320 / 1,268
第16話
(13)
しおりを挟む
千尋か護衛の組員がいれば、無防備すぎると怒るかもしれないが、人目もあるこの場所で、何かあるとも思えない。しかも相手は見るからに、紳士然としているのだ。和彦としては、こんな相手を警戒する理由がない。
男性は、満足そうに頷いたあと、再び口を開く。
「最近は、興味のあることだけはしっかり覚えているが、仕事に関することは、周りにいる若い連中に覚えてもらうようにしている。そのほうが、間違いがない」
男性の口ぶりから、経営者なのだろうと見当をつける。その読みが外れていないことを裏付けるように、男性は続けた。
「使える人手が増えたせいで、自分で考えることが少なくなった。わしが一言何か言えば、周りが考えて、お膳立てまでしてくれる。楽だが、目端が利く連中に囲まれていると、箸の上げ下ろしまで観察されているようで、ときどき居心地が悪くなる。だから、自分のことを知らない相手と、こうして気楽に話せると、ほっとする」
少しだけ自分の今の状況に似ているなと思い、和彦はほろ苦い表情を浮かべる。すると男性が、訝しむように眉をひそめた。
「どうかしたかね?」
「あっ、いえ――。ぼくはある仕事をしていて、今月、開業するんです。なんというか……いいスポンサーに巡り合えて、何から何まで面倒を見てもらえて、まさにぼくの状況こそ、お膳立てをしてもらっているという表現がぴったりくると思って」
「それはすごい。若くて才能のある人間が、そういう幸運を手に入れられるのは、いいことだ」
「そうでしょうか……」
「スポンサーというからには、何かしらの見返りを期待されているのだろうが、あんたが満たされることで、あんたを盛り立てる人間も満たされる。そう思うことで、人間も環境も循環する。利害で結びつくことは、何も悪いことばかりじゃない。結びつくなりに、相手の希望を叶えてやろうと努力はするわけだから。そうしないと、自分の希望は叶えてもらえない。まあ、世の中、善人ばかりじゃないんだがね」
自分と、自分を取り巻く男たちの状況を分析されたようだった。和彦は、まばたきも忘れて男性を見つめる。男性は、運ばれてきた紅茶に一杯だけ砂糖を入れて掻き混ぜると、美味しそうに一口啜った。が、すぐにカップを置き、和彦をまっすぐ見据えてきた。
冷徹で静かな目だった。激しい感情を表に出さなくても、この眼差しを向けられるだけで、気圧される。一喝されたように萎縮してしまう。
普通の人間なら何も感じないのかもしれないが、和彦は違った。数え切れないほど、物騒な男たちの、怖い眼差しに晒されてきたからこそ、恐れを抱く。
息を詰め、体を強張らせる和彦に対して、男性は温厚な表情を見せた。ただし鋭い眼差しは、微塵も揺るがない。
「こうして偉そうにしているが、元々わしは、家業を親から受け継いだ。何代も続いている古臭い家業だ。跡継ぎに望まれるのは、その家業を、自分の次の跡継ぎに無難に継がせることだった。下手を打たなければ、この希望を叶えるのは簡単だ。――あんたはこのことを、どう思う?」
唐突な問いかけを、和彦は自分の実家に当てはめて考える。親からの希望をすべて受け継いでいるのは兄の英俊で、和彦には、何もない。いや、一つだけ望まれたことがあった。
腹の中が冷たくなるような怒りが湧き起こり、同時に、男性の眼差しに対する恐れも消えた。
「……つまらないと思うんです。受け継いだものを、ただそのまま、あとに残すだけというのは。その作業のためだけに自分が存在して、単なる道具になったようで……」
ここで和彦は我に返り、慌てて頭を下げる。
「すみません。失礼なことを言ってしまって」
「いや、あんたと同じことを、わしも感じた。だから行動した。家業なんぞ潰してもかまわんというつもりで、いろんなことをしたよ。その結果――」
「その結果?」
思わず身を乗り出した和彦の目を食い入るように見つめたあと、男性は笑った。人を食らう笑みだった。
和彦は、こんな笑みを浮かべる男を、もう一人知っている。そしてあと一人、将来浮かべそうな青年のことも。
「近いうちに、わしの家に遊びに来るといい。あんたと、もっと話をしてみたい」
「えっ……」
男性から右手を差し出され、見えない力に操られるように和彦はその手を握り返す。ドキリとするほど冷たくて、硬い手だった。
握手を交わしてすぐに男性は立ち上がる。その動作にぎこちなさはなく、それどころか杖を掴むと、足を引きずることなく大股で歩き出した。
唖然として見送る和彦は、さらに異様な光景を目にすることになる。男性が歩き始めると同時に、周囲のテーブルに座っていた男性客たちも一斉に立ち上がったのだ。そこからの動きは見事だった。さりげなく、男性を守るように周囲を囲んでしまい、その姿はあっという間にティーラウンジから見えなくなる。
和彦が目を見開いたまま動けないでいると、すぐに千尋がやってきた。和彦の様子を見るなり、申し訳なさそうな顔で頭を掻く。その表情で、すべて理解した。
「――……あれは、お前の祖父だな」
「長嶺守光。今の総和会会長で、俺のじいちゃん」
一気に体の力が抜け、和彦はぐったりとソファにもたれかかる。今になって、手が小刻みに震えてきた。
「どうして、ここに……」
「仰々しくじいちゃんの家に招待したって、先生、嫌がるし、緊張するだろ? だからまず最初に、じいちゃんがどんな人間なのか、接して知ってもらうのが先だと思って。あっ、これ、長嶺の男たちの総意ね。あの杖は、小道具としては……先生には有効だったのかな。見事に、じいちゃんのナンパに引っかかってたよね」
完全に、ハメられた。長嶺の男たちの目論見どおり、何も知らない和彦は、自然体で長嶺守光と接触し、会話を交わした。
自分は何を言っただろうかと思い返そうとするのだが、動揺のため、思考はただ空回りする。一人でうろたえる和彦を、正面のソファに腰掛けた千尋が楽しげに眺めている。
なんだか悔しくなった和彦は、千尋に身を乗り出させると、きれいにセットしてある髪をくしゃくしゃに掻き乱すという、子供のような八つ当たりをする。千尋は首をすくめて、楽しげな笑い声を上げた。
屈託なく笑う青年が、さきほど話した男の孫なのかと思うと、和彦は少しだけ複雑な心境になる。
長嶺の姓を背負った男とはどういうものなのか、また一つ現実を見せられた気がしたからだ。
男性は、満足そうに頷いたあと、再び口を開く。
「最近は、興味のあることだけはしっかり覚えているが、仕事に関することは、周りにいる若い連中に覚えてもらうようにしている。そのほうが、間違いがない」
男性の口ぶりから、経営者なのだろうと見当をつける。その読みが外れていないことを裏付けるように、男性は続けた。
「使える人手が増えたせいで、自分で考えることが少なくなった。わしが一言何か言えば、周りが考えて、お膳立てまでしてくれる。楽だが、目端が利く連中に囲まれていると、箸の上げ下ろしまで観察されているようで、ときどき居心地が悪くなる。だから、自分のことを知らない相手と、こうして気楽に話せると、ほっとする」
少しだけ自分の今の状況に似ているなと思い、和彦はほろ苦い表情を浮かべる。すると男性が、訝しむように眉をひそめた。
「どうかしたかね?」
「あっ、いえ――。ぼくはある仕事をしていて、今月、開業するんです。なんというか……いいスポンサーに巡り合えて、何から何まで面倒を見てもらえて、まさにぼくの状況こそ、お膳立てをしてもらっているという表現がぴったりくると思って」
「それはすごい。若くて才能のある人間が、そういう幸運を手に入れられるのは、いいことだ」
「そうでしょうか……」
「スポンサーというからには、何かしらの見返りを期待されているのだろうが、あんたが満たされることで、あんたを盛り立てる人間も満たされる。そう思うことで、人間も環境も循環する。利害で結びつくことは、何も悪いことばかりじゃない。結びつくなりに、相手の希望を叶えてやろうと努力はするわけだから。そうしないと、自分の希望は叶えてもらえない。まあ、世の中、善人ばかりじゃないんだがね」
自分と、自分を取り巻く男たちの状況を分析されたようだった。和彦は、まばたきも忘れて男性を見つめる。男性は、運ばれてきた紅茶に一杯だけ砂糖を入れて掻き混ぜると、美味しそうに一口啜った。が、すぐにカップを置き、和彦をまっすぐ見据えてきた。
冷徹で静かな目だった。激しい感情を表に出さなくても、この眼差しを向けられるだけで、気圧される。一喝されたように萎縮してしまう。
普通の人間なら何も感じないのかもしれないが、和彦は違った。数え切れないほど、物騒な男たちの、怖い眼差しに晒されてきたからこそ、恐れを抱く。
息を詰め、体を強張らせる和彦に対して、男性は温厚な表情を見せた。ただし鋭い眼差しは、微塵も揺るがない。
「こうして偉そうにしているが、元々わしは、家業を親から受け継いだ。何代も続いている古臭い家業だ。跡継ぎに望まれるのは、その家業を、自分の次の跡継ぎに無難に継がせることだった。下手を打たなければ、この希望を叶えるのは簡単だ。――あんたはこのことを、どう思う?」
唐突な問いかけを、和彦は自分の実家に当てはめて考える。親からの希望をすべて受け継いでいるのは兄の英俊で、和彦には、何もない。いや、一つだけ望まれたことがあった。
腹の中が冷たくなるような怒りが湧き起こり、同時に、男性の眼差しに対する恐れも消えた。
「……つまらないと思うんです。受け継いだものを、ただそのまま、あとに残すだけというのは。その作業のためだけに自分が存在して、単なる道具になったようで……」
ここで和彦は我に返り、慌てて頭を下げる。
「すみません。失礼なことを言ってしまって」
「いや、あんたと同じことを、わしも感じた。だから行動した。家業なんぞ潰してもかまわんというつもりで、いろんなことをしたよ。その結果――」
「その結果?」
思わず身を乗り出した和彦の目を食い入るように見つめたあと、男性は笑った。人を食らう笑みだった。
和彦は、こんな笑みを浮かべる男を、もう一人知っている。そしてあと一人、将来浮かべそうな青年のことも。
「近いうちに、わしの家に遊びに来るといい。あんたと、もっと話をしてみたい」
「えっ……」
男性から右手を差し出され、見えない力に操られるように和彦はその手を握り返す。ドキリとするほど冷たくて、硬い手だった。
握手を交わしてすぐに男性は立ち上がる。その動作にぎこちなさはなく、それどころか杖を掴むと、足を引きずることなく大股で歩き出した。
唖然として見送る和彦は、さらに異様な光景を目にすることになる。男性が歩き始めると同時に、周囲のテーブルに座っていた男性客たちも一斉に立ち上がったのだ。そこからの動きは見事だった。さりげなく、男性を守るように周囲を囲んでしまい、その姿はあっという間にティーラウンジから見えなくなる。
和彦が目を見開いたまま動けないでいると、すぐに千尋がやってきた。和彦の様子を見るなり、申し訳なさそうな顔で頭を掻く。その表情で、すべて理解した。
「――……あれは、お前の祖父だな」
「長嶺守光。今の総和会会長で、俺のじいちゃん」
一気に体の力が抜け、和彦はぐったりとソファにもたれかかる。今になって、手が小刻みに震えてきた。
「どうして、ここに……」
「仰々しくじいちゃんの家に招待したって、先生、嫌がるし、緊張するだろ? だからまず最初に、じいちゃんがどんな人間なのか、接して知ってもらうのが先だと思って。あっ、これ、長嶺の男たちの総意ね。あの杖は、小道具としては……先生には有効だったのかな。見事に、じいちゃんのナンパに引っかかってたよね」
完全に、ハメられた。長嶺の男たちの目論見どおり、何も知らない和彦は、自然体で長嶺守光と接触し、会話を交わした。
自分は何を言っただろうかと思い返そうとするのだが、動揺のため、思考はただ空回りする。一人でうろたえる和彦を、正面のソファに腰掛けた千尋が楽しげに眺めている。
なんだか悔しくなった和彦は、千尋に身を乗り出させると、きれいにセットしてある髪をくしゃくしゃに掻き乱すという、子供のような八つ当たりをする。千尋は首をすくめて、楽しげな笑い声を上げた。
屈託なく笑う青年が、さきほど話した男の孫なのかと思うと、和彦は少しだけ複雑な心境になる。
長嶺の姓を背負った男とはどういうものなのか、また一つ現実を見せられた気がしたからだ。
39
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…



塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる