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第8話
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秦の顔を見た瞬間、全身の血が凍りつくような気がした。自分の足で立っているという感覚すらなくなったが、手に持っていたバッグを足元に落とした音で、ようやく和彦は我に返る。
「彼が……」
硬い声を発すると、隣に立った中嶋が頷く。
「電話で秦さんの名前を出さなかったのは、そう頼まれたからです。俺としては、秦さんの名前を出したほうが、先生は助けてくれると言ったんですけど、頑として聞き入れなくて」
「それで、ぼくを騙すようにして呼び出したのか」
意識しないまま、和彦の口調は怒りを含んだものとなる。
秦がどうして、電話で自分の名を出すことを許さなかったのか、その理由が和彦にはわかっていた。誰も好きこのんで、リスクを冒してまで脅迫者を助けたりはしない。だからこそ秦はまず和彦を呼び出し、現場で自分の存在を知らせることにしたのだ。
中嶋の様子からして、二人の間に何があったのか関知していないのだろう。つまり中嶋は悪くない。理屈ではそうなのだが――。
「先生っ」
和彦が帰ろうとすると、中嶋が驚いたような声を上げる。かまわず行こうとしたが、素早く中嶋が前に回り込んできた。和彦の異変に気づいたらしく、中嶋まで強張った顔をしている。
「どうかしたんですか?」
必死の顔で問いかけられ、和彦はわずかに視線を伏せる。
「……悪いが、彼は診てやれない。組に隠れて医療行為を行うのは、やっぱりやめておきたい。あとあと面倒になる」
「でも、ここまで来てくれたじゃないですかっ」
「気が変わった」
中嶋を避けていこうとしたが、すかさず両腕を広げて阻まれる。さすがに和彦も鋭い視線を向けた。
「そんなに医者に診てもらいたいなら、救急車を呼べばいい。病院から怪我についてあれこれ詮索されても、彼は組関係者じゃないんだ。警察に連絡されても、なんとでも切り抜けられるだろう」
「組関係者じゃなくても、組と繋がりはあります。そこを突っ込まれると、秦さんの立場が危うくなりかねないんです」
「それは、ぼくが心配することじゃない」
和彦が言い切ると、中嶋が唇を引き結び、初めて見せる厳しい表情となる。恫喝されるのだろうかと身構えそうになったが、次の瞬間、中嶋は意外な行動に出た。
床に額を擦りつけるようにして、土下座をしたのだ。
「中嶋くんっ……」
「お願いしますっ。秦さんを診てください。先生だから、頼るんです。俺がもっと総和会の中で力があれば、別の方法もあったかもしれない。だけど今は――先生しかいないんですっ」
中嶋は必死だ。このまま和彦が玄関に向かおうとしたら、今度は足にしがみついてきても不思議ではない。見た目は普通の青年でも、本性は切れ者のヤクザだ。相手を従わせる手段など、いくらでも持っているだろう。
それに、あまりに中嶋が必死で、振り切って帰るのは良心が咎めた。賢吾なら、それは良心ではなく、和彦の甘さだと言って鼻先で笑いそうだが。
和彦は軽く息を吐き出すと、部屋に引き返す。
「先生……」
「一応、君に世話になったという自覚はあるからな」
秦が横になっている部屋に入った和彦は、まず中嶋にハサミを持ってこさせ、破れたワイシャツを切って脱がせる。少し迷ってから、中嶋に手伝ってもらい、スラックスも脱がせた。ベルトで腹部を圧迫したくなかったし、何より、全身の検分をする必要がある。
その間、秦は苦しげな呼吸を繰り返すだけで、目を開けなかった。意識が朦朧としているのか、痛みで目も開けられないのだろうが、和彦は頓着しない。それよりも今は、診察に集中する。
秦の引き締まった体を一目見て、そっと眉をひそめる。顔の殴られた跡からある程度の惨状は予測していたが、それを上回る暴行の跡が残っていた。拳で殴られたものではなく、硬い棒状のものでめった打ちにされてできたものだ。
普通、殴られるとわかったら人は体を丸め、その結果、背や脇腹が傷だらけになるものだが、胸や腹がこれだけひどい有様だということは、秦の体は押さえつけられたうえで、容赦なく痛めつけられたということになる。
秦の体に慎重に触れながら、骨折していないか探る。病院に運べば、内臓からの出血も早期にわかるのだろうが、ここでは、なんらかの異変が出るまで知ることはできない。
「……肋骨が折れている」
「やっぱり。秦さんをここに連れて来るとき、胸が痛いと言っていたんです」
中嶋に秦の体を少しだけ抱え起こしてもらい、背の怪我も診る。こちらも打撲がひどい。ただ、頭には腫れもなく、殴られた形跡はなかった。少なくとも、秦を殺すために暴行したわけではないようだ。
「一体、彼に何があったんだ」
「彼が……」
硬い声を発すると、隣に立った中嶋が頷く。
「電話で秦さんの名前を出さなかったのは、そう頼まれたからです。俺としては、秦さんの名前を出したほうが、先生は助けてくれると言ったんですけど、頑として聞き入れなくて」
「それで、ぼくを騙すようにして呼び出したのか」
意識しないまま、和彦の口調は怒りを含んだものとなる。
秦がどうして、電話で自分の名を出すことを許さなかったのか、その理由が和彦にはわかっていた。誰も好きこのんで、リスクを冒してまで脅迫者を助けたりはしない。だからこそ秦はまず和彦を呼び出し、現場で自分の存在を知らせることにしたのだ。
中嶋の様子からして、二人の間に何があったのか関知していないのだろう。つまり中嶋は悪くない。理屈ではそうなのだが――。
「先生っ」
和彦が帰ろうとすると、中嶋が驚いたような声を上げる。かまわず行こうとしたが、素早く中嶋が前に回り込んできた。和彦の異変に気づいたらしく、中嶋まで強張った顔をしている。
「どうかしたんですか?」
必死の顔で問いかけられ、和彦はわずかに視線を伏せる。
「……悪いが、彼は診てやれない。組に隠れて医療行為を行うのは、やっぱりやめておきたい。あとあと面倒になる」
「でも、ここまで来てくれたじゃないですかっ」
「気が変わった」
中嶋を避けていこうとしたが、すかさず両腕を広げて阻まれる。さすがに和彦も鋭い視線を向けた。
「そんなに医者に診てもらいたいなら、救急車を呼べばいい。病院から怪我についてあれこれ詮索されても、彼は組関係者じゃないんだ。警察に連絡されても、なんとでも切り抜けられるだろう」
「組関係者じゃなくても、組と繋がりはあります。そこを突っ込まれると、秦さんの立場が危うくなりかねないんです」
「それは、ぼくが心配することじゃない」
和彦が言い切ると、中嶋が唇を引き結び、初めて見せる厳しい表情となる。恫喝されるのだろうかと身構えそうになったが、次の瞬間、中嶋は意外な行動に出た。
床に額を擦りつけるようにして、土下座をしたのだ。
「中嶋くんっ……」
「お願いしますっ。秦さんを診てください。先生だから、頼るんです。俺がもっと総和会の中で力があれば、別の方法もあったかもしれない。だけど今は――先生しかいないんですっ」
中嶋は必死だ。このまま和彦が玄関に向かおうとしたら、今度は足にしがみついてきても不思議ではない。見た目は普通の青年でも、本性は切れ者のヤクザだ。相手を従わせる手段など、いくらでも持っているだろう。
それに、あまりに中嶋が必死で、振り切って帰るのは良心が咎めた。賢吾なら、それは良心ではなく、和彦の甘さだと言って鼻先で笑いそうだが。
和彦は軽く息を吐き出すと、部屋に引き返す。
「先生……」
「一応、君に世話になったという自覚はあるからな」
秦が横になっている部屋に入った和彦は、まず中嶋にハサミを持ってこさせ、破れたワイシャツを切って脱がせる。少し迷ってから、中嶋に手伝ってもらい、スラックスも脱がせた。ベルトで腹部を圧迫したくなかったし、何より、全身の検分をする必要がある。
その間、秦は苦しげな呼吸を繰り返すだけで、目を開けなかった。意識が朦朧としているのか、痛みで目も開けられないのだろうが、和彦は頓着しない。それよりも今は、診察に集中する。
秦の引き締まった体を一目見て、そっと眉をひそめる。顔の殴られた跡からある程度の惨状は予測していたが、それを上回る暴行の跡が残っていた。拳で殴られたものではなく、硬い棒状のものでめった打ちにされてできたものだ。
普通、殴られるとわかったら人は体を丸め、その結果、背や脇腹が傷だらけになるものだが、胸や腹がこれだけひどい有様だということは、秦の体は押さえつけられたうえで、容赦なく痛めつけられたということになる。
秦の体に慎重に触れながら、骨折していないか探る。病院に運べば、内臓からの出血も早期にわかるのだろうが、ここでは、なんらかの異変が出るまで知ることはできない。
「……肋骨が折れている」
「やっぱり。秦さんをここに連れて来るとき、胸が痛いと言っていたんです」
中嶋に秦の体を少しだけ抱え起こしてもらい、背の怪我も診る。こちらも打撲がひどい。ただ、頭には腫れもなく、殴られた形跡はなかった。少なくとも、秦を殺すために暴行したわけではないようだ。
「一体、彼に何があったんだ」
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