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第7話
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「もしもし……」
『わたしの柔な神経だと、三日目が限度でした』
開口一番の秦の言葉に、和彦は眉をひそめる。このとき、サイドミラーを通して三田村に表情を見られるのが嫌で、思わず背を向けていた。
「なんのことだ」
あんなことをされて、秦に敬語を使う気にもなれなかった。秦のほうも、些細なことだと感じているのか、会話を続ける。
『いつ、わたしの元に、長嶺組の怖い方々が押しかけてくるかと、ずっと怯えていたんですよ』
言葉とは裏腹に、秦の声はどこか楽しげだ。本当はそうなると思っていなかったかのように。
どうして、と言いかけて和彦は、口元に手をやる。
「……ぼくが、〈あんた〉との間にあったことを、組の誰かに話すと思ったのか」
『すっかり先生に嫌われましたね』
「当たり前だっ」
声を荒らげた次の瞬間には、車内の三田村の耳を気にして、声を潜める。
「あんなこと……言えるはずがない。ぼくの中では、なかったことにした。もう二度と、あんたとは関わらない。そっちからも連絡をしてくるな」
一息に告げたところで和彦は、あることに気づいた。
「なんで、三田村の携帯番号を知っている」
『先生が意識を失ったとき、迎えにきた三田村さんに、あとで詳しい事情を聞きたいからと言われて、番号を交換しておいたんです。あの場は、一刻も早く先生を連れ帰るのが先で、ゆっくり話せる状況じゃありませんでしたからね』
賢吾に詳しい報告をするために、確かに三田村ならそうするだろう。あのとき、眠り込む和彦を無理やり起こして事情を聞くこともできたはずだろうが、そうしなかったのは、三田村の優しさだ。もしかすると、賢吾が命令したのかもしれないが。
『三日目の今日、確信しました。先生は、わたしとのことを秘密として認めてくれたと』
「そんなことを確信して、なんの意味があるんだ」
『――秘密を楽しむためです。何より、刺激的だ。わたしと先生との間にあったことなら、官能的とも言えますね』
「ふざけているのか……」
秦の穏やかで囁くような甘い言葉を聞いていると、どんどん鼓動が速くなってくる。和彦自身、秦に秘密を――弱みを握られてしまったと認めてしまっている証拠だ。
『今、先生はドキドキしているでしょう? 側に三田村さんがいるんですよね。わたしにとっては運がよかったですよ。三田村さんに、先生と連絡が取れるよう頼むつもりだったんですが、その三田村さんと一緒だったんですから』
「……ぼくにとっては、最悪のタイミングだ」
『なら、今すぐ三田村さんに、わたしとの間に何があったか報告しますか? それなら少なくとも、わたしからの連絡に身構えなくて済みますよ』
自分は被害者なのだと、頭ではわかっているのだ。秦の外面のよさにすっかり騙された挙げ句、鷹津という刑事に絡まれて動揺しているところに、気づかないまま、アルコールとともに安定剤を飲まされた。
意識が朦朧としていなければ、あんなことは許さなかった――。
「面倒を引き起こす気はない。あんたと二度と関わらなければ、それで済む話だ。……ぼくを脅迫するようなマネをしたら、洗いざらい、組長にぶちまけるからな」
『怖いですね』
「これはハッタリじゃない。ぼくは本気でヤクザが怖いし、長嶺組と、その組長が何より怖い。だから、誤解を生むようなことはしたくない」
ここで和彦は、感じた疑問を率直に秦にぶつけた。
「ヤクザの怖さを知っているのは、そっちも同じはずだ。なのにどうして、ぼくに――長嶺組長のオンナに、あんなリスキーなことをした。ぼくが組長に泣きつく可能性のほうが高かっただろ。そうなったら絶対、無事では済まない」
『先生はできませんよ』
「なぜ言い切れる」
『――あなたは、長嶺組長のオンナではあっても、ヤクザじゃないから。そんな人が、暴力に訴えられるとも思えない。自分の手を汚さず、ヤクザに頼むとなったら、なおさらだ。先生にとっては大事な一線でしょう、それは。知り合ったばかりの男のために、越える勇気がありますか?』
その勇気があるなら、そもそもヤクザのオンナになどなっていないだろう。
穏やかな口調で、秦にそう嘲られたような錯覚を覚える。だがこれは、和彦自身の心の声なのかもしれない。
和彦は、自分が抱えた矛盾や迷いを、あえて直視することを避けてきた。そうしないと、自我を保って日々を過ごせなかったからだ。秦はそこを鋭く抉ってきた。
ぐっと言葉に詰まり、もう何も言い返せない。結局、逃げるように電話を切っていた。
急いで助手席に回り込んで車に乗った和彦は、三田村に携帯電話を返す。三田村は、携帯電話ではなく、和彦の手を握り締めてきた。
「先生、どうかしたのか?」
『わたしの柔な神経だと、三日目が限度でした』
開口一番の秦の言葉に、和彦は眉をひそめる。このとき、サイドミラーを通して三田村に表情を見られるのが嫌で、思わず背を向けていた。
「なんのことだ」
あんなことをされて、秦に敬語を使う気にもなれなかった。秦のほうも、些細なことだと感じているのか、会話を続ける。
『いつ、わたしの元に、長嶺組の怖い方々が押しかけてくるかと、ずっと怯えていたんですよ』
言葉とは裏腹に、秦の声はどこか楽しげだ。本当はそうなると思っていなかったかのように。
どうして、と言いかけて和彦は、口元に手をやる。
「……ぼくが、〈あんた〉との間にあったことを、組の誰かに話すと思ったのか」
『すっかり先生に嫌われましたね』
「当たり前だっ」
声を荒らげた次の瞬間には、車内の三田村の耳を気にして、声を潜める。
「あんなこと……言えるはずがない。ぼくの中では、なかったことにした。もう二度と、あんたとは関わらない。そっちからも連絡をしてくるな」
一息に告げたところで和彦は、あることに気づいた。
「なんで、三田村の携帯番号を知っている」
『先生が意識を失ったとき、迎えにきた三田村さんに、あとで詳しい事情を聞きたいからと言われて、番号を交換しておいたんです。あの場は、一刻も早く先生を連れ帰るのが先で、ゆっくり話せる状況じゃありませんでしたからね』
賢吾に詳しい報告をするために、確かに三田村ならそうするだろう。あのとき、眠り込む和彦を無理やり起こして事情を聞くこともできたはずだろうが、そうしなかったのは、三田村の優しさだ。もしかすると、賢吾が命令したのかもしれないが。
『三日目の今日、確信しました。先生は、わたしとのことを秘密として認めてくれたと』
「そんなことを確信して、なんの意味があるんだ」
『――秘密を楽しむためです。何より、刺激的だ。わたしと先生との間にあったことなら、官能的とも言えますね』
「ふざけているのか……」
秦の穏やかで囁くような甘い言葉を聞いていると、どんどん鼓動が速くなってくる。和彦自身、秦に秘密を――弱みを握られてしまったと認めてしまっている証拠だ。
『今、先生はドキドキしているでしょう? 側に三田村さんがいるんですよね。わたしにとっては運がよかったですよ。三田村さんに、先生と連絡が取れるよう頼むつもりだったんですが、その三田村さんと一緒だったんですから』
「……ぼくにとっては、最悪のタイミングだ」
『なら、今すぐ三田村さんに、わたしとの間に何があったか報告しますか? それなら少なくとも、わたしからの連絡に身構えなくて済みますよ』
自分は被害者なのだと、頭ではわかっているのだ。秦の外面のよさにすっかり騙された挙げ句、鷹津という刑事に絡まれて動揺しているところに、気づかないまま、アルコールとともに安定剤を飲まされた。
意識が朦朧としていなければ、あんなことは許さなかった――。
「面倒を引き起こす気はない。あんたと二度と関わらなければ、それで済む話だ。……ぼくを脅迫するようなマネをしたら、洗いざらい、組長にぶちまけるからな」
『怖いですね』
「これはハッタリじゃない。ぼくは本気でヤクザが怖いし、長嶺組と、その組長が何より怖い。だから、誤解を生むようなことはしたくない」
ここで和彦は、感じた疑問を率直に秦にぶつけた。
「ヤクザの怖さを知っているのは、そっちも同じはずだ。なのにどうして、ぼくに――長嶺組長のオンナに、あんなリスキーなことをした。ぼくが組長に泣きつく可能性のほうが高かっただろ。そうなったら絶対、無事では済まない」
『先生はできませんよ』
「なぜ言い切れる」
『――あなたは、長嶺組長のオンナではあっても、ヤクザじゃないから。そんな人が、暴力に訴えられるとも思えない。自分の手を汚さず、ヤクザに頼むとなったら、なおさらだ。先生にとっては大事な一線でしょう、それは。知り合ったばかりの男のために、越える勇気がありますか?』
その勇気があるなら、そもそもヤクザのオンナになどなっていないだろう。
穏やかな口調で、秦にそう嘲られたような錯覚を覚える。だがこれは、和彦自身の心の声なのかもしれない。
和彦は、自分が抱えた矛盾や迷いを、あえて直視することを避けてきた。そうしないと、自我を保って日々を過ごせなかったからだ。秦はそこを鋭く抉ってきた。
ぐっと言葉に詰まり、もう何も言い返せない。結局、逃げるように電話を切っていた。
急いで助手席に回り込んで車に乗った和彦は、三田村に携帯電話を返す。三田村は、携帯電話ではなく、和彦の手を握り締めてきた。
「先生、どうかしたのか?」
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