血と束縛と

北川とも

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第8話

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 本人が言う通り、秦の額にはじっとりと汗が滲んでいた。折れた肋骨どころか、全身が痛くてたまらないのだろう。
「……中嶋くんが鎮痛剤を買ってくるまで、黙っていろ。市販のものだから、そう強い効き目は期待できないだろうが、少しは楽になる――」
 秦の右手が後頭部にかかり、和彦は全身を強張らせる。ゆっくりと頭を引き寄せられると、逆らえなかった。それどころか、秦の胸に体重をかけないよう、必死にベッドに手を突いて自分の体を支える。
 これは、和彦の優しさでもなんでもない。患者に対する医者としての当然の気遣いだ。そこを秦は逆手に取った。
「先生なら、暴れませんよね? わたしは今、肋骨が折れていて、てのひらは縫ったばかりです。先生がちょっと抵抗するだけで、ひどいことになる」
「それは……、自業自得だ」
「なら、態度で示してください」
 さらに頭を引き寄せられて、息もかかるほど間近に秦の顔が迫る。あっ、と小さく声を洩らしたときには唇を塞がれていた。
 反射的に頭を上げた和彦だが、秦が顔をしかめる。それだけで、和彦はもう動けなくなる。途端に秦はニヤリと笑った。まだ麻酔が効いているので、てのひらの傷が痛むわけがないのだが、麻酔が効いているからこそ、縫ったばかりの傷に負担をかけられない。
「――わたしが満足するまでキスしてくれたら、おとなしくしますよ」
 そう言った秦の表情は、普段の優雅さはなく、やはり苦しげだ。
 ヤクザだけでなく、ヤクザの世界のごく近くに身を置く男も、まともではない。そう思いながら和彦は、間近から秦を睨みつける。それでも、再び頭を引き寄せられて唇を塞がれても、今度は身じろがなかった――身じろげなかった。
 すでにもう発熱しているのか、やけに熱い秦の唇と舌が、和彦を求めてくる。唇を吸われ、こじ開けるようにして口腔に舌が侵入してくる。感じやすい粘膜を柔らかく舌先でまさぐられ、歯列をくすぐられてから、下唇と上唇を交互に吸われていた。
 戸惑うほど穏やかで、優しいキスだ。だが、官能的だ。
 体の奥が熱くなるのを感じ、和彦はわずかにうろたえながら、秦と間近で見つめ合う。すると、唇を触れ合わせたまま秦に囁かれた。
「こんなキスじゃ、先生も満足できないでしょう?」
「……調子に乗るな」
 秦が洩らした熱い吐息が唇に触れ、再び秦の舌を口腔に受け入れてしまう。それどころか――。
「んっ……」
 舌先が触れ合い、探り合っているうちに、秦に舌を搦め捕られていた。握られていた手が放され、秦の左手が和彦が腰にかかる。この瞬間、ゾクリとするような疼きを感じた。
 本意ではないものの、秦と緩やかに舌を絡め合う。妙な脅迫による口づけを終わらせるためには、やむをえなかった。
 そのうちに、後頭部にかかっていた秦の手が退けられる。同時に熱っぽい吐息を洩らし、つらそうに目を閉じた。
 和彦は少々意地の悪い気持ちになりながら、やっと体を起こす。
「……先生に生気を分けてもらえました」
 掠れ声で秦がそんなことを言い、本気で和彦は呆れた。本来は殴りたいところだが、代わりに秦の乱れた前髪をさらりと梳いてやる。
「話して痛みを誤魔化そうとしているだろ」
「わかりますか?」
「――余計なことを言う前に、中嶋くんが戻ってきたら、きちんと礼を言えよ」
 秦がちらりと笑みをこぼす。
「先生は優しいですね」
「おかげで、ヤクザに付け込まれてばかりだ」
 苦々しく和彦が応じると、秦は短く声を洩らして笑った。


 必要なものを買い揃えて中嶋が部屋に戻ってくると、和彦は冷湿布を貼るなどして必要な処置を手早く済ませる。胸を固定するためコルセットを装着した秦の口に、鎮痛剤を放り込んでやり、今後の対応をメモに書き記して中嶋に渡した。
 さすがに夜の定時連絡を済ませたとはいえ、部屋をいつまでも空けておくのは心配だったため、中嶋とゆっくりと話す余裕もなかった。それに、秦との間に何があったのか、悟られるのが嫌だったというのもある。
 何かあれば携帯電話に連絡するよう、新しい番号とメールアドレスとともに中嶋に言っておいたが、帰宅した和彦がシャワーを浴びて出てくると、さっそくメールが届いていた。秦の容態に問題が起きたというわけではなく、丁寧な礼のメールだ。
 中嶋には申し訳ないが、返信を送った和彦は、即座にそれらのメールを削除する。長嶺組の誰かにメールを調べられでもしたら、今夜の秘密の行動を知られてしまう。
 頼まれたからとはいえ、我ながら大胆な行動を取ったと、和彦は小さく身震いする。もし賢吾にバレたらと考えると、怖くてたまらなかった。

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