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第17話
(8)
しおりを挟む久しぶりにウェイトマシンを使ったため、全身から汗が噴き出してくる。年末年始は慌しく動き回っていたが、車を使っての移動が主だったため、すっかり体が鈍っていたようだ。
足を投げ出すようにしてイスに腰掛けた和彦は、首筋を伝い落ちる汗を拭う。体を動かしている間は気持ちいいほど無心になれるのだが、こうして休憩を取ると、すぐに頭の中は、考え事でいっぱいになる。
思わずぼんやりとしてしまったが、前髪から汗のしずくが落ち、頬に当たる。タオルで乱雑に顔を拭いていると、突然、声をかけられた。
「――先生、機嫌が悪そうですね」
既視感が和彦を襲い、数瞬の間を置いて、甘い眩暈にも見舞われた。
既視感の原因はわかっている。ほんの二時間ほど前、秦から同じような言葉をかけられたのだ。
手を止めた和彦が顔を上げると、目の前に中嶋が立っていた。このとき、いままでにない反応として、甘苦しい感覚が胸に広がる。そこに羞恥と困惑も加わり、和彦は笑いかけることに失敗した。
「そうか……? 自覚はないんだが」
「なんだかイライラしているように見えたんです」
そう応じて、当然のように中嶋が隣に腰掛ける。こちらも十分に体を動かしたところらしく、汗の匂いがする。いつもなら意識しないのだが、同じ匂いをベッドの上で嗅いだのかと思うと、体がさらに熱くなる。
自分と中嶋の関係は大きく変わったのだと、嫌でも実感していた。
「……忙しくて、考えることが多すぎるんだ――と、だったらジムで遊んでいていいのか、なんて言うなよ」
「言いませんよ。なんといっても、人目を気にせず、堂々と先生と親しくできる場所ですから」
事実なのだが、中嶋が言うと意味深だ。それとも、和彦があれこれと考えすぎなのかもしれない。
前はもっと気楽に話せていたのだが、感覚がすっかり狂ってしまった。
汗で濡れた髪を掻き上げて、和彦は立ち上がる。すかさず中嶋が問いかけてきた。
「今日はもう終わりですか?」
「ああ。年が明けて初めて来たけど、少し飛ばしすぎたらしい。……疲れた」
「だったら俺も上がります。もともと今日は、体を動かすのが目的というより、先生に会えるかと思って来たようなものです」
「――……いろいろあったからな」
「ええ、ありましたから」
悪びれた様子もなく答える中嶋をまじまじと見つめて、ようやく和彦は笑うことができる。いいか悪いかはともかく、中嶋はいつも通りだ。中身は切れ者のヤクザでありながら、それをうかがわせない普通の青年の顔をしている。親しげでありながら、馴れ馴れしくはない、これまで通りの距離感を保ってくれている。
中嶋とともに更衣室に向かいながら和彦は、いまさら隠しておくことでもないと考え、ジムの前に秦と会っていたことを告げる。少し身構えてはいたのだが、中嶋はあっさりと頷いた。
「知ってます。秦さんからメールが来ましたよ。今さっきまで先生に会っていて、怒られていた、と」
怒ってないだろ、と心の中で反論してから、和彦はため息交じりに言った。
「……いつの間に、そういう些細なことまで連絡し合う仲になったんだ」
「先生は大事な存在ですから。先生が絡んでいながら、『些細なこと』なんてありませんよ。俺たちにとっては大事なことです」
「だとしたら、秦に、ぼくとのことを――……」
さきほど秦と会って多少きわどい話はしたものの、実は和彦は、中嶋との間にあった出来事について、詳しくは言っていない。口にするのが恥ずかしいというより、最低限の〈慎み〉の問題だ。
幸運にも中嶋は、和彦と多少なりと似通った感覚を持ち合わせているらしい。向けられた横顔に、淡い照れのようなものがうかがえた。
「具体的なことは何も……。でも、察しているんじゃないですか。なんといっても、秦さんですから」
「ああ、あの男ならな」
「我ながら、現金だと思うんですよ。先生相手に何もかもぶちまけて、弱みも晒してしまったら、秦さんへの女々しい感情から解放されて楽になれたというか。――いままでとは、まったく別の生き物に生まれ変わった気持ちです」
それはきっと物騒な生き物だろうなと、中嶋から寄越された流し目の妖しさに、胸のざわつきを覚えながら和彦は思う。
ぎこちなく視線を逸らして考えることは、この先、中嶋とはどうやってつき合えばいいのだろうかということだ。とにかく中嶋との関係は複雑で、接し方が難しい。自分の中でどう位置づけていいのか、こうして言葉を交わしながらも和彦は戸惑っていた。
「――なんだか面倒なことになった、と言いたげな顔ですね」
おもしろがるような口調で中嶋に言われ、誤魔化す気にもなれなかった。
「まったくだ。……だけど、自分が原因でもあるしな」
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