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第7話
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『病院で診てもらったら、警察に連絡される危険があります。だからこそ、先生に診てもらうしかないんです。……手の出血もひどいし、息遣いも苦しそうで……。数人の人間から襲われたらしいんです。俺が電話で呼ばれて駆けつけたときにはもう、倒れていて』
和彦の良心としては、中嶋の頼みを聞き入れたい。だが、もしこのことを賢吾に知られたときが怖かった。それに、鷹津という刑事に付け狙われているかもしれない状況で、組に知らせず動くのは、危険すぎる。
さすがにそこまで中嶋に説明するわけにもいかず、和彦はひたすら断る。だが、中嶋は引き下がらなかった。
『お願いします。俺も、単なる知人や友人なら、先生に診てほしいなんて言いません。だけどその人は、俺にとって特別なんです。ずっと世話になりっぱなしで、何も返せていない。このまま何もしないなんてできません』
和彦が知る限り、中嶋は野心家だ。計算ができる男なりに、和彦の存在は利用価値があると思っているはずだ。ただしその利用価値は、あくまで長嶺組や総和会という後ろ盾があってのものだ。和彦も、中嶋が総和会の人間だからこそ、あれこれと教えてもらっていた。
そんな中嶋が、個人的な情に訴えてきたのは予想外だった。
困り果てた和彦は何度も髪を掻き上げていたが、電話の向こうから絶えず聞こえてくる中嶋の懇願を無視して受話器は置けなかった。
「――……君は、診てほしい人間への借りが一つ返せていいかもしれないが、ぼくに対してはどうなんだ? 今度はぼくに対して、借りを一つ作ることになるぞ」
『かまいません。先生が必要とするときに、俺は何があっても借りを返します。だから今回は、俺を助けてください』
中嶋が本気で言っているのは、よくわかった。仮にこれが演技だったとしても、騙された自分を責めることはできないだろう。つまりそれぐらい、真剣だということだ。
和彦は乱暴に息を吐き出すと、こう尋ねる。
「怪我の状態を、できるだけ詳しく教えてくれ」
電話の向こうで、中嶋が安堵の吐息を洩らした。和彦は一瞬、中嶋には内緒で、長嶺組に事情を説明しようかと思ったが、中嶋が総和会にいられなくなる事態を危惧すると、それはできなかった。
野心家が、リスクを覚悟で連絡してきたのだ。それに報いなければいけない気がした。
中嶋から怪我の詳細と、どこに行けばいいのかを聞いた和彦は、電話を切るとすぐに出かける準備を始める。
今日はもう、組員が部屋を訪ねてくることはなく、携帯電話での定時連絡があるだけだ。電話に出て二、三言話せば済むので、部屋の電気さえつけておけば、和彦が出かけていることがバレる可能性は低い。――何事もなければ。
エレベーターでエントランスに降りながら、和彦の心臓はドクドクと大きく鳴っていた。近所への買い物程度なら、組員と鉢合わせしても平気だが、さすがに大きなバッグを持った状態では、なんの言い訳もできない。最悪、逃げ出そうとしていると取られるかもしれない。
慎重にエントランスをうかがうが、人の姿はなかった。早足で外に出て辺りをうかがうと、すぐにタクシーを停めて乗り込む。向かう先は、中嶋のマンションだった。
中嶋のマンションは繁華街のすぐ近くにあった。人と車が行き交う雑多な通りで、夜とはいってもにぎやかだ。
治安に少々不安を覚えそうな場所だが、中嶋のような仕事や、水商売をしている人間にとっては、これぐらいのほうが周囲に気をつかわなくていいのかもしれない。
渋滞に巻き込まれながら、なんとかタクシーをマンションの前で停めてもらうと、和彦は素早く周囲を見回してから降りる。皮肉なもので、渋滞のおかげで背後の車の特定が簡単だったため、尾行がついていないと確認するのは容易だった。
エントランスの前で、到着したと中嶋に連絡を入れ、オートロックを解除してもらう。
部屋があるというフロアまで上がると、中嶋がドアを開けて待っていた。和彦を見るなり、心底ほっとしたような表情を浮かべ、軽く片手を上げた。
「……本当に来てくれたんですね」
和彦が歩み寄ると、そんな言葉をかけられる。
「あれだけ頼まれたからな。だけど、先にこれだけは言っておく。――少しでも面倒事になりそうだと判断したら、組に報告する。その後の君の立場まではこちらも責任は持てない」
頷いた中嶋に促され、和彦は部屋に入る。
「君こそ、いいのか? 総和会に知られたらマズイんじゃないのか」
「それで怖気づくぐらいなら、先生に治療を頼んだりしませんよ。俺としては、先生にこうして来てもらうのは、大きな賭けなんです。……あの人は、先生は絶対他言しないと言い切ってましたけど」
「あの人……?」
和彦が住んでいるマンションほどではないが、それでも一人暮らしにしては十分すぎるほど広いリビングを通って、奥の部屋へと案内される。中を覗いた和彦は、大きく目を見開いた。
ワイシャツを引き裂かれたボロボロの姿でベッドに横たわっているのは、秦だった。
一目見て殴られたとわかる顔を苦痛に歪めた秦が、気配に気づいたのかこちらを見る。和彦と目が合うと、こんなときでも艶っぽい存在感を持つ男は、そっと笑いかけてきた。
和彦の良心としては、中嶋の頼みを聞き入れたい。だが、もしこのことを賢吾に知られたときが怖かった。それに、鷹津という刑事に付け狙われているかもしれない状況で、組に知らせず動くのは、危険すぎる。
さすがにそこまで中嶋に説明するわけにもいかず、和彦はひたすら断る。だが、中嶋は引き下がらなかった。
『お願いします。俺も、単なる知人や友人なら、先生に診てほしいなんて言いません。だけどその人は、俺にとって特別なんです。ずっと世話になりっぱなしで、何も返せていない。このまま何もしないなんてできません』
和彦が知る限り、中嶋は野心家だ。計算ができる男なりに、和彦の存在は利用価値があると思っているはずだ。ただしその利用価値は、あくまで長嶺組や総和会という後ろ盾があってのものだ。和彦も、中嶋が総和会の人間だからこそ、あれこれと教えてもらっていた。
そんな中嶋が、個人的な情に訴えてきたのは予想外だった。
困り果てた和彦は何度も髪を掻き上げていたが、電話の向こうから絶えず聞こえてくる中嶋の懇願を無視して受話器は置けなかった。
「――……君は、診てほしい人間への借りが一つ返せていいかもしれないが、ぼくに対してはどうなんだ? 今度はぼくに対して、借りを一つ作ることになるぞ」
『かまいません。先生が必要とするときに、俺は何があっても借りを返します。だから今回は、俺を助けてください』
中嶋が本気で言っているのは、よくわかった。仮にこれが演技だったとしても、騙された自分を責めることはできないだろう。つまりそれぐらい、真剣だということだ。
和彦は乱暴に息を吐き出すと、こう尋ねる。
「怪我の状態を、できるだけ詳しく教えてくれ」
電話の向こうで、中嶋が安堵の吐息を洩らした。和彦は一瞬、中嶋には内緒で、長嶺組に事情を説明しようかと思ったが、中嶋が総和会にいられなくなる事態を危惧すると、それはできなかった。
野心家が、リスクを覚悟で連絡してきたのだ。それに報いなければいけない気がした。
中嶋から怪我の詳細と、どこに行けばいいのかを聞いた和彦は、電話を切るとすぐに出かける準備を始める。
今日はもう、組員が部屋を訪ねてくることはなく、携帯電話での定時連絡があるだけだ。電話に出て二、三言話せば済むので、部屋の電気さえつけておけば、和彦が出かけていることがバレる可能性は低い。――何事もなければ。
エレベーターでエントランスに降りながら、和彦の心臓はドクドクと大きく鳴っていた。近所への買い物程度なら、組員と鉢合わせしても平気だが、さすがに大きなバッグを持った状態では、なんの言い訳もできない。最悪、逃げ出そうとしていると取られるかもしれない。
慎重にエントランスをうかがうが、人の姿はなかった。早足で外に出て辺りをうかがうと、すぐにタクシーを停めて乗り込む。向かう先は、中嶋のマンションだった。
中嶋のマンションは繁華街のすぐ近くにあった。人と車が行き交う雑多な通りで、夜とはいってもにぎやかだ。
治安に少々不安を覚えそうな場所だが、中嶋のような仕事や、水商売をしている人間にとっては、これぐらいのほうが周囲に気をつかわなくていいのかもしれない。
渋滞に巻き込まれながら、なんとかタクシーをマンションの前で停めてもらうと、和彦は素早く周囲を見回してから降りる。皮肉なもので、渋滞のおかげで背後の車の特定が簡単だったため、尾行がついていないと確認するのは容易だった。
エントランスの前で、到着したと中嶋に連絡を入れ、オートロックを解除してもらう。
部屋があるというフロアまで上がると、中嶋がドアを開けて待っていた。和彦を見るなり、心底ほっとしたような表情を浮かべ、軽く片手を上げた。
「……本当に来てくれたんですね」
和彦が歩み寄ると、そんな言葉をかけられる。
「あれだけ頼まれたからな。だけど、先にこれだけは言っておく。――少しでも面倒事になりそうだと判断したら、組に報告する。その後の君の立場まではこちらも責任は持てない」
頷いた中嶋に促され、和彦は部屋に入る。
「君こそ、いいのか? 総和会に知られたらマズイんじゃないのか」
「それで怖気づくぐらいなら、先生に治療を頼んだりしませんよ。俺としては、先生にこうして来てもらうのは、大きな賭けなんです。……あの人は、先生は絶対他言しないと言い切ってましたけど」
「あの人……?」
和彦が住んでいるマンションほどではないが、それでも一人暮らしにしては十分すぎるほど広いリビングを通って、奥の部屋へと案内される。中を覗いた和彦は、大きく目を見開いた。
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