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第9話
(13)
しおりを挟む和彦はオレンジジュースをもらってから、ホールの隅に置かれたイスに腰掛ける。グラスに口をつけながら、ようやく落ち着いて店内を見回すことができた。
さほど大きな店ではないのだが、秦らしくインテリアに凝っており、華美さを極力抑えていながら、どことなく高級感が漂っている。だからといって肩が凝るほど格式張ってもいないので、不思議な居心地のよさがあった。落ち着いて食事を楽しみたい人間には、使い勝手のいい店だろう。
経営者が秦でなければ、自分でも贔屓にしたかもしれない。そんなことを考えながら、つい気を緩めていた和彦だが、客と会話を交わしていた秦と偶然目が合い、反射的に背筋を伸ばす。
いつにも増して艶やかで、女性客の視線をほぼ独占している美貌の男は、品のいい笑みを湛えて和彦の側にやってきた。顔の痣はすっかり消えており、表面上は、物騒なこととは無縁そうな実業家然としている。
ただ、右手には包帯を巻いたままだ。そろそろ抜糸の心配をしなくてはならないが、さてどこで、ということになる。秦と二人きりになる危険性はよくわかっているので、和彦に同行する人間も必要だ。考えるだけで、頭が痛くなってくる。
そんな和彦の気苦労も知らず、秦は穏やかな声で話しかけてきた。
「――壁の華、という表現は失礼ですか。先生のように魅力的な方に対して」
「来ている女性たちの熱い視線を独り占めしている男が、何言ってるんだ」
「先生こそ。女性のお客さまだけじゃなく、男性のお客さまの中にも、先生を気にされている方がいますよ」
じろりと睨みつけると、悪びれた様子もなく秦は軽く辺りを見回した。
「先生は、ほんの少しでも同性に興味のある男を、妙に落ち着かない気分にさせるんですよ。自覚がなかった男の中から、どんどん欲望を引き出して、あっという間に取り込んで……骨抜きにしてしまう」
「……なんか、引っかかる言い方だな。性質の悪い女だと言われているみたいだ」
「女じゃなく、〈オンナ〉でしょう。怖い男たちに大事に大事にされている、特別なオンナですよ」
「おい――」
和彦が声を荒らげようとしたとき、さらりと秦が言葉を付け加えた。
「もちろん、わたしにとっても」
こんな場で怒鳴りつけるわけにもいかず、さらに毒気も抜かれたような状態になり、和彦は肩を落としてイスに座り直す。秦は声を洩らして笑ったが、すぐに、微かに眉をひそめて、胸元に手をやろうとした。秦のその仕種で、和彦はあることを思い出した。
「そういえば、肋骨を折っていたんだな。客の前で平然としているから、すっかり忘れていた」
「さすがに、お客さまの前で醜態を見せるわけにはいきませんから。先生は特別ですよ。事情を知っているから、つい気が緩む」
肋骨を折ってはいても、秦の口は滑らかだ。どうやって反撃してやろうかと考えながら和彦は、ぐいっとオレンジジュースを飲み干す。そんな和彦を、秦はおもしろそうに見下ろしていた。
「お代わりをお持ちしましょうか?」
「いい。あとで自分で取ってくる」
和彦の返事に、ああ、と納得したように秦は声を洩らす。
「また、薬を盛られることを警戒しているんですね」
「さすがにこんな場で、不埒なことをするとは思いたくないが……念のためだ」
ここで二人組の女性客が秦に話しかける。このまま和彦の側から離れるかと思ったが、秦は愛想よく会話に応じはしたものの、ウェイターを呼んで、女性客を料理の置かれたテーブルへと案内させた。そして、和彦に向き直る。
「――招待はしたものの、先生に来ていただけると、確信はしていなかったんですよ」
秦はさりげなく和彦の手から、空になったグラスを取り上げた。
「ぼくも、正直行くつもりはなかった。ただ、行くよう言われたんだ」
「組長から?」
「あの男は、ぼくの飼い主だからな。命令されれば、逆らえない」
「来られるなら、どなたかとご一緒かと思っていたんですが――」
「……その口ぶりだと、ぼくを利用して、長嶺組長と関わりを持とうとした目論見は、今のところうまくいってないみたいだな」
このことについても、当然和彦は、賢吾に話してある。それでも賢吾は、秦に対してなんらかの行動を起こした様子もなく、果たして考えがあるのか、単に秦の存在が目に入っていないのか、限りなく堅気に近い和彦に推し量ることはできない。
「いつ、マンションのドアを蹴破って、長嶺組の方たちが雪崩れ込んでくるか、待っているのですけどね。今のところ、それはないですよ。だからこうして肋骨が折れた体で、派手なパーティーも開ける」
「調子に乗っていると、痛い目を見るぞ」
和彦の忠告に対する返事のつもりか、秦は様になる仕種で肩をすくめると、次の客の相手に向かった。
秦に、壁の華呼ばわりされて癪なので、立ち上がった和彦は壁際から離れる。ソフトドリンクばかりを飲んでいても仕方ないため、せっかくなので料理を堪能しておくことにした。
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