうに視線を向ける。夕方とはいえ、外はすでに薄暗い。座ったばかりだが、なんとなく気が急いてしまい、和彦は緩慢な動作で立ち上がる。
実は今晩、開業祝いという名目で、長嶺の本宅で夕食をとることになっていた。
帰り支度を整えた和彦は、護衛の組員にこれから降りることを伝えて、クリニックの電気を消す。
いつもの手順通り、ビルから少し離れた場所まで歩き、あとから追いついた車に乗り込む。すぐに車が走り出すと、忘れないうちに組員に頼んでおく。
「夜、人気がなくなってから、クリニックの玄関横に置いてある花を持ち出してくれないか。数が多すぎて、ぼく一人じゃ運べないんだ」
「わかりました。それで、花はどちらに運びましょうか」
「一応、本宅に。ぼくもいくつか引き取るけど、花の世話なんて、ほとんどやったことがないんだ。枯らせると、贈ってくれた人物と花に申し訳ないが、だからといって全部人任せなのも心苦しいしな」
「組に、庭いじりが得意な奴がいるんで、手入れの仕方を教えてもらうといいですよ。わたしから言っておきますから」
他愛ないともいえる会話を交わし、このまま車は長嶺の本宅に向かうはずだった。だが車は、いつもなら曲がる道をまっすぐに進む。
その理由を、和彦が問いかける前に組員が告げた。
「――先生、今晩の予定が変更になりました。本宅ではなく、料亭で祝いの席を設けることになったと、さきほど連絡が入りました。これから、その料亭にお連れします」
「そう、なのか……。別に、普段通りでよかったのに」
賢吾の気まぐれに振り回されるのはいつものことで、和彦は特に違和感を覚えることもなく、シートに体を預ける。
移動の間に、外はすっかり暗くなっていた。
開業初日で気が張っていたせいもあり、さほど忙しかったわけでもないのに疲労感が体に溜まっている。そのせいか、車のライトが延々と続いている光景を目で追っていると、眠気を誘われる。
やはり本宅のほうで過ごしたかったなと、ぼんやりと和彦は思う。すっかり気心が知れた男たちに囲まれて過ごすほうが、寛げる。外で美味しいものを食べさせてくれる気持ちは、もちろんありがたいのだが。
取り留めなくそんなことを考え、必死に眠気と戦っている間にも、車はにぎやかな街中を抜け、静かな通りへと入る。そこからさらに細い路地へと進む。
どこまで行くのだろうかと思ったが、尋ねるまでもなかった。正面を見つめていた和彦は無意識のうちに背筋を伸ばす。車のライトが照らす先に、料亭らしき門構えと、その前にスーツ姿の男たち数人が立っていたからだ。明らかに、護衛を務める者特有の物腰だった。門の向こうに護るべき人物がいて、男たちは不審者に備えているのだ。
「もしかして……」
和彦が口を開くと、ハンドルを握る組員が頷く。
「あの店です。別の者が座敷まで先生を案内しますから、従ってください」
「わかった」
料亭の前に車が停まり、すでに待機していた男の一人が素早くドアを開けてくれる。ここで和彦は、男が長嶺組の組員でないことに気づく。見たことのない顔だ。
一体何事かと思いながらも、和彦を乗せてきた車はあっという間に走り去ってしまい、尋ねる暇もない。仕方なく、促されるまま門をくぐり、意外にこじんまりとした料亭へと入る。
賢吾とともに外食をするとき、護衛はつくものの他の客と同じ空間で、料理やアルコールを味わうだけでなく、雰囲気やざわめきすらも楽しむことが多いのだが、どうやら今晩は違うらしい。
コートとマフラーを腕にかけ、美しい日本庭園を眺めつつ廊下を歩いていた和彦だが、かつて中嶋に〈接待〉を受けたときのことを思い出し、つい苦笑を洩らす。その場には、今も月に一度のペースで顔を合わせている藤倉もいた。あのときも、今晩のように突然、料亭に連れてこられて困惑したのだ。
表からは想像もできなかったが、中に足を踏み入れると、この料亭も十分に立派だとわかる。
まるで、人目を避ける隠れ家のような造りだ――。
こう感じた瞬間、和彦は全身を駆け抜けるような緊張を覚えた。あることが脳裏を過り、瞬く間に手足が冷たくなる。
緊張の理由は、考えるまでもなかった。ある座敷に通されて襖が開けられると、目の前に存在していたからだ。
長嶺守光が寛いだ様子で座椅子に座り、柔らかな眼差しを和彦に向けていた。
和彦はゆっくりと窓のほうに視線を向ける。夕方とはいえ、外はすでに薄暗い。座ったばかりだが、なんとなく気が急いてしまい、和彦は緩慢な動作で立ち上がる。
実は今晩、開業祝いという名目で、長嶺の本宅で夕食をとることになっていた。
帰り支度を整えた和彦は、護衛の組員にこれから降りることを伝えて、クリニックの電気を消す。
いつもの手順通り、ビルから少し離れた場所まで歩き、あとから追いついた車に乗り込む。すぐに車が走り出すと、忘れないうちに組員に頼んでおく。
「夜、人気がなくなってから、クリニックの玄関横に置いてある花を持ち出してくれないか。数が多すぎて、ぼく一人じゃ運べないんだ」
「わかりました。それで、花はどちらに運びましょうか」
「一応、本宅に。ぼくもいくつか引き取るけど、花の世話なんて、ほとんどやったことがないんだ。枯らせると、贈ってくれた人物と花に申し訳ないが、だからといって全部人任せなのも心苦しいしな」
「組に、庭いじりが得意な奴がいるんで、手入れの仕方を教えてもらうといいですよ。わたしから言っておきますから」
他愛ないともいえる会話を交わし、このまま車は長嶺の本宅に向かうはずだった。だが車は、いつもなら曲がる道をまっすぐに進む。
その理由を、和彦が問いかける前に組員が告げた。
「――先生、今晩の予定が変更になりました。本宅ではなく、料亭で祝いの席を設けることになったと、さきほど連絡が入りました。これから、その料亭にお連れします」
「そう、なのか……。別に、普段通りでよかったのに」
賢吾の気まぐれに振り回されるのはいつものことで、和彦は特に違和感を覚えることもなく、シートに体を預ける。
移動の間に、外はすっかり暗くなっていた。
開業初日で気が張っていたせいもあり、さほど忙しかったわけでもないのに疲労感が体に溜まっている。そのせいか、車のライトが延々と続いている光景を目で追っていると、眠気を誘われる。
やはり本宅のほうで過ごしたかったなと、ぼんやりと和彦は思う。すっかり気心が知れた男たちに囲まれて過ごすほうが、寛げる。外で美味しいものを食べさせてくれる気持ちは、もちろんありがたいのだが。
取り留めなくそんなことを考え、必死に眠気と戦っている間にも、車はにぎやかな街中を抜け、静かな通りへと入る。そこからさらに細い路地へと進む。
どこまで行くのだろうかと思ったが、尋ねるまでもなかった。正面を見つめていた和彦は無意識のうちに背筋を伸ばす。車のライトが照らす先に、料亭らしき門構えと、その前にスーツ姿の男たち数人が立っていたからだ。明らかに、護衛を務める者特有の物腰だった。門の向こうに護るべき人物がいて、男たちは不審者に備えているのだ。
「もしかして……」
和彦が口を開くと、ハンドルを握る組員が頷く。
「あの店です。別の者が座敷まで先生を案内しますから、従ってください」
「わかった」
料亭の前に車が停まり、すでに待機していた男の一人が素早くドアを開けてくれる。ここで和彦は、男が長嶺組の組員でないことに気づく。見たことのない顔だ。
一体何事かと思いながらも、和彦を乗せてきた車はあっという間に走り去ってしまい、尋ねる暇もない。仕方なく、促されるまま門をくぐり、意外にこじんまりとした料亭へと入る。
賢吾とともに外食をするとき、護衛はつくものの他の客と同じ空間で、料理やアルコールを味わうだけでなく、雰囲気やざわめきすらも楽しむことが多いのだが、どうやら今晩は違うらしい。
コートとマフラーを腕にかけ、美しい日本庭園を眺めつつ廊下を歩いていた和彦だが、かつて中嶋に〈接待〉を受けたときのことを思い出し、つい苦笑を洩らす。その場には、今も月に一度のペースで顔を合わせている藤倉もいた。あのときも、今晩のように突然、料亭に連れてこられて困惑したのだ。
表からは想像もできなかったが、中に足を踏み入れると、この料亭も十分に立派だとわかる。
まるで、人目を避ける隠れ家のような造りだ――。
こう感じた瞬間、和彦は全身を駆け抜けるような緊張を覚えた。あることが脳裏を過り、瞬く間に手足が冷たくなる。
緊張の理由は、考えるまでもなかった。ある座敷に通されて襖が開けられると、目の前に存在していたからだ。
長嶺守光が寛いだ様子で座椅子に座り、柔らかな眼差しを和彦に向けていた。
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