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第8話
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しおりを挟むギシッと微かにベッドを軋ませながら覆い被さってきた賢吾が、無遠慮に和彦の顔を覗き込んでくる。
「――先生は、精神状態がわかりやすいな」
芝居がかったような優しい表情で賢吾が言い、対照的に和彦は、不機嫌な表情で応じた。
「人が調子が悪いと言っているのに、ズカズカとベッドの上まで乗り上がってくるな」
「自分のオンナの体調を気にして、何が悪い?」
悪びれることのない賢吾の言葉に、さらに和彦の気分は滅入る。ふいっと顔を背け、ブランケットでしっかり口元まで隠す。
「……仕事はしっかりやっている。今日は、死なせるなと言われている患者の治療もしたし、ヤク中のガキの口に活性炭も放り込んできた」
「まずくて堪らないらしいな、活性炭ってのは。――普通は水に溶いて胃に直接流し込むものらしいが」
「まずいからといって死にはしない。いい教訓だろ。薬で一時気持ちよくなったところで、あとがつらいって」
「うちの組に出入りするガキどもの、生活指導の先生もやってみるか?」
和彦はますます眉をひそめ、とうとう頭までブランケットを被ろうとしたが、すかさず剥ぎ取られ、賢吾に唇を塞がれそうになる。和彦は本気で抵抗して、顔を押し退けた。このとき、賢吾の目から一切の感情が消え、凍えるほど冷たい眼差しを向けられる。
「本当に調子が悪そうだ」
「さっきからそう言っている」
ようやく和彦の上から退いた賢吾が、ベッドの端に腰掛ける。
「――何かあったのか、先生? 繊細な先生が、ときどき思い出したように塞ぎ込むことはあったが、今回は少し様子が違う」
賢吾の片手が伸びてきて、怯える猫の機嫌をうかがうように髪に触れてくる。
「心配事でもあるのか」
「別に……」
「そんな憂鬱そうな顔をして、別に、はないだろ。気づいてくれと言っているようなものだぞ」
口元に笑みを湛えている賢吾を、和彦は見上げる。言いたいこと――というより、告白したいことはいくらでもあるが、どうしても声となっては出てこない。
和彦は、自分が今いる世界が怖かった。賢吾が怖いし、自分を取り巻く男たちが怖かった。本当は診察のためにこの部屋を出ることすら怖かったのだ。それを悟られまいと必死に虚勢を張っていたが、気力を使い果たしてしまい、帰ってからは、こうして体も起こせない。
鷹津から言われた言葉が、ずっと頭の中を駆け巡っている。あの男は嫌いだが、今のこの状況から和彦を引き上げてくれる唯一の存在かもしれない。それがわかっていながら、即座に鷹津を頼れなかったのは、あの男の放つ胡散臭さのせいばかりではない。
今の生活から本当に抜け出したいのか、和彦の中でもはっきりしていないからだ。仕事の見返りとして与えられる報酬以上に、自分を縛り付けてくる怖い男たちの執着が、何よりもの充足感を与えてくれる。
それを失って元の生活に戻れる自信が、和彦にはなかった。
黙り込んでしまった和彦のあごの下を、賢吾がくすぐってくる。
「秘密を持つ先生の顔は艶っぽくて好きだが、今、抱えている秘密は性質がよくないものだな。せっかくの色男ぶりがくすんで見える。それはそれで、妙に嗜虐的なものを煽られるが」
賢吾が身を屈め、もう一度和彦の唇を塞いでこようとする。今度は、素直に受け入れた。柔らかく唇を吸われ、ぎこちなく和彦も応じているうちに、舌先を触れ合わせるようになる。賢吾は優しかった。
和彦の頬を撫で、髪を梳きながら、思いがけない提案をしてきた。
「――明日一日、先生に三田村をつけてやる。その間、組からは一切連絡を入れない。自由に二人で過ごせ」
目を丸くする和彦に賢吾は笑いかけてきたが、身の内に大蛇を潜ませている男は、ヒヤリとするようなことを言った。
「その一日で、抱えた秘密を三田村に吐き出せ。三田村は、その秘密を抱えて俺のところに戻ってくる。俺に直接話すより、気は楽だろ?」
この男は実は、和彦が抱えてしまった秘密をすでに把握しているのではないかと思い、身震いする。
鷹津から、元の生活に戻してやれると唆されたことだけでなく、秦が何かしら企んでいることも、すべて――。
賢吾の唇が耳に這わされ、和彦は声を洩らす。羽毛でくすぐるような愛撫を施してきながら、さらに賢吾は、魅力的なバリトンで鼓膜を震わせてきた。
「お前は、大事で可愛いオンナだから、俺はここまでしてやるんだぜ。傷つけないよう、怯えさせないよう、な。お前は何も怖がる必要はない。そうだろ?」
怖気とも疼きとも取れる感覚が背筋を駆け抜ける。優しい囁きだけで屈服させられ、和彦は頷くしかなかった。
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