血と束縛と

北川とも

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第15話

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 察するものがあり、和彦は反射的に立ち上がろうとしたが、遅かった。中嶋に腕を掴まれて引っ張られる。
「おいっ……」
「先生は、俺を慰めるのが得意でしょう」
「いつ、そうなった」
「先日、先生に慰めてもらったときに」
 悪びれた様子もない中嶋を睨みつけた和彦だが、本気で怒るつもりはない。こういう甘さを、中嶋に――ヤクザに見透かされてしまっているのだから、勝ち目があるはずもなかった。
 空になったペットボトルを傍らに置くと、待っていたように中嶋に抱き寄せられる。和彦はおとなしく中嶋の両腕の中に閉じ込められながら、どうしよう、と心の中で呟いた。
 中嶋が嫌な男であれば、大声を出すなり、抵抗するのは簡単なのだ。しかし中嶋は、少なくとも和彦の前では、そんな面は見せない。それどころか、ひどく危うい部分を見せ、放っておけない。自戒していたつもりだが、中嶋と秦の事情に深入りしすぎたのだ。
「……そこまで思い詰めるぐらいなら、自分の気持ちを素直に言ったらどうだ」
「俺がふざけてキスをしたぐらいで、避けられているのに? 俺が本気だと知ったら、逃げられますよ」
「秦は、逃げたりしない」
 中嶋に捻くれた欲情を抱いている男が、そんなことをするはずがなかった。むしろ、避けられた中嶋が困惑し、懊悩する姿を楽しんでいると考えるほうが、しっくりくる。あの男は、そういう性癖の持ち主だ。
 追い詰められた中嶋が理性をかなぐり捨て、動物のようにがむしゃらになる瞬間を待っていたとしても不思議ではない。
 秦の一面を知ってしまうと、そう勘繰りたくもなる。
「ずいぶん、秦さんのことを知っているようですね」
 ふいにそんなことを言われ、和彦は我に返る。寸前まで健気なことを言っていた中嶋は、今はしたたかなヤクザの顔をしていた。
 眼差しの鋭さに、冷たい刃の先を喉元に突きつけられたようだ。
「ぼくはあの男と、友人同士じゃない。だからこそ、君が知らない面を見ることもあるんだ」
「――先生は普段、秦さんのことを呼び捨てにしているんですね」
 中嶋の言葉に、ねっとりと頬を撫でられたような気がした。
 やはり中嶋は、秦が絡むときだけ、〈女〉を感じさせる。そして和彦は、気圧されていた。
 当然の権利のように中嶋に唇を塞がれても、何もできなかった。
 痛いほど強く唇を吸われ、舌が口腔にねじ込まれてくる。これまで交わした中嶋とのキスは二回とも、穏やかで丁寧だった。だが今は、とにかく必死で乱暴だ。
 嫉妬の感情をぶつけられているのだとわかり、和彦は中嶋の腕の中で軽く身じろぐが、それ以上の力で押さえ込まれる。
 さすがに危機感が芽生えていた。同時に和彦の内に熱い感覚が湧き起こり、小さく身震いする。認めたくないが、覚えのない感覚ではない。
 中嶋とのキスに、初めて欲望の疼きを覚えていた。
 秦からの告白を聞き、愛撫と口づけを与えられたとき、和彦は倒錯した感覚に襲われていた。秦に犯され、悦びに身悶える中嶋の姿を想像して、興奮していたのだ。もしかすると、犯す秦の身になって興奮していたのかもしれないが、もうわからない。
 和彦の中に残っているのは、秦と中嶋の関係に関わることで得る、興奮と快感の余韻だけだ。
「先生?」
 ふいに唇を離した中嶋に呼ばれた和彦は、自分の中の疼きを自覚して、うろたえる。思わず視線を伏せると、そんな和彦に何かを刺激されたように、中嶋がまた唇を寄せてくる。和彦は顔を背けようとしたが、簡単に唇を塞がれていた。
 熱心に唇を吸われているうちに、和彦の脳裏に秦の言葉が蘇る。伏せていた視線を上げると、中嶋と目が合い、そのまま視線が逸らせなくなった。
 和彦は、中嶋の首の後ろに手をかけると、秦にされたキスを忠実に再現する。今度は中嶋がうろたえた素振りを見せたが、それも一瞬だ。次の瞬間には、和彦のキスに応え始めていた。
「んっ……」
 声を洩らしたのはどちらなのか、わからなかった。舌先を擦り合わせたとき、ゾクゾクするような疼きが和彦の背筋を駆け抜けていったが、同じ感覚を中嶋も味わったのかもしれない。
 互いの唇と舌を吸い合い、口腔をまさぐる。差し出した舌を淫らに絡め合う頃には、和彦はある事実を受け入れていた。
 中嶋とのキスが――というより濃厚な口づけが、気持ちいい。中嶋を感じさせていることが、気持ちいい。
 そう感じたのは和彦だけではなかったようだ。ゆっくりと唇を離した中嶋が、興奮を押し殺したような声で囁いてきた。
「……先生が求められる理由が、わかった気がしますよ。先生を感じさせるのが、すごく楽しいんです。三度目のキスで初めて、先生に欲情しました」
 中嶋が欲情したのは、秦のキスに対してではないかと思ったが、もちろんそんなことを言えるはずもない。和彦と秦が特殊な関係にあることを、中嶋は知らないし、知らせたくもない。
 和彦は努めて冷静なふりをして、こう返した。
「君のキスもなかなかだった」
 声を洩らして笑う中嶋を、和彦はじっと見つめる。ふと真顔となった中嶋にもう一度唇を吸われ、そのまままた口づけに溺れそうになったが、和彦のジャケットのポケットの中で携帯電話が震えて我に返った。駐車場に護衛の組員を待たせたままなのだ。
 電話に出た和彦は、もうすぐクリニックを出ることを告げる。その間に中嶋は立ち上がり、ゴミを袋にまとめてしまう。
「俺は先に帰りますね。明日こそ手伝いますから、連絡ください」
 中嶋に声をかけられ、電話を切った和彦は、多少の気恥ずかしさと気まずさを覚えながら、小さく頷く。
 丁寧に頭を下げて中嶋は立ち去ろうとしたが、思い出したように立ち止まった。
「あっ、そうだ、先生」
「なんだ……」
「長嶺組経由で、先生にワインを送っておきました。俺からのクリスマスプレゼントです」
「なら、お返しをしないと――」
 そう言いかけて和彦は、ドキリとする。つい最近、こんな会話を交わしたことを思い出したのだ。
 交わした相手は、秦だ。
 中嶋は食えないヤクザの顔をして、ニヤリと笑った。
「お返しなんてとんでもない。俺はすでに、先生から〈いいもの〉をもらいましたよ」
 いいクリスマスを、と言い置いて中嶋の姿が見えなくなる。
 和彦はソファに座り直すと、手の甲で唇を軽く擦ってから呟いた。
「――……動きたくない……」
 それでも気力を振り絞って立ち上がり、帰り支度を始める。あれこれと考えるのは、部屋で体を休めながらでも遅くない。
 とにかく今日は、本当に疲れた。

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