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第16話
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ハッとして顔を上げると、大きく分厚い手が眼前に迫っていた。何が起こっているのか理解できず、ただ本能的に危険を感じて体が硬直する。それをいいことに、南郷が和彦の髪を撫でてきた。
和彦の運転手を兼ねている総和会の組員は、扉の前に立ってこちらに背を向けているため、何が起こっているか気づいていないようだ。仮に何か感じていても、南郷のような男が背後に立っていては気をつかい、振り返るのをためらうだろう。
たった一声上げればいいはずなのに、和彦は唇を動かすことすらできなかった。南郷の手つきが無造作で、次の瞬間には髪を鷲掴まれ、引き抜かれそうで怖かったのだ。このときになって和彦は、自分がひどく痛みに弱い人間であることを思い出していた。痛みを予期しただけで、体が動かなくなる。
長い時間のように思われたが、実際はあっという間に、エレベーターが二階に到着する。何事もなかったように南郷の手が髪から離れた。
素早くエレベーターから降りた組員が、扉を押さえる。悠然とした足取りで南郷が続こうとして、ふと何かを思い出したように和彦を振り返った。そして、獣が牙を向くような笑みを浮かべて言った。
「――俺の大好きな匂いがしてるな、先生。いまどきヤクザでも、そんなに血の匂いをさせてないぜ」
そんな言葉を残し、南郷は歩いて行ってしまい、再びエレベーターに乗り込んだ組員がボタンを押す。和彦は足元から崩れ込みそうになり、エレベーターの壁にもたれかかっていた。
少し早めの夕食を外で済ませた和彦は、部屋に戻る頃には疲労と眠気でふらふらになっていた。正月ぼけに浸っていたところに、午前中だけとはいえクリニックでスタッフたちと研修を行ったあと、総和会からの仕事をこなしたのだ。
それに、ヤクザに絡まれた――。
シャワーを浴びたあと、髪も乾かさないままベッドに潜り込み、ぽつりと心の中で呟く。
長嶺組の専属医であり、長嶺組長の〈オンナ〉という和彦の立場を知っていながら、南郷は揶揄してきた。和彦に嫌悪や好奇の目を向けてくる人間は、裏を返せば、長嶺組を恐れてもいるのだが、南郷にはそれがなかった。
長嶺組という看板に守られている和彦は、エレベーターの中で南郷に話しかけられたとき、ひどく不安だった。その理由が、今ならわかる。
長嶺組を恐れない男の前では、自分があまりに無防備で、危険を避けようとする本能が働いたのだ。
力があるのは長嶺組の男たちで、和彦自身ではない。頭ではわかっていても、あまりに周囲の男たちから大事にされ、少し浮かれていたのかもしれない。
「――……やっぱり、ヤクザは怖いな……」
声に出して呟いて、苦々しく唇を歪める。
カーテンを開けたままの窓から夕日が差し込む。眠るには明るすぎる気もするが、もう起き上がるのも億劫で、そのまま毛布に包まって一眠りしようとする。
すぐにウトウトとし始めた和彦は、インターホンの音に驚き、大きく肩を震わせた。思わず体を起こしはしたものの、夢と現実の区別がつかない。半分寝ぼけた状態で所在なく室内を見回してから、再び横になろうとする。すると、今度こそはっきりと、インターホンの音が耳に届いた。
こんな時間に――と言いたいところだが、まだ夕方だ。来訪者を責めるのは酷だろう。
今日はもう、組員は来ないはずだがと思いながら、ベッドから下りた和彦は寝室を出る。
「はい――……」
インターホンに出た和彦は、画面に映っている人物を見て目を見開く。怖いほど真剣な顔をした中嶋だった。
『突然押しかけて、すみません。話したいことがあるんです。部屋に上がらせてもらってもいいですか?』
何事かと思ったが、インターホン越しに問いかけるわけにもいかない。和彦はエントランスのロックを解除した。
部屋にやってきた中嶋は、和彦の顔を見るなり、ちらりと笑みをこぼした。
「先生もしかして、寝てました?」
頭を指さされたので、慌てて髪を撫でる。濡れ髪のままベッドに潜り込んだため、ぐしゃぐしゃになっている。
「疲れたから、少し横になってたんだ。……入ってくれ」
中嶋をリビングに通した和彦は、すぐにキッチンに向かう。
湯を沸かしながらカップの準備をしていると、中嶋はダイニングにやってきた。
「すぐにコーヒーを淹れるから、座って待っていて――」
「お構いなく。ただ、俺の質問に答えてくれれば、それでいいんです」
和彦は、じっと中嶋を見つめる。やはり、と思った。普通の青年の顔をした中嶋は、今も〈女〉を感じさせる。猜疑心と苛立ちと――揺れる気持ちが入り混じり、自分自身で扱いかねているのか、どこか苦しげだ。
「……なんだ」
「先生は、秦さんと寝てるんですか」
和彦の運転手を兼ねている総和会の組員は、扉の前に立ってこちらに背を向けているため、何が起こっているか気づいていないようだ。仮に何か感じていても、南郷のような男が背後に立っていては気をつかい、振り返るのをためらうだろう。
たった一声上げればいいはずなのに、和彦は唇を動かすことすらできなかった。南郷の手つきが無造作で、次の瞬間には髪を鷲掴まれ、引き抜かれそうで怖かったのだ。このときになって和彦は、自分がひどく痛みに弱い人間であることを思い出していた。痛みを予期しただけで、体が動かなくなる。
長い時間のように思われたが、実際はあっという間に、エレベーターが二階に到着する。何事もなかったように南郷の手が髪から離れた。
素早くエレベーターから降りた組員が、扉を押さえる。悠然とした足取りで南郷が続こうとして、ふと何かを思い出したように和彦を振り返った。そして、獣が牙を向くような笑みを浮かべて言った。
「――俺の大好きな匂いがしてるな、先生。いまどきヤクザでも、そんなに血の匂いをさせてないぜ」
そんな言葉を残し、南郷は歩いて行ってしまい、再びエレベーターに乗り込んだ組員がボタンを押す。和彦は足元から崩れ込みそうになり、エレベーターの壁にもたれかかっていた。
少し早めの夕食を外で済ませた和彦は、部屋に戻る頃には疲労と眠気でふらふらになっていた。正月ぼけに浸っていたところに、午前中だけとはいえクリニックでスタッフたちと研修を行ったあと、総和会からの仕事をこなしたのだ。
それに、ヤクザに絡まれた――。
シャワーを浴びたあと、髪も乾かさないままベッドに潜り込み、ぽつりと心の中で呟く。
長嶺組の専属医であり、長嶺組長の〈オンナ〉という和彦の立場を知っていながら、南郷は揶揄してきた。和彦に嫌悪や好奇の目を向けてくる人間は、裏を返せば、長嶺組を恐れてもいるのだが、南郷にはそれがなかった。
長嶺組という看板に守られている和彦は、エレベーターの中で南郷に話しかけられたとき、ひどく不安だった。その理由が、今ならわかる。
長嶺組を恐れない男の前では、自分があまりに無防備で、危険を避けようとする本能が働いたのだ。
力があるのは長嶺組の男たちで、和彦自身ではない。頭ではわかっていても、あまりに周囲の男たちから大事にされ、少し浮かれていたのかもしれない。
「――……やっぱり、ヤクザは怖いな……」
声に出して呟いて、苦々しく唇を歪める。
カーテンを開けたままの窓から夕日が差し込む。眠るには明るすぎる気もするが、もう起き上がるのも億劫で、そのまま毛布に包まって一眠りしようとする。
すぐにウトウトとし始めた和彦は、インターホンの音に驚き、大きく肩を震わせた。思わず体を起こしはしたものの、夢と現実の区別がつかない。半分寝ぼけた状態で所在なく室内を見回してから、再び横になろうとする。すると、今度こそはっきりと、インターホンの音が耳に届いた。
こんな時間に――と言いたいところだが、まだ夕方だ。来訪者を責めるのは酷だろう。
今日はもう、組員は来ないはずだがと思いながら、ベッドから下りた和彦は寝室を出る。
「はい――……」
インターホンに出た和彦は、画面に映っている人物を見て目を見開く。怖いほど真剣な顔をした中嶋だった。
『突然押しかけて、すみません。話したいことがあるんです。部屋に上がらせてもらってもいいですか?』
何事かと思ったが、インターホン越しに問いかけるわけにもいかない。和彦はエントランスのロックを解除した。
部屋にやってきた中嶋は、和彦の顔を見るなり、ちらりと笑みをこぼした。
「先生もしかして、寝てました?」
頭を指さされたので、慌てて髪を撫でる。濡れ髪のままベッドに潜り込んだため、ぐしゃぐしゃになっている。
「疲れたから、少し横になってたんだ。……入ってくれ」
中嶋をリビングに通した和彦は、すぐにキッチンに向かう。
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「すぐにコーヒーを淹れるから、座って待っていて――」
「お構いなく。ただ、俺の質問に答えてくれれば、それでいいんです」
和彦は、じっと中嶋を見つめる。やはり、と思った。普通の青年の顔をした中嶋は、今も〈女〉を感じさせる。猜疑心と苛立ちと――揺れる気持ちが入り混じり、自分自身で扱いかねているのか、どこか苦しげだ。
「……なんだ」
「先生は、秦さんと寝てるんですか」
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