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第15話
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忘れていた――というのは失礼な表現だろうが、実は今日まで、自分と中嶋の関係が微妙な状態にあることを、意識していなかった。
中嶋が一瞬、訝しむような眼差しを向けてきたので、気を取り直した和彦は笑みを浮かべる。
「まさか、君が来てくれるとは思っていなかった」
「先生にはお世話になっていますからね。ありがたいことに、先生は、俺には気を許していると思っているみたいなんですよ。うちの組織は」
「そう思われていることに、君は意見しなかったのか?」
「する必要はないでしょう」
悪びれたふうもなく、こんなことを言えるのは、中嶋の特性だ。総和会の中で、自分の価値を高めるためなら、この男は和彦を利用する。そのことを、当の和彦に隠そうともしないから、憎めないのだが。
和彦は軽く肩をすくめる。
「せいぜいぼくとの友情を、高く売ってくれ。君が出世したら、ぼくにもいいことがあるかもしれないから」
「ええ、期待して待っていてください」
二人の会話を、由香は楽しそうに目を輝かせて聞いている。一見して、物騒な世界とは無縁そうな三人だが、和彦は長嶺組、中嶋は総和会、由香は昭政組と深く結びついている。事情を知っている気安さで、うっかり妙なことまで口走りそうだと思い、和彦は一旦この場を離れることにする。
「このイスに座ってくれ。何か欲しいものがあれば、頼んで――」
「大丈夫ですよ、先生。自分でやりますから。先生は他のお客様のお相手をしてください」
中嶋の言葉を受け、他の客の元へと行こうとした和彦は、さりげなく肩越しに振り返る。すでに中嶋は、由香と楽しげに何か話していた。
違和感のないカップルに見えるが、一方はヤクザの組長の年若い愛人で、もう一人は切れ者のヤクザという事実は、ひどく味わい深い。
自分も人のことは言えないが、と和彦が口元に苦い笑みを浮かべたとき、ふと中嶋がこちらを見た。後ろめたさの裏返しだが、中嶋の目に敵意が潜んでいないか探ってしまう。
中嶋の目にあるのは、切れ者のヤクザらしくない揺れる気持ちと、熱っぽさだった。
無事に内覧会を終えた安堵感に、和彦はソファに腰掛けたまま、ぐったりとする。ようやく一人となり、緊張は完全に解けてしまった。
最後の招待客を見送ったあと、スタッフたちに手伝ってもらってクリニックを片付け、来客用に用意したテーブルやイスも、業者によって運び出された。
ただ、内覧会のために移動させた家具をまだ元の位置に戻していないので、待合室はどこか雑然としている。
そろそろ帰ろうと思うのだが、疲れきった体はなかなか動かない。
もう少しこうしていようかと思っていたところに、待合室に入ってくる足音がした。顔を上げると、コンビニの袋を手にした中嶋が立っていた。さすがに驚いた和彦は、姿勢を戻す。
「……帰ったんじゃないのか」
しっかりとクリニックを見学し、どんな施術ができるのかといった質問までぶつけてきた中嶋は、内覧会の招待客としては申し分がなかった。和彦は、ぜひ患者を紹介してくれと冗談交じりに言って、土産を渡して中嶋を見送ったのだが――。
中嶋はニヤリと笑みを見せてから、待合室を見回す。
「片付けを手伝うつもりだったんですけど、少し来るのが遅かったみたいですね」
「その気があるなら、明日来てくれ。清掃業者を入れたあと、待合室を元の状態に戻したいんだ。だけど、組の人間を使うわけにはいかないし……」
「あれっ、俺も組の人間ですけど?」
わざとらしく問いかけられ、和彦はつい笑みをこぼす。ソファに座り直してスペースを空けると、声をかけるまでもなく、中嶋は隣に腰掛けた。
「君は、見た目だけなら好青年だからな。イイ男が出入りするクリニックとして、評判を上げる手伝いをしてくれ」
「――見た目だけですか?」
冗談のようでいて、意外に鋭い問いかけに、和彦は返事に詰まる。そんな和彦を見て、中嶋は唇の端を動かした。皮肉っぽくも、自嘲気味にも見える微妙な表情だ。
中嶋が差し出してきたお茶のペットボトルを受け取る。ありがたいことに、温かい。すでにクリニック内の暖房は切ってしまったため、体が冷えていたのだ。
さらに勧められるまま和彦は肉まんも受け取り、一口食べる。
「美味しい……」
「内覧会の間は忙しくて、ほとんど食べられなかったかと思って。まあ、俺も食べたかっただけなんですが」
そう言って中嶋も肉まんにかぶりつく。
食べている間は、沈黙を意識しなくていい。一人でいたところに中嶋が突然現れ、内心では身構えていた和彦だが、肉まんを食べていると、いくらか肩から力も抜けてくる。
ペットボトルに口をつけながら、吸い寄せられるように中嶋の横顔に視線を向ける。
中嶋が一瞬、訝しむような眼差しを向けてきたので、気を取り直した和彦は笑みを浮かべる。
「まさか、君が来てくれるとは思っていなかった」
「先生にはお世話になっていますからね。ありがたいことに、先生は、俺には気を許していると思っているみたいなんですよ。うちの組織は」
「そう思われていることに、君は意見しなかったのか?」
「する必要はないでしょう」
悪びれたふうもなく、こんなことを言えるのは、中嶋の特性だ。総和会の中で、自分の価値を高めるためなら、この男は和彦を利用する。そのことを、当の和彦に隠そうともしないから、憎めないのだが。
和彦は軽く肩をすくめる。
「せいぜいぼくとの友情を、高く売ってくれ。君が出世したら、ぼくにもいいことがあるかもしれないから」
「ええ、期待して待っていてください」
二人の会話を、由香は楽しそうに目を輝かせて聞いている。一見して、物騒な世界とは無縁そうな三人だが、和彦は長嶺組、中嶋は総和会、由香は昭政組と深く結びついている。事情を知っている気安さで、うっかり妙なことまで口走りそうだと思い、和彦は一旦この場を離れることにする。
「このイスに座ってくれ。何か欲しいものがあれば、頼んで――」
「大丈夫ですよ、先生。自分でやりますから。先生は他のお客様のお相手をしてください」
中嶋の言葉を受け、他の客の元へと行こうとした和彦は、さりげなく肩越しに振り返る。すでに中嶋は、由香と楽しげに何か話していた。
違和感のないカップルに見えるが、一方はヤクザの組長の年若い愛人で、もう一人は切れ者のヤクザという事実は、ひどく味わい深い。
自分も人のことは言えないが、と和彦が口元に苦い笑みを浮かべたとき、ふと中嶋がこちらを見た。後ろめたさの裏返しだが、中嶋の目に敵意が潜んでいないか探ってしまう。
中嶋の目にあるのは、切れ者のヤクザらしくない揺れる気持ちと、熱っぽさだった。
無事に内覧会を終えた安堵感に、和彦はソファに腰掛けたまま、ぐったりとする。ようやく一人となり、緊張は完全に解けてしまった。
最後の招待客を見送ったあと、スタッフたちに手伝ってもらってクリニックを片付け、来客用に用意したテーブルやイスも、業者によって運び出された。
ただ、内覧会のために移動させた家具をまだ元の位置に戻していないので、待合室はどこか雑然としている。
そろそろ帰ろうと思うのだが、疲れきった体はなかなか動かない。
もう少しこうしていようかと思っていたところに、待合室に入ってくる足音がした。顔を上げると、コンビニの袋を手にした中嶋が立っていた。さすがに驚いた和彦は、姿勢を戻す。
「……帰ったんじゃないのか」
しっかりとクリニックを見学し、どんな施術ができるのかといった質問までぶつけてきた中嶋は、内覧会の招待客としては申し分がなかった。和彦は、ぜひ患者を紹介してくれと冗談交じりに言って、土産を渡して中嶋を見送ったのだが――。
中嶋はニヤリと笑みを見せてから、待合室を見回す。
「片付けを手伝うつもりだったんですけど、少し来るのが遅かったみたいですね」
「その気があるなら、明日来てくれ。清掃業者を入れたあと、待合室を元の状態に戻したいんだ。だけど、組の人間を使うわけにはいかないし……」
「あれっ、俺も組の人間ですけど?」
わざとらしく問いかけられ、和彦はつい笑みをこぼす。ソファに座り直してスペースを空けると、声をかけるまでもなく、中嶋は隣に腰掛けた。
「君は、見た目だけなら好青年だからな。イイ男が出入りするクリニックとして、評判を上げる手伝いをしてくれ」
「――見た目だけですか?」
冗談のようでいて、意外に鋭い問いかけに、和彦は返事に詰まる。そんな和彦を見て、中嶋は唇の端を動かした。皮肉っぽくも、自嘲気味にも見える微妙な表情だ。
中嶋が差し出してきたお茶のペットボトルを受け取る。ありがたいことに、温かい。すでにクリニック内の暖房は切ってしまったため、体が冷えていたのだ。
さらに勧められるまま和彦は肉まんも受け取り、一口食べる。
「美味しい……」
「内覧会の間は忙しくて、ほとんど食べられなかったかと思って。まあ、俺も食べたかっただけなんですが」
そう言って中嶋も肉まんにかぶりつく。
食べている間は、沈黙を意識しなくていい。一人でいたところに中嶋が突然現れ、内心では身構えていた和彦だが、肉まんを食べていると、いくらか肩から力も抜けてくる。
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