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第7話
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しおりを挟む和彦は十日ほど、自宅に戻れない日々が続いた。一時も目が離せない患者に付き添い、容態が落ち着くのを待ってから、早急に二度目の手術を行う必要があったからだ。
ヤクザのオンナなどになってから、もっとも禁欲的な日々だったかもしれない。患者の傍らにいる間、とてもそんな気分にはならなかったし、何より、医療行為以外に使う体力が残っていなかった。
賢吾と千尋、それに三田村が部屋を訪れなかったのは、幸いといえるだろう。
床に敷いたマットの上で寝返りを打った和彦は、少しも疲れが取れていないのを自覚しつつ、仕方なく体を起こす。最初から仮眠程度のつもりで横になったのだ。
部屋を出ると、組員二人がダイニングで雑魚寝をしていた。和彦が外に出られないため、ここでの生活や治療に必要なものを彼らに頼んで運び込んでもらっているが、本来の仕事は、護衛だ。マンションの周囲でも、長嶺組の組員たちが交代で見張っているらしい。
恐れているのは他の組の襲撃などではなく、警察――というより、鷹津だ。令状をでっち上げて踏み込んでくる事態を想定しているのだ。
患者を動かせないため、別の部屋に移動するわけにもいかず、和彦だけでなく、長嶺組にとっても緊張感の高い日々が続いているようだ。
顔を洗って戻ってくると、もう一人の組員がテーブルの上にせっせと朝食を並べていた。目が合うと、いかつい顔に似合わない笑顔とともに、聞きもしないのに教えてくれた。
「いつもの、組長からの差し入れです」
どこかのレストランで作らせた朝食を、毎朝賢吾はこの部屋に運び込ませている。和彦の体調に配慮しているらしい。朝からこんなに食べられないという訴えは、当然のように無視されていた。
朝食をとる前に和彦は、患者の様子を診る。二度目の手術も終え、容態は安定している。ただ、固形物を食べられるようになるには、しばらく時間はかかるだろう。刃物で裂かれた臓器をあちこち縫い合わせているため、当分はベッドの上での生活となる。
傷が癒えても、日常生活ではかなり苦労するだろうが、少なくとも一命は取り留めた。この結果に賢吾は満足したようだ。
点滴や、傷口のガーゼは組員によってすでに交換されている。和彦の言いつけはしっかり守られており、患者の容態も落ち着いているため、和彦がもう付きっきりで側にいる必要はないだろう。
やっと外に出られると思った途端、気が抜けたのか、和彦は久しぶりに空腹を認識できた。
患者に異変が起きたらすぐに連絡してくるよう、何度も念を押して和彦が玄関を一歩出たとき、なぜか目の前には千尋が立っていた。
嬉しそうに顔を綻ばせ、目をキラキラと輝かせている千尋を見て、和彦の脳裏に浮かんだのは、人懐こい犬っころの姿だ。パタパタと振る尻尾がついていれば完璧だったと思いながら、ぎこちなく千尋の側に歩み寄る。
一応、和彦の飼い主の一人は千尋なのだが、これでは立場は逆だ。まるで和彦のほうが、この犬っころの飼い主のようだ。
「お前、なんでここに……」
「先生、今日は自分のマンションに戻るんだろ」
「どうして知って――」
言いかけたところで、答えがわかってしまった。朝のうちに賢吾に連絡をして、今日から自宅に戻ることを告げたのだ。それを賢吾が千尋に伝えたのは、当然のことだろう。そして千尋は、じっとしていられずにここまで来た。
「……悪いが、さすがに今日は、遊んでやれないぞ。お前と一緒にできることと言ったら、せいぜい同じベッドで、仲良く並んで寝ることぐらいだ」
「うん、それでもいいよ」
本当に嬉しそうな顔で返事をするから、千尋は怖い。和彦は大きくため息をつくと、千尋の髪をくしゃくしゃと掻き乱す。
「昼食にはまだ早いから、コーヒーぐらいならつき合える」
「コーヒーはいいから、マンションに帰る前にちょっとだけ俺につき合ってよ。すぐに済むから」
何事かと、露骨に訝しむ視線を和彦が向けると、苦笑しながら千尋に腕を取られて引っ張られる。
「先生、鷹津って刑事相手に、派手にやらかしたんだろ」
「失敬な。派手にはやらかしていないぞ。円満に話し合いを――」
千尋からニヤニヤと笑いかけられ、和彦は顔をしかめる。鷹津との間でどんなやり取りを交わしたか、和彦自身の口から説明はしなかったのだが、あのとき側にいた組員によって詳細に長嶺組内に伝わったらしい。
エレベーターに乗り込みながら千尋は、まるで自分のことのように嬉しそうに語る。
「オヤジとやり合ったこともある嫌な刑事相手に、一歩も引かなかったんでしょ? 先生って荒っぽいことは絶対嫌ってタイプかと思ってたけど、なんか最近、どんどんイメージが変わってきてるよ」
「それは……、堅気らしくなくなってきたってことか?」
「そういうんじゃなくてさ、なんていうか――、うちの組の連中は最初、先生のことを、オヤジが気まぐれで連れてきた風変わりな愛人としか思ってなかったんだ。俺もそれは肌で感じてた。だけど、今はそう思ってない。先生は、オヤジや俺だけじゃなく、組そのものにとって必要な人になった」
「そうやって甘いことを言うのが――」
「ヤクザの手口?」
言いたいことを先に言われ、ますます和彦は顔をしかめて見せる。すると千尋は楽しそうに声を上げて笑った。
ただ、和彦にとっては笑いごとではない。ヤクザに認められるということは、世間からの乖離が大きくなったということだ。ヤクザの世界に馴染んでいき、抜け出せなくなりそうな感覚は日々味わっているうえに、鷹津と対峙したとき、和彦は今の生活に感じている愛着を認識した。
愛着は、執着だ。この生活を手放したくないと思うようになったら、自分は――。
「先生」
千尋に呼ばれてやっと、エレベーターが一階に到着していることに気づく。和彦は慌ててエレベーターを降り、マンションから少し離れた場所に停められた車へと導かれる。
「それで、どこに行くんだ?」
後部座席に乗り込んでから和彦が尋ねると、千尋は片手を差し出してきた。
「先生、鷹津に返してもらった携帯持ってる?」
やっと千尋の目的がわかり、素直に携帯電話をてのひらにのせてやる。
「これから、新しい携帯買いに行こうよ。そして、番号も変更しよう」
「そうだな。正直、あの刑事が触っていたものを、いつまでも持っていたくない」
「オヤジに内緒で、俺と先生、色違いの同じ機種にしよう。ストラップはお揃いで」
「……聞いているだけで恥ずかしくなってくる……」
そう呟きながらも和彦は、嫌とは言わない。千尋の中では決定事項になっているはずなので、反対すると可哀想だ。
にんまりと笑った千尋が、車が走り出した途端、待ちかねていたように和彦をしっかりと抱き締めてきて、吐息を洩らした。
「何日ぶりだろ、先生の感触……」
不覚にも、和彦の胸は詰まる。たまらなく、千尋を愛しいと感じていた。
「――……甘ったれ」
優しい声で囁くと、子供のように照れた顔をした千尋が、当然のように唇を重ねてきた。
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