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第10話
(16)
しおりを挟む普段よりスピードを上げてランニングマシーンで走りながら、和彦は正面の大きな窓の向こうに広がる景色を一心に見据えていた。当然のように、いくら走ったところで景色は変わらない。
体を動かすだけなら、スポーツジムで問題はないのだが、そこに、外の空気も吸いたいという希望が加わると、なかなか難しい。
せめて、マンションの周囲でジョギングぐらいしたいと思っていても、賢吾に切り出す前に返事は予測がついた。わかった、と返事をしたあと、毎朝組員と一緒に走ればいいと、当然のように言うだろう。
「――先生、心拍数がちょっと上がりすぎじゃないですか」
突然、傍らにやってきた人影に話しかけられ、ぎょっとする。いつの間に側にやってきたのか、中嶋がランニングマシーンのパネルを覗き込んでいた。
答えるには息が上がっており、和彦はひとまずマシーンを降りてから、肩で大きく息をする。滴り落ちる汗を拭ってようやく、中嶋と向き合った。どうやら中嶋のほうも、すでに体を動かしたあとらしく、Tシャツが汗で濡れている。
「ちょっと考え事をしていたら、いつもよりペースを上げすぎたみたいだ」
「俺も、ウェイトのほうでがんばりすぎましたよ。……体を動かしていないと、いろいろと考え込んでしまうんで」
ゆっくりと腕を回しながら、中嶋は笑う。いつもと変わらない表情に見えるが、和彦はなんとなく身構えてしまう。
そんな和彦に対して、中嶋は自然な口調でこう切り出した。
「――先生、ラウンジで休みませんか?」
「ああ……、そうだな」
ぎこちなく応じた和彦は、汗を拭きながら中嶋とラウンジに移動した。
仕事抜きで中嶋と相対するのは、正直きつい。先日、接待されたときも、中嶋の反応がひどく気になったのだ。和彦相手に感情を吐露する男でもなく、ただ視線だけが突き刺さる。だがこれは、和彦の後ろ暗さの表れでもある。
中嶋は、秦を慕っている。ホスト時代の後輩と先輩、ヤクザとヤクザのごく側に身を置く男。何より、中嶋にとって秦は恩人だ。筋者らしい表情で、秦は自分の手札になると言いながら、本当にそうできるのか、怪しいものだ。
中嶋と秦の奇妙な結びつきを知っていると、キスシーンを見られたのは非常にマズイ。だから和彦は、スポーツジムを利用するのも、いつもより早めの時間にしたのだ。さすがに中嶋と、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
若いビジネスマンのような外見ながら、実は切れ者のヤクザである中嶋に、あれは秦の冗談だと話しかけるのも、わざとらしい。
秦が何かしらフォローしていればいいが――。
頼んだコーヒーを啜った和彦に、中嶋は静かな迫力を湛えた眼差しを向けてくる。そのくせ口元には笑みを刻んでいるのだ。
中嶋にしてみれば、長嶺組の組長のオンナが、自分の慕う人物をたぶらかしていると思っているのかもしれない。
自分で自分を追い詰めるようなことを考えた和彦は、居たたまれなさから、つい視線を周囲へと向ける。すると、こちらの緊張が伝わったのか、笑いを含んだ声で中嶋が言う。
「先日の秦さんの行動なら、別になんとも思っていません。あの人はホストをしていた頃から、気に入った相手には、ボディータッチが激しかった。キスなんて、それこそしょっちゅう、していましたよ。……まあ、あんなことをする秦さんは、久しぶりに見ましたけど」
秦にされた行為がキスだけなら、和彦のこの言葉に心底安堵しただろう。だが現実は、和彦は秦と、危うく関係を持ちそうになった。あれは、ボディータッチが激しかったというレベルのものではない。
中嶋は秦のそんな面を知っているのか、そのうえで鎌をかけられているのかと、和彦は疑心に陥る。そこで、反対に探ってみることにした。
「……ということは、君もされたのか。あの傍迷惑な行為を」
和彦の問いかけに、中嶋は苦みを感じたように唇を歪める。
「どうやら俺は、秦さんの好みじゃないらしい。あの人は、冗談に対して、ムキになって反応する人がタイプなんですよ。男女関係なく。俺はそういうのは苦手なんです。ホストをしていたから、演技として相手の会話に乗ることは得意だけど、素で反応して見せろと言われたら、本当に困ってしまう」
「君のそういうところが気に入っているから、彼は助けてくれたり、今もつき合いがあるんじゃないのか」
「どうでしょうね。俺が、秦さんのことを突っ込んで知りたがらないから、気楽なのかもしれません。俺はこれでも、総和会のヤクザですからね。名前を出せば、あの人の番犬にはなる」
「そんな――」
「俺も、秦さんを手札にするとか企んでいるんですから、お互い様ですよ。そう思われていたとしても」
ふと気になることがあり、率直に尋ねた。
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