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第17話
(11)
しおりを挟む池田クリニックは、静かに地味に開業日を迎えた。
初日ぐらい、エレベーターホールから玄関まで、花輪で飾り立てたらどうかと言われ、実際、花輪を贈りたがる人間が何人かいたのだが、すべてありがたく断らせてもらった。
クリニック開業の事情が事情なので、あまり派手なことはしたくない。そう、もっともらしく説明した和彦だが、本当の理由は別にある。千尋から、ヤクザの特性というものを教えられ、怖くなったからだ。
千尋いわく、見栄を張り、面子を保つのも仕事だというヤクザは、とにかくめでたい行事で張り切る性分があり、祝いの品も祝い金も、とにかく他人より目立とうとする。そこに、長嶺組長のオンナの歓心を得ようという目的が加われば、どれだけ派手なことになるか――。
それを聞いた和彦は本気で震え上がり、目立つことは困ると、賢吾に頼み込んだのだ。ニヤニヤと笑って和彦の言い分を聞いていた賢吾だが、しっかり他の組に根回しをしてくれ、おかげで花輪を贈られることはなかった。
ただそれでも、なんらかの形で祝いの気持ちを示したいという申し出があって、賢吾の面子を立てる意味もあり、そこは和彦は折れた。
その〈結果〉が、待合室に溢れている。
「……ちょっとした花屋だ……」
羽織った白衣のポケットに手を突っ込み、和彦がぽつりと洩らすと、受付カウンターに入っている女性スタッフが苦笑を洩らす。
「すごいですね、この花。花の香りで酔いそうです」
そう言われるのも無理はない。朝から次々と配達されてきた胡蝶蘭や洋蘭といった鉢物が、待合室を華やかに彩っているのだ。ユリやバラのアレンジメントは、テーブルや受付カウンターに飾らせてもらったが、自己主張の強い花々は、申し訳ないが、壁際に並べて置いてある。
花輪を贈れない代わりに、豪華な花で埋め合わせを、ということなのだろう。ありがたいが、この花たちをあとでどうしようかと考えると、今から頭が痛い。いくつかはスタッフに持ち帰ってもらうとして、残りすべてを和彦が世話するわけにもいかない。
開業初日だというのに、こんなことで悩むのはのん気だと言えるが、今のところ和彦は暇だった。まだ、患者が一人も訪れないのだ。
美容外科クリニックに急患が駆け込んでくるはずもなく、また、完全予約制を取っているうえに、積極的な広告を出していないとなれば、こんなものだろう。かつて勤めていた大手クリニックでの忙しさを知っていると落ち着かないが、どっしりと構えている立場に慣れるしかない。
待合室でうろうろしていても仕方ないため、診察室に戻ろうとしたとき、軽やかな音楽が響き渡った。出入り口のドアが開閉されるたびに鳴るよう設定したのだ。
待合室にひょっこりと姿を見せたのは、由香だった。今日はいつもと雰囲気が違い、落ち着いた印象のワンピース姿で、一見すると、品行方正な女子大生に見える。和彦と目が合うと、小さなバッグを持つ手をぶんぶんと振った。
「先生、開業おめでとうっ」
笑みをこぼした和彦は、由香に歩み寄る。
「ありがとう。まさか本当に、君がこのクリニックの患者第一号になってくれるとは思っていなかったよ」
「だって、ずっと待ってたんだよ。先生に診てもらおうと思って」
そう言って由香が、自分の目を指さす。二重瞼にすることをまだ諦めていない由香から、和彦はこれまで何度も相談を受けている。由香の身元引受人ともいえる難波も、簡単な手術ということで、渋々、〈愛人〉のわがままを許したようだ。
「あっ、それと、これは差し入れ。スタッフの人たちと食べてね」
差し出された紙袋を反射的に受け取った和彦は、中を覗き込む。どうやらお菓子の詰め合わせが入っているようだ。
「悪いね、患者さんとして来てくれたのに、気をつかってもらって」
「大したことじゃないよ。先生にはこれから、わたしの美容分野での主治医として、お世話になるんだから」
「……それは責任重大だ」
ひとまず由香を受付に案内して、問診表を書き込んでもらう。その間に和彦は診察室に向かい、患者を迎え入れる心の準備をする。
ようやく、〈自分の〉クリニックでの仕事が始まるのだ。
脱いだ白衣を傍らに置いた和彦は、ソファの背もたれに思いきり体を預ける。
すでにスタッフたちは帰ったあとで、クリニックには和彦以外の人の姿はない。だからこそ遠慮なく、待合室で気が抜ける。
開業初日は、数人の患者のカウンセリングに終始した。美容外科の仕事の進め方としては、こんなものだ。じっくりと患者の悩みや要望を聞き、どういう施術が最適なのかを考える。実際に手術や処置に踏み切る人もいれば、思い留まる人もいるため、クリニックとしての採算が見込めるようになるまでは、まだ先だろう。
それまで和彦は、不慣れなクリニック経営者の立場を、試行錯誤しながら堪能するというわけだ。
ただ、そうはいいながらも、気持ちに多少の余裕はある。強力な後ろ盾のおかげだ。
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