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第12話
(13)
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「……悪い。本当は行きたいけど、ここ何日か、体調を崩しているんだ。あまり不景気な顔を、友人に見せるのも悪いしな」
『ということは、体調がよくなったら、俺と会ってくれるということか』
「ああ、約束する。美味いランチを奢らせてもらう」
『そういうことなら仕方ない。都合がよくなったら、いつでも連絡してこいよ。――忘れるなよ』
しっかりと釘を刺され、和彦は思わず笑ってしまう。
「大丈夫だ。なんなら、催促のメールをしてくれ」
近いうちに会う約束を交わして電話を切ると、ベッドの上に座り込んだまま、和彦はぼんやりとする。
澤村からの電話を切った瞬間、和彦にとっての日常が戻ってくるのだ。そのギャップに、戸惑っていた。
だがそれも、わずかな間だ。いつまでも寝室にこもっているのも不健康なので、書斎に移動しようかと思ったのだが、床に足を着ける前に、また携帯電話が鳴った。
「――……急に人気者になったな……」
そんなことを独りごちた和彦は、ベッドの上に放り出していた携帯電話を取り上げる。今度の電話は、長嶺組からだった。
これこそ自分の日常に相応しい電話の相手だと、自嘲でもなんでもなく、心底思ってしまう。
『先生、仕事です』
「相手の容態は?」
話を聞きながら和彦は寝室を出て、さっそく出かける準備を始める。
『怪我そのものは大したものじゃないと思います。顔をひどく殴られていて、鼻血がひどい。多分、骨が折れています』
クロゼットからバッグを出していた和彦だが、それを聞いて一旦動きを止める。
「……鼻が潰れた組員なら、何人か見たことがある。あれはあれで、凄みが増していいんじゃないか」
和彦の悪趣味な冗談は通じたらしく、電話の向こうで組員が低く声を洩らして笑う。こういう会話が交わせる程度には、長嶺組に馴染んでいるのだ。
『表で動く組員は、見た目も大事なんですよ。それに――うちの者じゃないんです。診てもらいたいのは。総和会から回ってきた仕事です』
なるほど、と声を洩らして、和彦はバッグを手にリビングに戻る。治療するなら、服装はラフなほうがいいので、洗濯したままソファの上に置いてあったTシャツを取り上げる。
『総和会に依頼したのは、昭政組の難波組長です』
久しぶりに聞いた名に、つい和彦は眉をひそめる。かつて、難波の愛人――由香を治療したことがあるのだが、そのとき難波に侮辱されたことは、いまだによく覚えている。
難波個人にあまりいい印象は持っていないが、そんな男でも自分の愛人には甘いようだ。和彦に対する態度で由香から何か言われたらしく、治療をすべて終えたときには、一応礼を言ってもらえた。
その由香は、今でもときどき電話をくれ、美容関係の相談を受けている。すでに、和彦の顧客のようなものだ。
『先生の腕を買っているようですよ。外見に関わる怪我だから、佐伯先生に診てもらいたいと指名されたそうです』
「外見を気にかけるということは、まさか患者は女性じゃ――」
『いえ、難波組長のご子息のようです。まだ学生ですが、仲間と派手に暴れた挙げ句に、チンピラに殴られたと』
和彦の脳裏を過ったのは、千尋の顔だった。子犬呼ばわりされながらも、千尋も血の気は多いほうだが、それでも分別をつけるだけの思慮はある。
千尋が殴られて骨を折ったと知ったら、自分はこんなに冷静ではいられないだろうなと思いながら、和彦は電話を切る。
すでに迎えの車を向かわせていると言われたので、急いで準備をしないといけない。
ここまでぼんやりと過ごしていたが、そろそろ気持ちを切り替えるときが来たようだ。
顔立ちが難波そっくりの青年は、非常に扱いにくい患者だった。父親に似て威圧的とか粗暴というわけではなく、反対に、臆病なのだ。
和彦が麻酔用の注射を手にしただけで、血の気が失せた顔をさらに蒼白にして、脂汗を流し、唇を震わせる。肌に針が触れてもいないうちに、小さな悲鳴まで聞かせてくれた。
和彦が注射を手にしたまま待っていると、難波の息子は言い訳するように言った。
「……別に、あんたの腕を信じてないわけじゃないんだ。ただ、一方的に痛めつけられるのは、誰だって苦手だろ」
大学三回生とは言いながら、留年を繰り返し、すでに二十三歳となっている青年の言葉に、マスクの下で和彦は苦笑する。派手な大乱闘を繰り広げたばかりの人間とは思えない発言だ。
「治療しないと、痛いままだぞ。今は、鼻に詰め込んだガーゼに麻酔薬を浸してあるから、痛みが麻痺しているだろうけど。この局所麻酔をしたら、さっそく手術に入ろう。そう、時間のかかる手術じゃない」
「でも、鼻の骨を弄るんだろ」
『ということは、体調がよくなったら、俺と会ってくれるということか』
「ああ、約束する。美味いランチを奢らせてもらう」
『そういうことなら仕方ない。都合がよくなったら、いつでも連絡してこいよ。――忘れるなよ』
しっかりと釘を刺され、和彦は思わず笑ってしまう。
「大丈夫だ。なんなら、催促のメールをしてくれ」
近いうちに会う約束を交わして電話を切ると、ベッドの上に座り込んだまま、和彦はぼんやりとする。
澤村からの電話を切った瞬間、和彦にとっての日常が戻ってくるのだ。そのギャップに、戸惑っていた。
だがそれも、わずかな間だ。いつまでも寝室にこもっているのも不健康なので、書斎に移動しようかと思ったのだが、床に足を着ける前に、また携帯電話が鳴った。
「――……急に人気者になったな……」
そんなことを独りごちた和彦は、ベッドの上に放り出していた携帯電話を取り上げる。今度の電話は、長嶺組からだった。
これこそ自分の日常に相応しい電話の相手だと、自嘲でもなんでもなく、心底思ってしまう。
『先生、仕事です』
「相手の容態は?」
話を聞きながら和彦は寝室を出て、さっそく出かける準備を始める。
『怪我そのものは大したものじゃないと思います。顔をひどく殴られていて、鼻血がひどい。多分、骨が折れています』
クロゼットからバッグを出していた和彦だが、それを聞いて一旦動きを止める。
「……鼻が潰れた組員なら、何人か見たことがある。あれはあれで、凄みが増していいんじゃないか」
和彦の悪趣味な冗談は通じたらしく、電話の向こうで組員が低く声を洩らして笑う。こういう会話が交わせる程度には、長嶺組に馴染んでいるのだ。
『表で動く組員は、見た目も大事なんですよ。それに――うちの者じゃないんです。診てもらいたいのは。総和会から回ってきた仕事です』
なるほど、と声を洩らして、和彦はバッグを手にリビングに戻る。治療するなら、服装はラフなほうがいいので、洗濯したままソファの上に置いてあったTシャツを取り上げる。
『総和会に依頼したのは、昭政組の難波組長です』
久しぶりに聞いた名に、つい和彦は眉をひそめる。かつて、難波の愛人――由香を治療したことがあるのだが、そのとき難波に侮辱されたことは、いまだによく覚えている。
難波個人にあまりいい印象は持っていないが、そんな男でも自分の愛人には甘いようだ。和彦に対する態度で由香から何か言われたらしく、治療をすべて終えたときには、一応礼を言ってもらえた。
その由香は、今でもときどき電話をくれ、美容関係の相談を受けている。すでに、和彦の顧客のようなものだ。
『先生の腕を買っているようですよ。外見に関わる怪我だから、佐伯先生に診てもらいたいと指名されたそうです』
「外見を気にかけるということは、まさか患者は女性じゃ――」
『いえ、難波組長のご子息のようです。まだ学生ですが、仲間と派手に暴れた挙げ句に、チンピラに殴られたと』
和彦の脳裏を過ったのは、千尋の顔だった。子犬呼ばわりされながらも、千尋も血の気は多いほうだが、それでも分別をつけるだけの思慮はある。
千尋が殴られて骨を折ったと知ったら、自分はこんなに冷静ではいられないだろうなと思いながら、和彦は電話を切る。
すでに迎えの車を向かわせていると言われたので、急いで準備をしないといけない。
ここまでぼんやりと過ごしていたが、そろそろ気持ちを切り替えるときが来たようだ。
顔立ちが難波そっくりの青年は、非常に扱いにくい患者だった。父親に似て威圧的とか粗暴というわけではなく、反対に、臆病なのだ。
和彦が麻酔用の注射を手にしただけで、血の気が失せた顔をさらに蒼白にして、脂汗を流し、唇を震わせる。肌に針が触れてもいないうちに、小さな悲鳴まで聞かせてくれた。
和彦が注射を手にしたまま待っていると、難波の息子は言い訳するように言った。
「……別に、あんたの腕を信じてないわけじゃないんだ。ただ、一方的に痛めつけられるのは、誰だって苦手だろ」
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「治療しないと、痛いままだぞ。今は、鼻に詰め込んだガーゼに麻酔薬を浸してあるから、痛みが麻痺しているだろうけど。この局所麻酔をしたら、さっそく手術に入ろう。そう、時間のかかる手術じゃない」
「でも、鼻の骨を弄るんだろ」
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