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第16話
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「そんな顔するな。別に怒ってないし、息抜きに連れてきてくれて感謝しているんだ。ぼくならここで、コーヒーを飲みながらのんびり待っているから、気にせず自分の仕事をしてこい」
ほっとしたような表情を浮かべた千尋だが、次の瞬間には、こんな可愛げのないことを言った。
「……なんか、先生を一人残しておくと、悪い男に連れ去られそうで心配だなー」
「余計なことを言わずに、さっさと行け」
犬を追い払うように手を振ると、千尋は何度も振り返りながらティーラウンジを出ていく。ロビーで待機していた三人の組員を連れて姿が見えなくなると、和彦は慎重に周囲をうかがってから、背もたれに思いきり体を預ける。
まさかとは思ったが、長嶺組の組員の姿はなかった。つまり千尋が全員引き連れていき、和彦には誰も護衛がついていないということだ。
珍しいこともあるものだと思った和彦だが、心細さはなかった。ここでじっとしている限り和彦の身は安全だと、組員たちが判断したのだろう。こういうときは、プロの判断に任せたほうがいい。
もちろん和彦としては、護衛がいない状況でのんびりできるという思惑もあった。
こんな場所で一人でコーヒーを飲むのは、表の世界にいる頃は当たり前のことだったのだ。
ずいぶん違い世界にやってきたものだと、改めて実感していると、コーヒーが運ばれてくる。さっそく一口啜ってから、再び周囲に視線を向ける。
まだまだ正月休みの人も多いだろう。ティーラウンジから正面玄関を見ることができるのだが、ひっきりなしに旅行カバンを持った人たちが出入りしている。楽しげな家族連れやカップルの様子を眺めていると、つい和彦の表情は柔らかくなる。
このとき和彦の背後を、人が通り過ぎる気配がした。同時に、特徴のある足音が聞こえ、反射的に振り返る。カジュアルな服装ながらも品のよさそうな物腰の男性が、杖をつき、慎重な足取りで歩いていた。左足が悪いようだ。
あまり見つめても不躾なので、一度はカップに視線を落とした和彦だが、男性が隣のテーブルについたため、また気になってしまう。
斜め前に座った男性の顔を、はっきりと見ることができた。きれいな白髪から想像はついたが、六十代半ばから後半のようだ。顔には、思慮深さの表れのようなシワが刻まれてはいるものの、肌には張りがある。それに、痩身で上背のある体は、鋼の剣でも内包しているかのような強靭さを感じさせた。持っている空気がどことなく鋭いせいかもしれない。
紳士、という単語が和彦の脳裏を過り、それが違和感なく、隣のテーブルにつこうとしている男性に当てはまった。
左足を庇うようにして、少しぎこちない動きでソファに腰掛けた男性が、ふとこちらを見る。露骨に視線を逸らすのも失礼で、和彦は軽く会釈をした。これで、テーブルが隣り合った者同士のやり取りは終わるはずだったのだが――。
重々しい音を立て、男性が傍らに置こうとした杖が床に落ちる。咄嗟に和彦は立ち上がり、杖を拾って男性に手渡した。
「――ありがとう」
外見からは想像もつかない、太く艶のある声に、一瞬驚いた。和彦は小さく笑みを浮かべて、もう一度会釈をすると、自分のテーブルに戻る。
ただこの瞬間から、和彦と男性の間に繋がりのようなものが芽生えていた。見知らぬ他人が集う場所で、ささやかな接触を持ったせいだ。
どうやら同じものを、男性も和彦に感じてくれたらしい。ごく自然な流れで、二人は会話を交わしていた。
「孫と待ち合わせをしているんだが、どうも年寄りには、こういう場所は身の置き場がなくていかん……」
「ぼくは、友人を待っているところなんです。いつやってくるかわからないので、こうしてコーヒーを飲みながら、時間を潰そうと思って」
「そこを、おしゃべりなジジイに捕まったというわけかね」
最初に受けたイメージとは違って、男性はずいぶん砕けた口調で話す。しかも、冗談っぽくニヤリと笑いかけてくる表情は、ずいぶん魅力的だ。
整った目鼻立ちが誰かに似ているなと、ふと和彦は思った。まばたきもせず、じっと見つめていると、和彦の視線に気づいたのか、紅茶を注文した男性がまた笑いかけてくる。
「何か?」
「いえ……。どこかで、お会いしたことがないかと思って」
咄嗟に出た台詞の陳腐さに、内心で和彦は苦笑を洩らす。だが、目の前の男性に感じる親近感は否定できない。
「多分、今日会ったのが初めてだと思うが。まあ、わしの記憶力ほどあてにはならんものはないな」
ここで男性に手招きされ、すぐには意味がわかりかねた和彦だが、テーブルを移らないかと誘われているのだと気づく。断る理由もなく、また、同じテーブルのほうが話もしやすいため、カップと伝票を手に男性のテーブルに移る。
ほっとしたような表情を浮かべた千尋だが、次の瞬間には、こんな可愛げのないことを言った。
「……なんか、先生を一人残しておくと、悪い男に連れ去られそうで心配だなー」
「余計なことを言わずに、さっさと行け」
犬を追い払うように手を振ると、千尋は何度も振り返りながらティーラウンジを出ていく。ロビーで待機していた三人の組員を連れて姿が見えなくなると、和彦は慎重に周囲をうかがってから、背もたれに思いきり体を預ける。
まさかとは思ったが、長嶺組の組員の姿はなかった。つまり千尋が全員引き連れていき、和彦には誰も護衛がついていないということだ。
珍しいこともあるものだと思った和彦だが、心細さはなかった。ここでじっとしている限り和彦の身は安全だと、組員たちが判断したのだろう。こういうときは、プロの判断に任せたほうがいい。
もちろん和彦としては、護衛がいない状況でのんびりできるという思惑もあった。
こんな場所で一人でコーヒーを飲むのは、表の世界にいる頃は当たり前のことだったのだ。
ずいぶん違い世界にやってきたものだと、改めて実感していると、コーヒーが運ばれてくる。さっそく一口啜ってから、再び周囲に視線を向ける。
まだまだ正月休みの人も多いだろう。ティーラウンジから正面玄関を見ることができるのだが、ひっきりなしに旅行カバンを持った人たちが出入りしている。楽しげな家族連れやカップルの様子を眺めていると、つい和彦の表情は柔らかくなる。
このとき和彦の背後を、人が通り過ぎる気配がした。同時に、特徴のある足音が聞こえ、反射的に振り返る。カジュアルな服装ながらも品のよさそうな物腰の男性が、杖をつき、慎重な足取りで歩いていた。左足が悪いようだ。
あまり見つめても不躾なので、一度はカップに視線を落とした和彦だが、男性が隣のテーブルについたため、また気になってしまう。
斜め前に座った男性の顔を、はっきりと見ることができた。きれいな白髪から想像はついたが、六十代半ばから後半のようだ。顔には、思慮深さの表れのようなシワが刻まれてはいるものの、肌には張りがある。それに、痩身で上背のある体は、鋼の剣でも内包しているかのような強靭さを感じさせた。持っている空気がどことなく鋭いせいかもしれない。
紳士、という単語が和彦の脳裏を過り、それが違和感なく、隣のテーブルにつこうとしている男性に当てはまった。
左足を庇うようにして、少しぎこちない動きでソファに腰掛けた男性が、ふとこちらを見る。露骨に視線を逸らすのも失礼で、和彦は軽く会釈をした。これで、テーブルが隣り合った者同士のやり取りは終わるはずだったのだが――。
重々しい音を立て、男性が傍らに置こうとした杖が床に落ちる。咄嗟に和彦は立ち上がり、杖を拾って男性に手渡した。
「――ありがとう」
外見からは想像もつかない、太く艶のある声に、一瞬驚いた。和彦は小さく笑みを浮かべて、もう一度会釈をすると、自分のテーブルに戻る。
ただこの瞬間から、和彦と男性の間に繋がりのようなものが芽生えていた。見知らぬ他人が集う場所で、ささやかな接触を持ったせいだ。
どうやら同じものを、男性も和彦に感じてくれたらしい。ごく自然な流れで、二人は会話を交わしていた。
「孫と待ち合わせをしているんだが、どうも年寄りには、こういう場所は身の置き場がなくていかん……」
「ぼくは、友人を待っているところなんです。いつやってくるかわからないので、こうしてコーヒーを飲みながら、時間を潰そうと思って」
「そこを、おしゃべりなジジイに捕まったというわけかね」
最初に受けたイメージとは違って、男性はずいぶん砕けた口調で話す。しかも、冗談っぽくニヤリと笑いかけてくる表情は、ずいぶん魅力的だ。
整った目鼻立ちが誰かに似ているなと、ふと和彦は思った。まばたきもせず、じっと見つめていると、和彦の視線に気づいたのか、紅茶を注文した男性がまた笑いかけてくる。
「何か?」
「いえ……。どこかで、お会いしたことがないかと思って」
咄嗟に出た台詞の陳腐さに、内心で和彦は苦笑を洩らす。だが、目の前の男性に感じる親近感は否定できない。
「多分、今日会ったのが初めてだと思うが。まあ、わしの記憶力ほどあてにはならんものはないな」
ここで男性に手招きされ、すぐには意味がわかりかねた和彦だが、テーブルを移らないかと誘われているのだと気づく。断る理由もなく、また、同じテーブルのほうが話もしやすいため、カップと伝票を手に男性のテーブルに移る。
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